今回からはボイド博士の最新刊についてお話を伺います。十字架の上で人類のためにいのちを捨てた愛の神イエス・キリストを礼拝するクリスチャンにとって、旧約聖書における、一見暴力に満ちた神の描写は大きな問題を引き起こします。このことについて、どう考えたらよいのでしょうか?
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――今度出版される先生の著書、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)について教えてください。
GB:現在(注:2016年12月19日)、ゲラ刷りの校正に追われているところです。今度の本は2巻本で合計およそ1,500ページになります。当初はこれほどの長さにする計画ではなかったのですが、だんだんと内容が発展してこうなってしまいました。私が言おうとしていることは――すくなくとも現代の聞き手にとっては――目新しいことなので、細かい部分まで気を配って準備をする必要がありました。ですから私はとにかく徹底的に調べ尽くしたのです。けれどもそれは楽しい体験でした。
最初に私が論じたのは、私たちが神について考えることがらすべての中心に、イエスを位置づけなければならないということです。このことを2章にわたって論じています。さらに2章を費やして、イエスのアイデンティティ、生涯、働きのすべての中心にあるのは十字架だということを論じました。十字架はイエスに関するあらゆるものの中心的主題なのです。そして十字架が啓示する神は、自己犠牲的で、非暴力的で、敵をも受け入れるような神だということです。神は敵を殺そうとされるお方ではなく、むしろ敵のためにいのちを捨てられるお方です。
このことを信じるとき、旧約聖書にある神の(暴力的な)描写をどう考えたらよいのでしょうか?つまり、神がご自分の民に、彼らが入っていく町の男も女も子どもも動物も皆殺しにし、町を焼き払うように命じられたような記述のことです。神はまた申命記の中でモーセに、イスラエル人が敵を虐殺する際に、もし兵士たちの気に入った女性がいれば、彼女たちを戦利品として妻にすることができる。けれども、後から気に入らなくなれば離縁することができると語っています(注:申命記20章10-18節、21章10-14節などを参照)――こういったあらゆる箇所について考えなければなりません。このような神の描写を、どう理解したらよいのでしょうか?

アマレク人に勝利するヨシュア
私の答えを要約すると、このような神の描写をキリストというレンズを通して見るならば、旧約時代の人々が見ることができなかったものを見ることができる、あるいは見るべきだ、ということです。もしこれらの旧約箇所が神の霊感を受けたものだと認めるとしても(イエスもそれが神の霊感を受けたものだと明らかに認めておられます)、私たちが十字架にかかったイエスの姿こそ神の本当の姿を啓示しているのだと本当に信じているなら、そのことを忘れてはならないのです。
私の主張は、これらの箇所で神がしておられることを見る時、それは十字架において神がなさっていることと同じだということです。十字架において、神は無限の距離を超えて身を低くされ、私たちの罪とのろいを背負ってくださいました。そしてその際、神は罪とのろいの醜さを反映するような姿をとってくださったのです。私たちが十字架を見る時、罪とのろいが神を啓示しているわけではありません。肉眼で見るかぎり、表面上に見えるのはただ、神に見捨てられた犯罪人が十字架につけられている姿でしかありません。けれども信仰をもって、その表層の向こうにあるものを見ていくとき、そこに神を見ることができるのです。神を啓示しているのは、神がそのような立場をとってくださったということです。神はへりくだって、その状況に足を踏み入れてくださり、その醜悪な姿を身にまとってくださいました。つまりこのことによって、神が昔も今も、本当はどのようなお方であるかが啓示されているのです。
ですから、私たちは神がどのようなお方であるかを頭に入れた上で聖書を読まなければなりません。そうしていくとき、神が表面上はたいへん醜い存在として描かれているように見えることがあるかもしれませんが、それは神がご自分の民の罪を担われているからなのです。けれども、神が身を低くして民の罪を担われたことを知る時に、そこに神が啓示されているのです。そこには、民が罪に影響されたやり方で神について考え、認識した内容も含まれています。ですから本書は、このような神についての旧約聖書の描写をどう再解釈するか、ということについての本なのです。
(続く)