グレッグ・ボイド・インタビュー(2)

前回に引き続き、グレッグ・ボイド博士のインタビューをお送りします。今回はオープン神論の実践的意義について語っていただいた部分です。

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――未来が開かれていると言う見解には、どのような実践的な意義があるのでしょうか?たとえば牧会において、どのような点が助けになりますか?

GB:そうですね。あるレベルでは、アルミニウス主義とオープン神論の違いは単にその論理的一貫性にあります。もし自由意志を認めるなら、私たちが将来行うことがあらかじめ決定されているとどうして考えることができるのでしょうか?アルミニウス主義者は自由意志を固く信じていますが、にもかかわらず将来私たちが行うことは、私たちがそれを選ぶ前から永遠に定められていると考えるのです。けれども、彼らはオープン神論者と同じように行動し、同じように祈り、同じように語ります。ですから、あるレベルではこれは単に論理的一貫性の問題なのです。それは些細なことではないと思います。私たちの福音理解は論理的に首尾一貫していないよりはしている方がいいと思います。

私の親友のポール・エディ(注:ベテル大学の聖書学・神学教授)は私たちの教会の指導者の一人ですが、自分のことを古典的アルミニウス主義者だと言っています。彼は私の話すことに同意してくれますし、私と同じようにリスクやその他のいろいろな話題について話します・・・私はただ彼が論理的に矛盾していると思っているだけです(笑)論理的矛盾は罪ではありません。でも、私たちはみな多かれ少なかれ首尾一貫していることを求める傾向があるので、オープン神論は多くの人々の助けになると思います。

多くの人々は、未来が開かれているなどということは、それまで考えたこともありません。私もそのような一人でした。未来のすべての出来事があらかじめ決定されていると信じている限り、たとえ自由意志を信じていたとしても、自分のしていることはやはり形ばかりの活動のように感じていたのです。それはまるで、前に見た映画をもう一度見ているような気持ちでした。ですから私は、神と一緒に未来を創りだしているという実感はありませんでした。なぜなら、未来はある意味ですでに「そこにあり」、私はそれを見いだすのを待っているだけのように感じていたからです。

ですから、未来が開かれていると考えることによって、私は人生にもっと大きな意義を見いだすことができるようになりました。祈りは確かに意味があり、私たちの選択には意味があり、私たちの存在には意味がある。すべてがあらかじめ決定されているわけではない――こういった考えは、ウッドランドヒルズ・チャーチに浸透していると思います。神は確かに私たちに意思決定の能力を与えてくださっていると実感できるのは、重要なことです。

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オープン神論は、悪と苦しみをどう説明するかにも影響を与えると思います。あなたが将来行うことが、それをあなたが選択する前から決まっている事実だとして、神があなたがどう行動するかを正確に知っておられるにもかかわらず、それでもあなたに自由意志を与えるとするなら、あなたの未来の選択の<可能性>を知っていて自由意志を与える場合と比べて、その結果生じた悪に対する神の責任がより大きいことになってしまいます。

神はお造りになったすべての人間について、彼らが行うすべての選択の<可能性>を知っておられます。それは人間の親が子どもを世に送り出す時に冒すリスクと同様です。私たちは彼らが正しい選択を行うように祈りますが、その時私たちは、彼らが悪い選択をして、私たちや自分自身を傷つけてしまうかもしれないというリスクを冒しています。これは納得できることですよね。けれども、私たちが人にあるものを与えることによって彼らが自分自身や他人を傷つけるとはっきり分かっているのにあえてそうするなら、その結果生じたことの責任から逃れることは難しいと思います。

スコット・ペックの『平気でうそをつく人たち』という本で、著者が悪を定義している部分を読みましたが、彼はこんなことを書いていました。ある両親に自殺志向の息子がいましたが、彼はひどい鬱状態で、銃で自分の頭を撃ち抜きたいという想念に悩まされていました。ところがこの両親は彼が15歳の時にクリスマスプレゼントとして銃を与えたのです!――案の定、彼は自分の頭を撃ち抜いてしまいました。

この場合、両親は息子に銃を与えたら彼がそれで何をするかを事実上知っていながら、それでも銃を与えたのです。彼らにはそうしたことについての責任があります。けれどももしあなたが、狩りが好きだと知っている人物に銃を与えるとしたらどうでしょうか。彼がそれを犯罪のために用いるということはあるかもしれませんが、それはあくまで可能性の一つに過ぎませんので、あなたの責任ではありません。このように、オープン神論には神義論(注:善にして全能なる神が創造された世界になぜ悪が存在するのかという問題)に関する利点があると思います。

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神義論について一般向けに書かれた『Is God to Blame?』

(続く)