十字架に啓示された神の性質(グレッグ・ボイド)

グレッグ・ボイド師による最近のブログ記事の中で、とても参考になるものがありましたので、ReKnewの許可を得て翻訳・転載します(元記事はこちら)。これは少し前に連載したボイド師のインタビュー(特に第4回第5回)に対する良い補足となると思います。哲学や神学のやや専門的な内容に関心のない方は、最後にいくつか挙げられている質問の部分だけでもお読みになることをお薦めします。

*     *     *

古典的神論の仮定への異議申し立て

神の性質についての古典的見解として知られるようになった立場は、大多数の人々が神について考える際の一般的・伝統的な方法を形作ってきました。それはヘレニズム哲学の主要な見解からほとんど無意識的に借用されたロジックに基づいています。古代イスラエル人の神概念が、歴史におけるダイナミックで自己啓示的に行動する彼らの神の経験に全く基づいていたのとは対照的に、古代ギリシア哲学のこの見解で見られる神概念は、その一番の基礎においては、自明ではないあらゆるもの――すなわち偶然的で、常に変化し、限定され、複合的な世界――を説明する概念だったのです。

一般的に言って、これらの哲学者たちは、この究極の原因はそれが説明すべきあらゆるもののアンチテーゼでなければならないと仮定しました。さもなければ最終的には無限後退に陥ってしまうからです。それゆえ、この流れに属するプラトン派、ストア派、逍遥派の哲学者たちの見解の重大な相違にもかかわらず、彼らのプログラムの中核には、偶然や変化や複合的存在から離れて、完全に必然的で不変で単純なリアリティに向かおうとするロジックが存在したのです。彼らはこの究極の原因を通例「一者 the One」と呼びました。

このことやその他の理由から、偶然や変化や複合的存在は、必然的で不変で単純なものに比べて劣ったもの、そしてプラトン派ではより実在的でないものとみなされるようになりました。そしてこの立場の哲学者たちが究極の原因を追求していった支配的方法は、否定の道 via negativa――「一者」が何でないかを語ることによってそれを説明しようとすること――でした。彼らは、自明でないすべてのものが取り去られた後にも残るリアリティの概念を形作ろうとしたのです。

この否定の道の最初の明確な例は、アナクシマンドロスによる「アペイロン(無限)」の概念でした。ここから始まって、万物を説明する究極のリアリティの概念は、ヘレニズム哲学のさまざまな潮流において数多くの方法で発展し、進化していきました。2世紀か3世紀までには、ヘレニズム哲学において、神(あるいは「一者」)は完全に単純で、偶然性や変化や限定や感情や理性的思考や、おそらく時間さえも「超越した」存在だ、ということが広く前提されていました。

初期の教父たちがこのような神概念にどの程度まで影響されたのか、あるいはされなかったのか、ということに関する膨大な文献があります。ここでは私の主張の要点だけを述べたいと思います。現代において、初期の教父たちを擁護しようとする人々は、教父たちがヘレニズム哲学と類似点を持つ特定の神学的概念を用いる時にはそれらに重要な変更を加えたのだ、と論じる傾向があります。さらに、彼らは教父たちの、異教の哲学に対して敵対的な態度を反映するような発言を提示します。私は彼らの弁護はおおむね成功していると思いますが、彼らは私が主張しているような種類の影響については、木を見て森を見ないように見落としているのです。

私の論点は、彼らが重大な影響を受けたのは、何らかの具体的な概念のレベルにおいてではなかった、ということです。それはヘレニズム哲学のこの立場において働く、最も基本的なロジックに関することです。それは、偶然的な世界から離れることによって到達したヘレニズム的な神概念と、神が偶然的な世界に近づき、それとやりとりをし、最終的にはイエス・キリストの人格において結び合わされるという啓示として受け取られた、ヘブライ的神概念との間にある根本的な違いに関するものなのです。私の論点は、もし人々がそのすべての神学的考察を、その存在において神が偶然的で変化する世界と一つになられたお方(訳注:イエス・キリストのこと)にから始め、このお方に向けていくなら、偶然や変化の否定からなるような神の性質についての概念――すなわち、神が本質的に無時間的であり、不変であり、不可受苦であるという概念――にたどり着くなどとは思いもよらないだろう、ということです。

いくつかの質問について考えてみましょう:

・もし私たちが、神についてのすべての考えを、神が人となられた存在に基礎づけようと決意するならば、神の本質が変化(なること)を欠いたものであるなどということが一度でも思い浮かぶでしょうか?

・もし私たちの神についての考えが、悪者の手によって苦しめられ、十字架につけられた方から決してそれることがないなら、神の本質が神以外のいかなるものからも影響を受けることはありえないなどと、想像さえできるでしょうか?

・もし私たちの神についての考えが、十字架上での地獄のような死の苦しみを味わってくださった方につねに焦点をあてたものになっているなら、神の本質は決して苦しむことがないなどという考えが、一度でも思い浮かぶでしょうか?

・もし私たちの考えが十字架につけられたキリストに向けられているなら、その本質において「以前」も「以後」もなく、その本質において変化したり、影響を受けたり、苦しんだりする可能性をまったく持たないような神が、まさにその本質においてシークエンス(順序)を経験し、変化する可能性を持ち、影響を受け、苦しまれる神よりも、もっと栄光に満ちた存在であるなどと、はたして想像できるでしょうか?

私の見る限り、これらすべての質問に対する答えは断固とした「否」です。神の存在に関する私たちの考えが、十字架につけられたキリストに終始焦点を合わせているなら、私たちは自信をもって、神の真の性質を十字架に反するものとして考えるのではなく、十字架そのものの中に見出していくことができるのです。