以前紹介した本ですが、私も執筆者の一人に加えていただいた『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』の書評が『本のひろば』9月号に掲載されました。評者はこのブログでもおなじみの藤本満先生です。
藤本先生は本書の魅力を的確に、分かりやすく紹介してくださっていますが、特に強調しておられるのが、本書はいわゆる対談集ではない、ということです:
本書は、主著者(大頭)との刺激的なキリスト教テーマをめぐっての「対談」ではない。つまり二者が相対して座し、持論を展開し、互いに腹をさぐりながら、何かの結論を引き出そうという試みではない。ましてや、昔のヘーゲルの弁証法、命題、反対命題、統合、というような目的はない。それぞれは「焚き火を囲む」感覚を大切にしている。(10頁、強調は山崎ランサム)
互いに向かい合って相手を説得しようとするのではなく、焚き火を囲んで輪になって座り、それぞれ自由に考えを分かち合う――これが「焚き火を囲む感覚」ということなのだと思います。焚き火のまわりには上座も下座もなく、誰もが火から等距離に座っています。誰か特定の人が会話を独占するのでもなく、また特定の結論へ導こうとするのでもなく、思い思いに語り、応答し、そして次の話題へ移っていく・・・
見方によっては何ともとらえどころのない営みですが、そのような焚き火的会話から何が生まれるのでしょうか?藤本先生はさらにこのように書いておられます:
著者が「焚き火的人間」(二六四頁)と呼ぶのは、対話を通して、容易にわかり合えない自分を知り、自分の見方が唯一ではないことを素直に認め、さらに対話を通して他者を理解しようとして自分の殻を破っていく人間であり、そこには必ず成長があるという。(11頁)
つまり、焚き火を囲んでなされる会話は、自説をもって相手を説得しようとするディベートではありませんが、かといって他者の存在は無視して一方的に自説を語り続けるだけの自己完結的なモノローグでもありません。常に他者と関わりながら、他者の存在を自己のシステムの中に取り込むことをせず、他者を他者として認め尊重することで、自己の限界を知り、それによって成長していく契機とする、と言うことではないかと思います。
「焚き火」は、誰かが特権的に真理を所有していると主張せず、共同体の中でゆるやかなつながりを求めて行くという意味で、きわめてポストモダン的な状況と言えるかも知れません。けれどもこれは何でもありの相対主義ではありません。なぜならそこには焚き火という中心があるからです。焚き火仲間はそれぞれ背景も神学的立場もまったく異なりますが、誰もが焚き火のぬくもりを求めて集まってきたという点では共通しています。そのような仲間に対して、真理に対する自分の理解を分かち合うことはもちろん有益ですが、自分だけが唯一正しいと主張することは、とても的外れの態度ではないかと思います。なぜなら、私たちはすでにイエス・キリストという中心点を共有しているからです。それで十分ではないでしょうか?(中心点思考についてはこちらを参照してください) 私たちにとって、正しい神学を理解することよりもっと大切なのは、このお方を礼拝し、信頼して生きることです。すべて、ほんものの神学(theology)は神への賛美(doxology)につながるものでなければなりません。
思えばイスラエルの神がモーセに現れたときにも、燃える炎の形を取られました(出エジプト3章)。私たちが見つめる焚き火は決まった形を持たず、ゆらゆらと捉えどころのないものです。けれども火はつねに私たちの真ん中にあって、私たちに光とぬくもりを与え続けてくれます。そしてもしかしたら、私たちは次のような声を聞くかも知れません:
「足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト3章5節)
焚き火を囲むいつもの空き地が聖なる地に変わる時、私たちにできることは、ただ口をつぐんで、くつを脱ぐことです。
書評の紹介から、思いついたことをとりとめもなく書いてしまいました。でも、これもまた焚き火的かもしれません。このようなきっかけを与えて下った藤本先生に感謝します。先生は最後の部分で、
筆者も正直、焚き火を囲む者に加えていただけるようになりたい。そのような成熟した論客になってみたい。(11頁)
と謙遜して書いておられますが、もうすでに先生とは、焚き火を囲んですばらしいお交わりが与えられていることを感謝しています。