このブログを以前から読んでくださっている方々には、アメリカの神学者グレゴリー(グレッグ)・ボイド博士はおなじみだと思います。同師の著書『疑うことの益 Benefit of the Doubt』についての紹介シリーズ(こちらの最終回にすべての記事へのリンクがあります)を掲載したこともありますし、オープン神論についてのシリーズも、主にボイド師の見解を紹介したものです(こちらを参照)。
私はアメリカ留学時代にボイド師の牧会するウッドランドヒルズ・チャーチ(ミネソタ州セント・ポール)に通っており、先生とは何度もお会いしたことがあります。昨年末に渡米した際に同教会を訪れ、ボイド師にインタビューすることができました。オープン神論や同師の最新刊『十字架につけられた戦いの神 The Crucifixion of the Warrior God』について興味深いお話を伺うことができました。ご本人の許可を得て、これから何回かに分けてその内容をお分かちしていきたいと思います。
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(2016年12月19日、ウッドランドヒルズ・チャーチにて)
――このようなインタビューの機会を与えてくださり感謝します。
グレッグ・ボイド(以下GB):こちらこそ光栄で、嬉しく思います。
――今手元に先生の書かれた『懐疑論者からの手紙 Letters from a Skeptic』があります。これは先生の初期の著作ですよね。
GB:ええ、私の2冊目か3冊目の本だと思います。
――この本を読み直してみて印象に残ったのは、オープン神論や戦いの世界観といった、先生の神学に特徴的なアイデアがすでにみな含まれているということです。とても興味深かったです。
GB:私の神学の中で、時とともに変わってきた部分はあります。けれども、戦いの世界観や開かれた未来についての見解などは、そのころから変わっていません。
――未来が開かれているという見解は、先生の神学の中でも特徴的なものであり、また同時に議論を呼ぶ部分でもありますが、先生がいつどのようにしてオープン神論者になったのか、お聞かせください。
GB:それはかなり時間のかかるプロセスでした。というのは、1984年くらいまでだったと思いますが、私はもともとカルヴァン主義者だったのです。私がカルヴァン主義に立っていた理由の一つは、リバタリアン的な意味での自由意志(注:決定論と両立しない自由意志)を理解することができなかったからです。すべての原因には結果がともなうとすれば、私たちが行うすべての選択には原因があるはずであり、さもなければそれらは気まぐれなものになってしまいます。それで、自由意志について明確な考えを持つことができませんでした。それに、聖書の中にはたとえばローマ9章のように、どう解釈してよいのか分からないような箇所がいくつかありました。それらの箇所は予定説を支持しているように思えたのです。
けれども、私はチャールズ・ハートショーンについて博士論文を書いていたのですが、彼の著作はリバタリアン的自由意志が首尾一貫した考えであることをはっきりと理解させてくれました。

チャールズ・ハートショーン

ボイド師のプリンストン神学校における博士論文
――それはプロセス神学ということですね?
GB:そうです。私はプロセス神学の中で受け入れられない部分はたくさんありますが、プロセス神学の一つの側面として、自由を宇宙的原理として固守するということがあり、私はこの点についての彼らの議論はとても素晴らしいと思ったのです。そして、時がたつうちに、カルヴァン主義者たちが持ち出す古典的な聖書箇所のいくつかについて、異なる解釈をするようになっていきました。実際のところ、85年から86年くらいの時期は、私は開かれた未来を信じるカルヴァン主義者だったのです!というのは、私は自由意志がある限り、未来は部分的に開かれていると考えていましたが、単に聖書的な理由から、カルヴァン主義的な救済論を回避することができなかったからです。そこで私は、神は救いに関しては人々を選ばれるけれども、それ以外の領域では私たちは自由意志を持っていると考えていました。そんなふうにつじつまを合わせようとしていたのです。
けれども、時がたつにつれて、ローマ9章やヨハネ6章などのカルヴァン主義で引用される古典的な聖書箇所について、かなり違った解釈を見いだすことができるようになりました。そういうわけで、86年か少なくとも87年までには、私の立場は変えられていきました。私は、そのような見解を持っている人は、ピーター・ギーチという哲学者しか知りませんでした。当時はオープン神論と呼ばれるものはありませんでしたし、他にそのような見解を持っているクリスチャンはひとりも知らなかったのです。それから私は聖書の中に、すべてが青写真のように最初から決められているわけではないと示唆するような、ありとあらゆる記述があることに気づくようになりました。そのようにして、私の確信は雪だるま式に大きくなっていきました。そんなわけで、87年までには、私はこの見解におおむね落ち着くことになったのです。
(続く)