今回もずいぶん間が空いてしまいましたが、科学と聖書についてのシリーズを続けたいと思います。
バイオロゴスのウェブサイトには次のようなミッション・ステートメントが掲げられています。
バイオロゴスは、神による創造の進化的理解を提示することによって、教会と世界が科学と聖書的信仰の調和を見出すようにと勧めます。
そして次の中核的なコミットメントを掲げています:
- 私たちは、歴史的キリスト教信仰を受け入れ、聖書の権威と霊感を支持します。
- 私たちは神が何十億年にもわたって存在するすべての生命を造られた創造主であることを認め、進化的創造を支持します。
- 私たちは真理を追求し、自然界と聖書を研究する中でつねに学び続けていきます。
- 私たちは謙遜を得ようと努力し、異なる意見を持つ人々とも親切な態度で対話することに努めます。
- 私たちは、科学や教育、ビジネスなどあらゆる領域で卓越することを目標とします。
ここからバイオロゴスについて2つのことが分かります。1.福音主義的なキリスト教信仰を掲げていること、そして2.生物学的進化を神の創造の手段として受け入れる、いわゆる「進化的創造論evolutionary creationism」の立場に立っていることです(バイオロゴスの詳しい信仰基準についてはこちらを参照)。
ある人々にとっては、この二つはまったく両立不可能と思えるかもしれません。けれども、そのような人々も、なぜバイオロゴスのような団体が存在し、多くの人々に支持されているのか、冷静に考えてみる必要があると思います。(バイオロゴスのサイトに登場する神学者や聖書学者の中には、このブログの読者にはおなじみの、N・T・ライト、スコット・マクナイト、ピーター・エンズ、グレッグ・ボイドらがいます。ただしもちろん、彼らが聖書と科学の問題について全く同じ見解をもっているわけではありません)。
どのような議論でもそうですが、進化論の問題を考える際には特に、用語の定義をはっきりとさせておくことが必要不可欠です。キリスト教会で進化論について議論することが大変難しい理由の一つは、「進化論」という言葉にあまりにも多くの含意が込められている現実があるからだと思います。
「進化論」あるいは単に「進化」というとき、いろいろなニュアンスをこめて語られることがあります。一つは、科学理論としての「生物学的進化」です。これは、生物の形態が長い期間のうちに変化するプロセスを説明しようとする科学理論です。
もう一つは、社会思想としての「進化思想」です。ダーウィンの自然選択説を人間社会にあてはめようという考えは19世紀後半にハーバート・スペンサーの「社会進化論」を生み出し、その後も近代のいろいろな社会思想に影響を与えてきました。その中には、ナチスドイツの人種政策に応用された優生学のように、大きな問題を引きおこしたものもありました。
さらに、進化論と無神論・唯物論との結びつきを考える必要があります。無神論者にとっては、ダーウィンの進化論の登場によって初めて、創造主の存在を仮定せずに、生物の多様性を説明できるようになった、というわけです。そのため今日でも、進化論と無神論・唯物論がセットにして考えられることが多くあります。
私たちが科学と信仰(聖書)の関係を考える時に大切なのは、科学理論としての「生物学的進化」と、そこにむすびつけて考えられるさまざまな思想的付加物をはっきりと区別することです。生物学理論としての進化論は、自然界がどのような法則に従って動いているか、その仕組みを探究するものであって、そのメカニズム自体がどのような目的や意味を持っているのか、その背後にどういう存在がいるのか、といった問題には関わらないのです。
グレッグ・ボイドは当時無神論者であった父親との往復書簡の中で、この問題に触れています:
もし進化論が正しかったとしても、それは人間がどうやって出現したかについての生物学的推測を与えることしかできません。けれども、より根源的な問題は、そもそもなぜ進化が実際に起こっているような結果を生み出すのか、ということです。進化が実際にそうであるような特徴をもつようになるためには、宇宙の究極的な「力」はどのようなものでなければならないでしょうか? ぼくは、進化のプロセスそのものについて問うているのです。これは形而上学的(自然を超えた)問いです。科学はこの問いに答えることはできません。(Letters from a Skeptic, p. 68からの私訳)
つまり、科学理論自体は形而上学的問題については中立であるということです。信仰者と無神論者が共に自然を観察したとき、適切な方法を用いれば世界を同じ科学理論で記述することができるようになります。けれども、両者はそれに対して異なった哲学的意味づけをするかもしれません。たとえば、クリスチャンの科学者と無神論の科学者は、生物は長い時間をかけて進化すると言う点(生物学的進化)については同意するかもしれませんが、無神論者はこのプロセスを導く超越的な存在を否定し、すべては偶然によって何の目的もなく進行していくと主張するかもしれませんし、クリスチャンは進化のプロセスの背後に、すべてを創造し導いている神の存在を見ることができるのです。
もちろん、その科学理論が妥当なものであるかどうかについては、それ自体厳しく検討していかなければなりません。科学理論としての生物進化の考えが将来否定される可能性はもちろんあります(反証可能性ということは、科学理論の重要な要件の1つです)。けれども、ここで言いたいことは、現実世界の記述としての科学理論と、それのもつ哲学的意味合いを混同してはならないということです。だとすると、「進化論は神の存在を否定して、すべてを偶然の産物とするから誤りである」とか、「進化論は弱肉強食の価値観を教えるものであり、優生学のような人種差別的な思想を生み出した。だから進化論は誤りである」というような批判は的外れということになります。科学理論としての進化論は、神が存在するかしないかを主張することも、何らかの社会的価値観を主張することもないからです。
私は、神が創造したこの世界の仕組みを探究していく科学の営みは、信仰者にとっても意義のあるものだと考えています。けれども、私たちは自然の世界に分け入っていくとき、先入観を捨てて謙虚に自然の世界から学んでいく必要があると思います。そしてその過程で、同じ信仰を共有しない人々から学ぶことも大いにあるでしょう。
具体的には、信仰者は一般の科学界で定説になっているような科学研究の成果を受け入れることを恐れる必要はないと思います。じっさい、大多数のクリスチャンはすでに現代科学のさまざまな成果を受け入れ、その恩恵を受けて生活しています。私たちが日常的に使っているコンピューターや携帯電話なども科学の賜物ですし、医療もそうです。
けれども、進化や宇宙論と言った特定の分野については、科学界の定説となっているような理論を受け入れるのに大きな抵抗を覚えるクリスチャンがいるのも事実です。定説への批判が科学的に妥当な方法でなされるなら、そのような議論は科学の枠内で多いに行われるべきだと思いますが、もしかしたら、上で述べたような科学と形而上学の混同から来ている、不毛な論争もあるのではないかと思います。
キリスト者は、神がこの世界を創造し、今もそれを保ち、その目的に向かって導いておられることを信じています。神が造られた世界がほんとうはどのような姿をしていて、どのようなメカニズムで動いているのかを正しく知ることは、クリスチャンにとって重要なことです。科学理論としての生物学的進化に触れて、「そんなことはありえない」と頭から拒絶するのではなく、「もしこれが神の造られた世界のほんとうの姿であるなら、神について、創造について、聖書について、どのようなことが考えられるだろうか?」と問うてみることが重要ではないかと思います。バイオロゴスのような働きが取り組もうとしているのは、まさにこのような問いではないかと思います。
これは、大きな努力を要する、困難な課題です。けれども、このような問題に正面から取り組むことこそが、信仰者としての誠実で責任ある態度ではないかと思います。アメリカの詩人アーチボルド・マクリーシュの次のことばを、じっくりと噛みしめてみる必要があるのではないでしょうか。
“Religion is at its best when it makes us ask hard questions of ourselves. It is at its worst when it deludes us into thinking we have all the answers for everybody else.” (最良の宗教は、われわれが困難な問いを自分自身にぶつけるようにさせる。最悪の宗教は、われわれが万人のためにすべての答をもっているという幻想に陥らせる。)