科学と聖書(4)

その1 その2 その3

前回は、科学理論としての生物進化と「進化思想」を区別すべきことについて書きました。科学と聖書を議論するときにもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「神にとって可能なこと」ことと「神が実際におこなったこと」を区別することです。

創世記1章には、神が「6日間」で天地を創造したと書かれています。この「6日間」をどう解釈するかが問題になるわけですが、若い地球の創造論(YEC)では、これを文字通り1日24時間と考えて、その6倍の時間で世界が創造されたと考えます。さらに、聖書にある系図などの計算から、この6日間の創造という出来事が今から数千年前に起こったと主張します。これに対して、創世記の「6日間」は文字通りの時間を表しているのではなく、創造はかなり長い時間をかけて――現代科学によると百数十億年のスケールで――起こったと考える立場もあります。

この投稿では、YECの是非を論じるのではなく、このような議論で時になされる主張に焦点を絞りたいと思います。神の創造が文字通りの6日間で起こったということは科学的にあり得ないという反論に対して、この説を擁護する人々は、「全能の神には不可能はない」と主張することがあります。神は文字通りの6日間で人間を含む全宇宙を創造することができる方だ、ということです。そこには、「文字通りの6日間での創造を否定するのは、神の全能性を否定することであり、福音的信仰にもとることだ」という含意があるように思います。

しかし、本当にそうでしょうか?

全能の神を信じるキリスト者であれば、もちろん神が文字通り6日間で宇宙を創造できることを受け入れられます。しかしそのことと、神が実際にそのようなやり方で世界を創造したのか、ということとは別の問題なのです。神が全能であるなら、世界を6日間で創造することができるだけでなく、一瞬のうちに創造することもできれば、何十億年という時間をかけて創造することもできるはずです。問題なのは、「神にとって可能なこと」「神がじっさいにおこなったこと」を区別することです。

神が世界をどのような方法で創造したのかについては、さまざまな可能性を考えることができますが、ではじっさいにはどうだったかを考える時、一つの有効な方法は、この被造物世界を観察して、それがたどってきた歴史を調べることです。そして、現代科学によると、この宇宙は百数十億年の歴史を持ち、地球上の生物は何十億年もかけて進化してきたように、少なくとも見えます。これについて、キリスト者はどう考えるべきでしょうか?

ある人々は、「神は実際には宇宙を数千年前に創造したが、ただし、じっさいよりもっと古い歴史を持っているかのような姿で創造した」と主張します。宇宙はいわば「年老いた姿で生まれてきた」というのです。そういった可能性を完全に否定することはできません。上にも書いたように、全能の神にはそのように宇宙を創造することも、もちろん可能です。しかし、もしそれが事実だとすると、そのことは創造者である神について何を語っているのでしょう? なぜ神は、実際には数千年の歴史しか持たない若い宇宙を、それよりはるかに「年老いた」姿に見せかけなければならないのでしょうか? 神が何らかの理由で私たちを欺いていると言うことでしょうか? 私には、この主張は被造物を観察することによって、創造主である神のご性質を知ることができるというパウロのことば(ローマ1章20節)にもとるように思えますし、一種の仮現論にも思えます。(キリスト論における「仮現論」は、イエスは実際に受肉したのではなく、人間になった「ように見えた」だけだ、という考えです。)

それよりも、この世界が現代科学が示唆するように広大で悠久の歴史を持つものとして創造されたとしたら(全能の神にはもちろんこのことも可能です)、それは自分たちの信仰にどのような意味を持っているのかを考えることの方が、私にはより建設的に思えるのです。

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神は全能であるだけでなく、絶対的に自由なお方です。神が全能であるから、時間をかけて世界を創造するはずがないと決めつけることはできません。むしろ、聖書を見ると神はいろいろなことをじっくりと時間をかけておこなうことを好まれるように思います。神の救いのわざのクライマックスであるイエス・キリストは、長いイスラエルの歴史の後にようやく到来しました(神の救いの計画は、イスラエルの始祖であるアブラハムよりもさらにさかのぼって、人類が堕落したその時から始まっているとも考えられます)。イエスが復活して昇天してからも、教会は長い間主の再臨を待ち望んできましたが、神は地上における神の国の働きを、今日まで二千年もかけて行ってこられました。そして神は、終末における救いの完成の時まで、忍耐をもって待っておられるのです(2ペテロ3章9節)。聖書の神は瞬間的に何でも帽子から取り出す魔術師よりは、丹精込めて作物の世話をして、それが成長し実をならせるのをじっくりと見守る農夫に似ているような気がします。インスタント時代に生きる私たちは何事もできるかぎり時間をかけないで行うことを評価しがちですが、神は時間について異なった価値観を持っておられるのかもしれません。

聖書の神はクリエイティブな神であり、つねに驚きを与える神です。イエスが来られたとき、その姿は当時の人々の予想していた「メシア」とはまったく異なるものでした。人々は、イスラエルの王であるメシアが異邦人に殺されるなどということを、神が許すはずはないと考えていたのです。けれども、神はイエスが十字架で死ぬことをお許しになり、そして死からよみがえらせました。

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神が「じっさいにおこなったこと」は人々が予想だにしなかったことでした。けれども、十字架につけられて死んでよみがえったナザレのイエスが、たしかにイスラエルのメシアだったという事実を受け入れた人々は、そこから出発して、このイエスというレンズを通して彼らの聖書(旧約聖書)を読み直していきました。新約聖書は、そして最初のキリスト教神学は、そこから生まれたのです(これについては「使徒たちは聖書をどう読んだか」のシリーズを参照してください」)。

聖書は科学の教科書として書かれたものではありません。古代の人々の世界観を通して、神について、救いについて、彼らに分かるように書かれています。したがって、科学の発達にともない、神が造られた世界のすばらしさについて、それまでには知られていなかった側面が明らかになってくるのは当然のことです。そのようなとき、私たちは驚きとともに、神に対する畏敬の念を新たにされます。詩篇8篇3-4節には、次のように書かれています。

わたしは、あなたの指のわざなる天を見、
あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。

ダビデは満天の星空を眺めて、神の創造の神秘と、小さな人間に向けられた神のいつくしみを思って感動しています。今日の私たちはダビデの時代の人々が思っていたよりもはるかに宇宙が広大であることを知っていますが、それは私たちの信仰を深めこそすれ、減ずることはないはずなのです。

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