グレッグ・ボイド・インタビュー(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

7回にわたって連載してきたグレッグ・ボイド博士のインタビューも今回が最終回です。今回も前回に引き続き、先生の最新刊、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)についてお聞きします。

*     *     *

――旧約聖書において神を暴力的な存在として描いているように見えるテクストは、どういう意味で霊感された権威ある神のことばだと言えるのでしょうか?

GB:私の考えでは、すべてのことは十字架を土台として考えるべきです。十字架の観点から霊感を考えるとどうなるでしょうか?人々が神が聖書に息を吹き込んだ(これは2テモテ3章16節に出てくる表現です)と考えるとき、霊感とは神からの一方的な行為だと考えがちです。けれども一方で、誰もが聖書記者の個性や視点や教育等が聖書には反映されている――たとえばパウロはマルコよりも洗練されたギリシア語を書いたなどといったこと――と認めています。ですから明らかに、神が聖書に息を吹き込まれたとき、神はそこに書かれている内容が聖書記者たちの個性や視点から影響を受けることを許しておられることがわかります。

ところで、十字架は神が啓示を吹き込まれた究極的な実例であると言えます。つまりそれは、神の完全な自己啓示なのです。けれども、この完全な啓示には、神の側が私たちに対して働きかけてくださっている部分――これは神のご計画であって、神が始めてくださったことであり、神がすべてを備えてくださったということ――と同時に、神がへりくだって、主権や力といった存在(注:パウロ書簡などに登場する、神に敵対する霊的勢力)とともに私たちが神に働きかけることを許してくださったという部分も含んでいるのです。

ですから、イエスに対してなされた暴力はすべて、主権や力に操られた人間が行ったものです。だからこそ、イエスはあのようにも悲惨な姿になられました――。あまりにもひどくむち打たれたので、人間とは思えない姿になられたのです。このことは、私たちの罪の結果と、その醜さを啓示しています。ですからこれは、弁証法的な、あるいは関係的なできごと言うことができます。けれども、神は関係的なお方であることを考えるなら、それは予期できないことではありません。そして、神は私たちの罪を背負ってくださいました!それだけでなく、神がこの完全な自己啓示を吹き込まれたとき、ご自身がどういう姿をとるかということについて、私たちの罪が影響を与えることさえ許してくださったのです。

もし十字架についてこのことが言えるなら、私たちが聖書を読むときにも、部分的には神が同じように働いておられるということを知って読まなければならないのではないでしょうか。神が息を吹き込まれる時、それは関係的な行為ですので、時にはそれは神が取り扱っておられる人々の罪を担ってくださるということも含まれるのです。そして、霊感を受けた聖書の中で神はそのような姿をとってくださいます。なぜなら、その霊感の結果として現れるものが、人々によって条件付けられることを神は許しておられるからです。

これはまた、なぜ聖書の啓示は漸進的なのか、ということの理由でもあります。神はマキアヴェリ的な神、人々を操作する神ではなく、強制力を通して働いたり、人々が自動的に真理を信じるように造られるような神ではありません。神は影響力を通して働かれるお方です。ですから神は人々が今置かれているレベルにまで身を低くしてくださり、そのレベルで彼らに働きかけてくださいます。神はご自身の真の姿を可能な限り啓示してくださいますが、必要に応じて人間の罪も担ってくださいます。そのようなことを念頭に置いて聖書を読んでいくと、そこに進展を見いだすことができます。

CrucifixionCover_FINALvol1

たとえば当初神は身をかがめて動物の犠牲を受け入れられました。なぜなら当時の人々はみな動物を生け贄にしており、その習慣を捨てることができなかったので、神は人々がやぎの偶像に犠牲を献げるよりは、ご自分に献げることをよしとされたからです(レビ記17章7節)。このように、神はこのような行為に「順応 accommodate」してくださいました。けれども神はその意味をいくらか変えられました。そして、古代中近東では一般的だった、神々が犠牲の動物を文字通り食べるという考えを撤廃するところまではなさいました。けれども、生け贄の香りを喜ばれるという考えは残しておかれたのです。当時の文化では、神がよい香りを喜ぶという考えは広くゆきわたっており、人々は神々が生け贄の香りに惹かれてやってきて、それを食べると文字通り考えていたのです。ですから神は、他の古代中近東のすべての神々と同じく、「生け贄の香りを喜ぶ神」という姿をとられたのです。

けれども時代が進むと、神はもちろんそのようなことはなさらない、ということを私たちは知ることになります。じっさい、神は動物犠牲そのものを好んではおられないのであって、人々がそのことを聞く準備ができたときに、そのように語られます(注:たとえば1サムエル15章22節など)。神は、「それはもともとあなたがたの考えであって、わたしの考えではなかったのだ」と言っておられるのです。

このことを知って聖書を読んでいくと、聖書はすべて神によって霊感されたものですが、それは神が十字架でなされたのと同じやり方で、神の息を吹き込まれたものだということが分かります。ですから、私たちは聖書を読むときに、その中で神はご自身の真の姿を可能な限り啓示しておられますが、同時に必要に応じて私たちの罪を担ってくださっていることを知らなければなりません。そして、このように人間の罪を担ってくださる行為そのものもまた、神の直接的な自己啓示と同じくらい、神がどのようなお方であるかを啓示しているのです。ただ啓示の方法が異なるだけです。

私はすべての暴力的な神の描写を「文学的磔刑像 literary crucifix」と呼んでいます。なぜならこれらは、聖書ナラティヴの中で、神は十字架でなさったのと同じことをいつでもしておられることを示すベンチマークとなっているからです。それらの記述にあるグロテスクなイメージ――息のあるものを皆殺しにするなど――は、神がご自分の民との契約関係に留まるために、どこまですすんで身を低くしてくださったかを証ししているのです。

jesus-242572_640

――先生の神学の一番中心にあるのは、十字架上のイエス・キリストこそ、アガペーの愛なる神の完全な自己啓示である、ということだと思いますが。

GB:そのとおりです。本書でもそのために2章を割いて書いています。

――そうすると、十字架のレンズを通して聖書のすべてを見ていくとき、神は創造から終末まで一貫してそのような愛のお方であることを見ることができるということですね。

GB:はい、でもそれは聖書を十字架の観点から読んだときにのみ分かることです。十字架がすべてを変えるのです。

――どうもありがとうございました。

GB:お話しできて楽しかったです。ありがとうございました。

(終わり)

Boyd22