グレッグ・ボイド博士のインタビューを連載していますが、今回は神と時間についてです。
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――オープン神論の基本的特徴の一つに、神は時間的な存在であるというものがあります。神が時間の中に存在するというのは、古典的神論とはかなりちがう考えです。このことについて説明していただけますか?
GB:これはすべて、用語をどう定義するかにかかってきます。ふつう「時間」というものは、変化の運動として定義されます。その意味では時間はまったく人間的な概念です。私たちが「これには20分かかる」というように時間を測ることができるのは、時計のようなある変化の運動を基準にして、それを元に他のすべてを計測することに決めるからです。もちろん、神はそのようなものに縛られてはいません。ですから、そう言う意味では神は時間に束縛されてはいないのです。
より深い問題は、「神はシークエンス(順序)の中に存在するか?」ということです。言い換えるなら、神には「より前」と「より後」はあるのでしょうか?プラトンは究極的実在にはより前もより後もないと考えましたが、それは彼は真理の数学的モデルを採用したからです。それが彼にとっての完全な知識の概念だったのです。
けれども、クリスチャンがつねに信じてきたように、神が人格的存在であると信じるなら、そしてイエス・キリストから出発して考えるなら、神がシークエンスの中に存在するということはまったく合点がいきます。実際のところ、もし神がシークエンスの中におられないなら、どうやって人格的でありえるのでしょうか?人格であるとは、他者とやりとりをすることであり、応答や相互の交流を持つということですが、そのためにはより前とより後が必要です。
ですから私は、神のご性質そのものの中に、つねにより前とより後があると考えています。けれども、それは私たちが計測するように測られるわけではありません。聖書に「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」とあるのは、そういうわけなのです(注:2ペテロ3章8節)。じっさいの話、神がつねに存在しておられるなら、この被造物世界における経過時間はほんの一瞬でしかありません。無限に短い時間です。もし神が常に存在しておられるなら、その存在時間に比べれば、どんな有限の時間も無限分の一の長さでしかありません。ですから、神による時間の経験は、私たちの時間の経験とはまったく違ったものになるでしょう。けれども大切なことは、神もシークエンスの中に存在していて、宇宙的な「いま」において私たちとつながっておられるということです。「いま」は実在しており、神はその「いま」に存在しておられるのです。神は私たちと同じ未来に直面しており、私たちと同じ過去を振り返っておられます。そして神は、ご自分の目的としておられる未来を私たちと一緒に創りだすため、私たちとともに働いておられるのです。

アンドレイ・ルブリョフ作『至聖三者』
――すべての古典的神論者も、少なくとも正統的クリスチャンであれば、神が三位一体の三つのペルソナ間に存在する永遠の愛の中に常に存在しておられるということは認めると思います。けれども私には、愛は時間性を必要とすると思われます。なぜなら愛は選択を含みますし、選択を行うためには未来がなければならないわけですよね?
GB:そこには何らかの不確定要素がなければなりません。「愛は時間性を必要とする」と言われるとき、シークエンスまたは連続性――つまりより前とより後――を要するという意味で言っておられるのだと思います。その長さを測る「時間」は必要ありません。けれども愛は相互作用を必要とします。あなたが私に反応し、私があなたに反応する――関係を持つとはそういうことです。ですから、神が私たちと関係を持とうとされるとき、それは連続性の中でなされなければなりません。そして、聖書の中で神がシークエンスの中にない存在として描かれている箇所を私は知りません。ご存じのように、出エジプト3章14節「わたしは、有って有る者I AM that I AM」から無時間的な神を引き出そうとする人々がいます。けれども、原文のヘブル語では、ヤハウェは形而上学的な主張を行っているのではありません。神がモーセに言っておられるのは、「わたしの名を知ることによってわたしを把握することができると考えるな。わたしは、わたしがそうであるだろうところの者であるだろう」ということです。けれども聖書における神の描写を見るといつでも、私たちが行動し、神が応答され、それに対して私たちが応答し、さらに神が応答し・・・というふうに、聖書ナラティヴの全体を通じて進んでいきます。
古典的見解では神は無時間的であると考えますので、すべてのものを宇宙的な「いま」において経験しているということになります。でもそうだとすると、神はシークエンスの中に私たちとともに存在しておられるという、聖書の基本的な神の描写は、少なくとも最終的なものではないということになります。つまり、聖書は神がほんとうはどういうお方なのか、ということについて語っていないことになってしまうのです。それはただ、私たちの有限な精神で神を体験するしかたを語っているにすぎない、というわけです。けれども、神がほんとうにどういうお方かを知りたかったら、その答は聖書に求めるのではなく、プラトンに求めねばならない、そうすれば神がどういうお方かについての真理を知ることができるだろう――そういう考え方はどこか間違っていると思います。
もしそのような考えが正しいとすると、神の本質的な、形而上学的属性についての私たちの理解は、キリストが来られたという事実によって、まったく何も影響を受けることがない、ということになってしまいます。この問題についてはギリシア人たちがずっと昔にすでに解決ずみなので、イエスは必要ない、とでも言うのでしょうか?そういう図式は何かがおかしいと思います。
(続く)