読書の死

友人の牧師が、ワシントン・ポスト紙に掲載されたフィリップ・ヤンシーの記事を紹介してくれましたが、それを読んで深く考えさせられてしまいました。

ヤンシーの記事には、「The Death of Reading Is Threatening the Soul(読書の死が魂を脅かす)」という不穏なタイトルがつけられています。英語の読める方はぜひ元記事の全文を熟読することをおすすめしますが、その要約を紹介したいと思います。

記事の中でヤンシーは、現代人が(そして彼自身が)いかに本を読まなくなったかについて書いています。全体的な読書量が減っただけではなく、じっくりと腰を据えて考えながら読まなければならない種類の本を読むことができなくなっている、というのです。ヤンシーはその一因はインターネットとSNSにあると言います。

インターネットとソーシャルメディアによって、私の脳は、段落を1つか2つ読むごとに、他のものに目を向けるように習慣づけられてしまった。『アトランティック』や『ニューヨーカー』の記事を読んでいると、2、3段落読んだところでサイドバーにちらりと目をやり、記事がどのくらいの長さなのかを知ろうとする。思考がさまよい始め、ふと気がつくとサイドバーやリンクをクリックしている自分がいる。間もなく私はCNNのサイトでドナルド・トランプの最新ツイートや最新のテロについて読んでいるか、明日の天気をチェックするかしている・・・

ヤンシーによると、このような行動は脳科学的に裏付けられています。つまり、人が手早く新しい情報を得るたびに、脳内でドーパミンの分泌が起こり、快楽中枢が刺激されるというのです。そして、この現象はメールやツイッター、インスタグラム、スナップチャットなどでも起こるそうです。その結果は想像に難くありません。平均的アメリカ人は一日のうち10時間――起きている時間のじつに約65%――をテレビやラジオ、電子機器などのメディアに費やしているのです。

私たちがメディアに費やす時間が多ければ多いほど、集中して読書に打ち込む時間は少なくなります。普通の人が年に200冊の本を読むためにはおおよそ417時間かかるそうですが、アメリカ人は年に608時間をSNSに、1642時間をテレビに費やしているそうです。(「スマホ中毒」が騒がれている日本でもおそらく事態はそれほど変らないでしょう。)

つまり、「本を読む時間がない」という言い訳は成り立たないということです。私たちがSNSやテレビに費やしている時間の一部でも毎日読書のために確保するなら、本を読むことは十分可能なのです。けれども、おそらく問題は単なる時間の長さではないのでしょう。インターネットで日々拡散され、消費される情報の多くは短く、しかも画像や動画によって「味付け」されています。そういった刺激の強いジャンクフード的な情報に慣らされてしまった脳にとって、長く複雑な文章をじっくりと理解し味わうには、とてつもない忍耐力が要求されます。けれども、そういった良質の読書を長年にわたって継続することによってしか培われない、深い精神性があるのだと思います。

ヤンシーは、インターネットやSNSに代表される現代文化は私たちの霊性と創造性を脅かしていると警告しています。読書だけでなく、クリスチャンにとっては神と共に静まる貴重な時間も削られていく可能性があります。ヤンシーはこのような文化の中で私たちの魂を守っていくためには、絶え間ない闘いが必要であると言い、一日の中の特定の時間を集中した読書に費やす「習慣の砦」を築いていく必要を訴えています。それは困難な闘いであることを認めつつ・・・

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現代のメディアや情報技術を全否定するつもりはありません。私自身、その恩恵を大いに受けてきました。しかし、それらを利用することに伴うリスクについて、無知であってはならないと思います。私自身はSNSはほとんどやっていませんし、テレビもほとんど見ませんが、それでもいくつものブログやポッドキャストを定期的にチェックするようになってから、自分の全体的な読書量だけでなく、集中力自体が落ちてきているのを感じていましたので、ヤンシーのこの記事には身につまされる思いでした。

友人の中には、携帯電話を持たないという牧師もいます。現代の情報の洪水から魂を守っていくことは容易なことではありませんが、まずは自分の時間がどの程度各種メディアによって支配されているかを考えてみることは有益ではないでしょうか。