ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(9)

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前回取り上げた、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の7章でエンズは疑いについて書きましたが、8章では信頼について書いています。信仰を神への信頼としてとらえるなら、疑いは信仰の敵ではありません。疑いを受け入れつつ、それでも神に信頼していくのが、聖書的な信仰と言えます。「信頼の習慣を養う Cultivating a Habit of Trust」と題された第8章では、ものごとをコントロールしようとする思いを手放して、神への信頼を身につけていくべきことについて書かれています。

本書の中で繰り返し強調されていることですが、エンズは信仰を理性的に追求していく試みを決して否定しているわけではありません。しかし彼は、自分たちが神に関する確実な知識を手にする必要がある、という考えを手放すべきだと述べます。私たちは自分の知識がどれほど確実なものかに関わりなく、神に信頼していくべきだというのです。

そして、このような信仰理解は聖書的なものであると言います。すでに見たように、旧約聖書に描かれているイスラエルの信仰の中では、疑いや神との葛藤が正当な位置を占めていました(第5回を参照)。新約聖書ではやや事情が異なるとエンズは言います。新約聖書でも苦しみは大きなテーマの一つですが、それらの文書が書かれたのは、イエスの時代からそれほど時代が下っていない比較的短期間に集中しているため、イエスの再臨と神の国の完成が間近いという期待感に溢れています。そこでは、勝利が目前に迫っていることを考えて目の前の苦しみを耐え忍ぶことが勧められています。しかし、旧約聖書の記者が体験していたような、長期にわたる苦しみと、そこから生まれる信仰的葛藤というテーマはあまり見られません。しかしエンズは、イエスの時代からおよそ2000年が経過した現代の教会は、旧約聖書の信仰から学ぶことが多くあると言います。

この部分のエンズの議論は誤解を招きやすいかもしれません。私の見るところでは、エンズは新約聖書の記者たちは再臨が間近いという「誤った期待」を持っていた、と言っているのではないようです。教会の時代に生きる現代のクリスチャンは、初期のクリスチャンたちと同様、再臨がすぐにも起こるかもしれないという健全な緊張感をもって生活すべきだと思います。その一方で、再臨はすぐに起こらず、長期間に渡って苦しみを通っていく可能性も十分あります。そのような場合、私たちは旧約聖書的な信仰のあり方に学ぶことができる、とエンズは言いたいのでしょう。たとえてみれば、旧約聖書の信仰は長距離走、新約聖書の信仰は短距離走のようなものだと言えるかもしれません。どんな人でも、100メートル競走を走るようなペースでマラソンを走り抜くことはできません。その時の状況に合わせた信仰のあり方というのがあるのだと思います。

それでは、苦しみの問題について新約聖書は現代のクリスチャンに何を教えているのでしょうか?エンズはそこには「キリストとともに苦しむ」というユニークな視点があるといいます。パウロは「キリストにある in Christ」という表現で、クリスチャンとキリストとの神秘的な合一について語っています。そのようなキリストとの一致の中にあって、クリスチャンの苦しみはキリストの苦しみと結び合わされていきます。つまり、クリスチャンが苦しむ時、彼らはキリストの「ために」苦しむのではなく、キリストと「ともに」苦しむのです。そして、前回見たように、キリストの苦しみと死のありさまにあずかることは、キリストの復活のいのちにあずかることにつながっていきます。けれども、後者に達するためには前者を通っていかなければならないのです。

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初期のキリスト者たちが念頭に置いていた苦しみは、主に現実的な迫害や殉教であったと思われますが、エンズは現代のクリスチャンが体験する信仰の危機も、旧約時代にそうであったように、苦しみの一種と考えることができると言います。しかし、新約時代に生きるクリスチャンはそのような危機に対して、旧約時代のイスラエル人とは異なる見方をすることができるとエンズは言います:

私たちが絶望や恐れを抱き、神が宇宙の最果ての星のように遠くはなれているように思えるとき、そのような瞬間にこそ私たちは自分が知っている以上に――あるいはおそらくこれまでになかったほど――キリストと「ともに」いることになる。なぜなら、私たちが苦しむとき、私たちはキリストの苦しみを共有し、それを全うしているからである。(200ページ)

最後の第9章で、エンズは確実性が必要だという思いから解放された生き方について語ります。確実性にとりつかれた人には次のような特徴があるといいます:

*ゆるがない教義的確信をもつ
*だれが境界線の内にいて、だれが外にいるかについて監視を怠らない
*議論に勝ち、信仰を擁護することにこだわる
*論理的議論に最終的な特権を与える
*知的な権威や有名人に疑いの余地なく同調する

このような人々はつねに戦闘態勢にあります。エンズが指摘するように、このような振る舞いをする人を私たちは普通は評価しないものですが、皮肉なことに多くのクリスチャンはそのような生き方を「聖書的」「信仰的」と思ってしまうのです。それは創造主への信頼ではなく、間違っていることに対する恐れによって突き動かされており、その結果他者との健全な人間関係を築くことを阻害してしまうのです。

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しかし、私たちが神への信頼を信仰の中心においていく時、私たちは謙虚に他者と交わり、「間違っている」相手を論破するのではなく、賢明な問いを発して、ともにそれを追求していこうとします。それは、私たちの知識の確実性が失われることへの恐れから解放されているからです。

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エンズは、信頼とは理性を超えたものであり、私たちの予測を超えて働かれる聖霊の動きに従っていくものだと言います(もちろん、そこには何が本物かを見分ける識別力が要求されます)。その意味で、過去の「正統的」枠組みにこだわりすぎる信仰姿勢は生きた信仰を窒息させ、時代の変化と聖霊の導きに従う柔軟性を失わせてしまいます。エンズは過去を守るだけでなく、未来も守らなければならないと主張します。現代のクリスチャンは、次世代のクリスチャンたちが聖霊の導きに従い、批判的・反省的にそれまでのありかたを見直していくことができるような種類の信仰を伝えていく責任があるというのです。それは、硬直した過去の伝統をかたくなに守り通そうとする態度からは生まれてきません。

最後にエンズは、福音が今日の世界で証しされるにあたり、妨げとなっている一つの要因は、クリスチャンたちが確実性にこだわりすぎているからだと言います。「真理」に対する自分たちの確信を握りしめ、他者と対話するのではなくその確信を押し付けることに血眼になっているクリスチャンの態度は、世の人々を福音から遠ざけています。したがって、確実性へのこだわりは、福音のさまたげとなっているという意味で「罪」だとエンズは言います。しかし、そこから離れることは可能です。エンズはヨハネ8章11節のイエスの言葉になぞらえて、「今後はもう罪を犯さないように」と語りかけ、本書を閉じています。

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9回にわたって連載してきた『確実性の罪』についてのシリーズは、今回で最後とします。ブログでは紹介しきれませんでしたが、本書は著者ピーター・エンズの個人的なエピソードなども織り込まれていて、単なる知的な議論を超えた説得力をもって迫ってきました(そしてそれは、まさに本書のテーマにふさわしいスタイルと言えるでしょう)。エンズの具体的な聖書解釈やアプローチに同意しない人々も含めて、彼が投げかけている問題意識を私たちは真摯に受けとめ、考えていく必要があるのではないでしょうか。