『舟の右側』の6月号が届きました。1月号から6回にわたり、「鏡を通して見る――不確かさ、疑い、そして信仰」と題して連載をさせていただきました。
このブログでも取り上げたグレッグ・ボイドやピーター・エンズなどの考察も紹介しつつ、不確実性や疑いを信仰者としてどう考えるかということを拙いながらも書かせていただきましたが、一貫して主張してきたのは、不確実性や疑いを持つことは信仰の弱さのしるしではなく、正しく付き合っていくなら、信仰のさらなる深みに導いてくれる友である、ということです。逆に、疑いや不確実性を悪として徹底的に排除していこうとする時、私たちの信仰は不健全で非聖書的なものになっていきます。なぜなら、その時私たちが信仰の土台としているのは、神との生きた人格的関係ではなく、「この自分の揺るがない信仰」であり、「神についての確実な知識」であるからです。
ところで、疑いにも二種類あるような気がします。一つは、神についての私たちの知識の確実性に関する疑いであり、もう一つは神の私たちへの愛に関する疑いです。前者は「神の真理についての疑い」、後者は「神の真実についての疑い」と言ってもよいかもしれません。この二種類のうち、後者の疑いのほうが私たちに深刻な問題を引き起こします。
神について、世界について、人生について、私たちは絶対的に正確な知識を持つことができないということは、ほぼすべてのクリスチャンが同意するでしょう。その知識の内容によっては、ボイドの言う「確実性追究型の信仰者」は大きな不安を抱くかもしれませんが、たとえ自分たちには神や将来のことがよく分かっていなくても、神は真実で愛に満ちたお方であり、最終的には必ずすべてを良きに導いてくださると信じることができれば、先の見えない中でも基本的には安定した信仰生活を送ることができるでしょう。
けれども、もし私たちを導いてくださるはずの神が真実な方であることに確信が持てなくなったらどうでしょうか?神に愛されていることに確信が持てなくなり、神に見捨てられたと思えるような状況に陥ったとしたら――これが「神の真実についての疑い」です。
ふつうキリスト者はこのような疑いについて語ることはあまりありません。なぜなら、神の愛を疑うことは不信仰、不敬虔のしるしと受け取られかねないからです。けれども、この種の疑いは実際に起こりえますし、深刻な信仰の危機をもたらします。自分に思い当たる罪を悔い改めたり、神の愛や真実について証ししている多くの聖書箇所を読んで思い巡らしたりすることも場合によっては有効ですが、何をしても信仰の暗闇――人によってはそれを「暗夜」と呼ぶかもしれません――から抜け出せないときもあります。
そのような時、どうしたら良いのでしょうか?「疑いを取り去る10のステップ」のような手軽で確実なマニュアルがあるわけではありません。それは確実性追究型の信仰に逆戻りすることです。疑いはすぐにはなくならないかもしれません。けれども、その中でもできることはあると思われることがあります。
それは疑いを抱きながらも、「それでも神に信頼する(Trust God anyway)」ということです。私は個人的にもエンズのこの言葉に大いに励まされました。神から見捨てられたと思えるような状況にあっても、あえて神を信頼し、従い続けることです。これは感情の問題ではなく意志による選択です。神が不在であると思えるときにも、神がおられるかのように行動するのです。その中には聖書を読み、祈り、礼拝することも含まれるでしょう。たとえ砂を噛むような無味乾燥な行為に思えたとしても、そのようにし続けていくことには意味があると思います。祈りにおいて、主の祈りや祈祷書のような定型文の祈りを用いることが有効であることは、個人的にも体験してきました。
けれども、そのようにして神に信頼し続けることに何の意味があるのでしょうか?私はそれは神を無条件に愛する人生への招きではないかと思います。『舟の右側』の連載最終回では次のように書きました:
聖書の中で最高の価値を持つものとされているのは、愛です。そして愛の最高の形は、見返りを求めずに無償で与える愛、敵のためにいのちまで捧げるアガペーの愛です。神は、愛そのものであるお方であり、その愛をイエス・キリストの十字架において余すところなく示してくださいました。イエスに従う信仰者も、この愛にならうようにと求められています(マタイ5章43 - 48 節など)。そして、クリスチャンなら誰でも、隣人を自分自身のように愛するというチャレンジを毎日のように受けていることでしょう。
では、私たちが神を愛する時に、無条件のアガペーの愛で愛しているでしょうか? これは奇妙な問いに思えるかもしれませんが、私たちが神を愛する時には、神が与えてくださる何らかの益(救い、祝福、喜び、平安、等々)のゆえに愛していることがほとんどではないかと思われます。しかし、もしそうだとしたら、私たちの神への愛は条件付きのものにすぎないと言えます(ヨブ記1章9 - 11 節を参照)。
けれども、私たちがもはや神の愛や神の存在そのものを疑いたくなるような状況に直面した時、それでも神を愛することを選ぶなら、私たちの愛は無条件の神の愛に一歩近づいていると言えるのかもしれません。もちろん、神は常に変わることなく私たちを愛してくださっているお方です。しかし、信仰の旅路においては、時としてその愛が感じられなくなる時、神に見捨てられたかのように感じられる時があります。でもそのような時に感じる疑いや不確実性は、「それでも神に信頼し」、真の意味で神を愛するようになるための、神からの招きなのかもしれません。それは十字架の上で神に見捨てられても、死に至るまで従い通されたイエスの道(マタイ27 章46 節、ピリピ2章8節)にならう歩みなのではないでしょうか。
かつてC・S・ルイスは、苦痛は私たちに向かって叫ぶ神のメガホンであると言いました(The Problem of Pain)。「神の真実への疑い」は、神の愛への沈黙の招きなのかもしれません。その招きにどう応えるかは、私たちにかかっているのです。