先日の投稿で予告したとおり、16日(火)に名古屋で藤本満先生をお迎えしての講演会が開かれました。午後1時半から行われた福音主義神学会中部部会主催での公開講演会と、6時から行われた東海聖書神学塾主催の公開クラスの内容の一部を、個人的な感想も交えながらお伝えします。
「近代主義――聖書のバビロン捕囚」
中部部会の公開講演会では、聖書と近代主義(モダニズム)の関係についてお話しくださいました。これは大きな反響を呼んだ先生の著書『聖書信仰』につながる内容でした。藤本先生は、18世紀末の近代聖書学の始まりから説き起こし、教会の神学から自由になろうとした聖書学が、結果として普遍的人間理性に信頼を置く哲学に呑み込まれていった様子をわかりやすく描いてくださいました。
アメリカにおいては、ドイツから入ってきた自由主義神学に対抗するため、B・B・ウォーフィールドに代表されるプリンストン神学校がスコットランド常識哲学に基づいた聖書の命題的理解を確立します。つまり聖書を「神の託宣」としてとらえる見方です。聖書のことばは客観的事実と一致し、真理は御言葉の中に客観的に提示されているというのです。プリンストンの聖書論はアメリカの保守派(その中にはディスペンセーション主義者、D・L・ムーディー、反進化論者など多種多様な立場があったにもかかわらず)をまとめる役割を果たし、日本からも松尾武・岡田稔・常盤隆興ら改革派の牧師がG・メイチェンのウェストミンスター神学校(自由主義に傾いたプリンストン神学校に反対して分離した保守派の神学校)に留学し、日本の福音主義聖書観に大きな影響を与えました。
藤本先生はこのような近代福音派の聖書観を、「哲学に飲まれず、哲学を取り込むことで、気がつかずに『近代の囚われ』となった。」とまとめられました。つまり、福音派は自由主義神学に対抗するために「誤りなき神のことば」としての聖書を拠り所にしようとしましたが、その肝心の聖書理解は(多くの場合無自覚的に)ある特定の近代主義的哲学によって束縛されることになった――これが先生の言われる「聖書のバビロン捕囚」ということだと思います。
では、そのような捕囚状態から抜け出る道はどこにあるのでしょうか?藤本先生は言語学にその可能性を見いだしていきます。
聖書を「捕囚にして」いた近代主義の思想の特徴とは次のようなものです。
世界には客観的秩序があり、個々人にはそれを把握する力、すなわち理性が備わっている。その理性の道具の筆頭が言語です。(講演レジュメより)
このような言語観にあっては、聖書に書かれた「神の言葉」と「人の言葉」の間にはギャップがありません。人間の言語で書かれた聖書の言葉は、普遍的・一義的に客観的真理を啓示する「神の託宣」として理解されます。
しかし、はたして言語というものはそのように働くものなのでしょうか?藤本先生はウィトゲンシュタインやソシュールに言及しながら、言語が個別性・限界性を持ったものであることを指摘します。ポストモダンの聖書理解においては、「神の言葉」と「人の言葉」との間には厳然としたギャップがあるのです。
それでは、言語が限界を持ったものであることを受け入れつつ、聖書テクストが神のことばであるということを、どのように考えたらよいのでしょうか?藤本先生はリクールやバルトの聖書理解にも触れながら、聖霊が聖書の言葉を用いて人を救いに導くという「伝道的・救済論的な聖書信仰」を可能性として挙げ、ウォーフィールドに批判的であったジェームズ・オアから現代のリチャード・ボウカム、N・T・ライトにつながる英国の伝統を高く評価しておられました。
先生はさらに物語としての聖書理解の重要性を強調されました。福音派が「物語」を避けようとする背後には物語の持つ「多義性」への危惧があることを指摘した上で、多義性を曖昧ととらえてなんとか捨象・統合しようとする近代主義の考え方に対して、ポスト近代では多義性を豊かさとしてとらえることができると語られました。
藤本先生の講演後に質疑応答の時間がかなり長く持たれましたが、こちらも大変充実したディスカッションの時となりました。ちょうど来日中に出席しておられた上沼昌雄先生も議論に加わってくださり、1980年代の聖書論論争以来の日本の福音派の歴史についても、いろいろと興味深いお話を伺うことができました。
「神の物語、人の物語――物語を生きる」
夜の神学塾での公開クラスは、より一般向けの内容で、聖書の物語理解を教会、特に説教にどのように活かしていくかということについて語ってくださいました。先生がこの問題を考えるきっかけになったという柳田邦男著『言葉の力、生きる力』を引用しながら、「言葉の貧相化の時代」にどのようにして人を活かす言葉を語ることができるか、ということについて考えました。藤本先生はその中で、聖書の物語を語るだけでは十分ではない、それを現代に生きる私たちの物語に重ねていかなければならない、それが説教者の腕の見せ所だと語られました。
私が特に興味を覚えたのは、柳田氏がインタビューの中で、ノンフィクションのドキュメンタリーを書く際にも、著者はナマの事実をただ機械的に羅列するのではなく、重要な事実を集め、凝縮して物語化する必要がある、と語っていたことです。これを受けて藤本先生はこう言われました:
作家として、事実の羅列ではなくて、選択的に大事なエピソードを拾い集めて、物語るという手法は、聖書に当てはまります。(公開クラスレジュメより)
さらに藤本先生は、「聖書を平坦に読めば読むほど言葉が貧相化する」ともおっしゃいました。このことを、先生は「盛る」という最近流行りの表現を使って絶妙に説明されました。証詞をする時、自分の人生の事実をただ並べただけではよい証詞にならない。重要なポイントを強調して「盛る」必要があると。同様に福音書記者も、イエスの生涯のできごとをただ機械的に記録しているのではなく、それぞれに独自の視点から話を「盛り」、物語化しているのだと。そこに福音書間の記述の違いが出て来るのだということでした。
これはまさに従来の近代主義的な福音派の読み方では見えてこない部分ではないかと思いました。福音派は聖書の歴史ナラティヴを読む時には何よりもその記述の史実性を問題にし、聖書テクスト間の記述の相違があればそれをどう調和させるかを考えます。しかし、そのような史実性のみに着目した読み方では、せっかく聖書記者が物語化したことばのいのちが窒息させられてしまうのではないか、と思わされました。そして物語化の重要性ということは、福音書や列王記と歴代誌のように複数の聖書テキスト間の相違が問題となるような部分だけでなく、あらゆる聖書ナラティヴについて考えなければならないのではないか、とも思いました。つまり、すべての聖書ナラティヴは多かれ少なかれ「盛られている」のではないか、ということです(これは最初からフィクションとして意図されたたとえ話のようなナラティヴと、歴史記述とを同列に扱うということではありません)。
私が神学校で編集史批評(聖書記者、特に共観福音書記者がどのようにして資料を編集して最終的なテクストを生み出していったかを研究する方法)を学んだとき、福音書記者が自分たちの資料を「いじった」という考えに最初は抵抗がありましたが、次第に各福音書記者の表現の微妙な差異に隠された神学的意図を丁寧に読み分けていくことで、どれだけ深く豊かな世界が開けていくかということに気づき、おおいに刺激を受けました。しかもそれは、マルコ福音書という「史実に忠実な福音書」をマタイやルカが改変したということではなく、マルコにおいてすでに、イエスの生涯が物語化されているということなのです。聖霊はそのような何通りにも「盛られた」物語を通して教会に語りかけている。そこに聖書の豊かさがあるのではないかと思います。つまり、そのような「盛った」部分も含めて霊感を考える必要があるのではないでしょうか。それを「霊感=事実の正確な記述」というふうに限定してしまうと、聖書がスープの抜けきった出し殻のように味気ないものになってしまう――そんなことを考えさせられました。
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午後の公開講演会、夜の公開クラスともに、会場の金山キリスト教会は入り口までぎっしりと埋まりました。神学塾の方はよく分かりませんが、中部部会の公開講演会としては、私の知る限り過去最高数の出席者が与えられました。これも先生の魅力によるものだと思います。実際私も、2回の講演のほか食事などもご一緒させていただき、個人的なお交わりを通して、その深い学識と温厚な人柄に改めて魅了された一日でした。