グレッグ・ボイド博士のインタビューを掲載しています。今回お届けする部分では、神の主権や力をどのように理解すべきかという、重要な問題について語ってくださっています。
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――オープン神論を学べば学ぶほど思わされるのは、私たちは神の主権や力、支配と言った概念について聖書的に再定義する必要があるのではないかということです。なぜなら、オープン神論に対して、特にカルヴァン主義陣営からもっともしばしば加えられる批判の一つは、それが神の主権をないがしろにしているということだからです。神の主権、つまり神が宇宙の王であるということと、自由意志や神の愛といった概念を、どのように両立させることができるのでしょうか?
GB:私は、これはキリスト教が異教にもっとも取り込まれてしまった領域だと思います。歴史を通して、人々が神々をどのように想像してきたかを考えて見ましょう。宗教の歴史を見れば、私たちがどのようにして神を自分たちの似姿に作りあげてきたかがわかります。私たちは、自分たちが渇望するような種類の力を神や神々に投影する傾向があります。歴史を通して、特に男性は他者をコントロールする力を熱望してきました。自分を守る力、自分の意志を他者に押しつけるための力、他者を征服する力――私たちがほしがるのは、このような種類の力です。それは権力や暴力としての力です。
私たち自身がそういったものを切望しているので、私たちは神々もそのような力を欲しているに違いないと考えてしまうのです。そういうわけで、私たちはトールやゼウス(注:それぞれ北欧神話とギリシア神話の神)やその他ありとあらゆる強力な神々を創り出しました。彼らは腕力をふるって殴り合いを演じ、怒りに駆られると人々を虐殺する存在です。そこで宗教の役割は、これらの強力な神々のご機嫌をとって味方につけ、私たちが敵に勝利する助太刀をしてもらうことでした。宗教とはそういったものだったのです。

巨人と戦うトール
イエスが現れたとき、すべてが一変しました。イエスが啓示するのは、まったく違う種類の力を持った、まったく違う種類の神です。パウロがコリント人への第一の手紙の1章で言っていることは、あまりにもラディカルで、宗教の歴史から分かることとはあまりにも違っているので、それが霊感を受けたものであることを証明しています。それは人間が考え出したものではありえないからです。彼は、十字架は世にとっては愚かで弱いものだが、救われつつある私たちにとっては神の力であり知恵なのだと言います(注:1コリント1章18-25節参照)。十字架こそ神の力なのです。これはあまりにもラディカルな考えなので、歴史上大多数のクリスチャンはこのことを信じてきませんでした。彼が定義する力とは、神がその全能の力を示される時、それは自分を殺そうとする人々への愛のゆえに十字架にかかることによって表された、ということです。そのようなことをなさる神とは、いったいどういう神でしょうか?
確かに神は主権者であられますが、神の主権とは、自己犠牲的な愛という主権なのです。じっさい、私はこれこそ黙示録の主題であると考えています。それは小羊の勝利なのです。(注:このテーマについては、こちらの過去記事も参照ください。)
神が世界を統治される方法、そして最終的に神が悪に勝利される方法とは、暴力や流血によるものではなく、ゼウスよりも十倍まさった力によるものでもなく、自らのいのちを捨てて、人々をそれによって勝ち取ることなのです。ですから神は確かに主権者ですが、神の主権とは、この上もない自己犠牲的な愛の主権なのです。
(続く)