ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(8)

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『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の7章で、エンズは「疑い」について正面から取り上げます。疑いとは何でしょうか、そして、信仰者は疑いにどのように接していったら良いのでしょうか?

信仰者の多くは、これまで自分が確信し、そこに人生のよりどころを見いだしてきたことがらについての深刻な疑いを経験します。そしてそれは私たちに大きな不安や恐れを引き起こします。多くの場合、そのような危機に直面したクリスチャンは、何か自分に問題があると考え、なんとか壊れたところを修復しようと努力します。その試みがうまくいけば、私たちは元の信仰生活に戻り、以前と同じ歩みを続けて行きます。けれども、もしそれがうまくいかず、疑いが長期間にわたって続くような場合、心に絶望を秘めながら表面上はこれまでと同じ信仰の歩みを続けて行く人もいれば、潔く信仰に見切りをつけて去っていく人もいます。いずれにしても、疑いは信仰の敵と考えられています。

しかし、エンズはそのように考える必要はないと言います。エンズによると、疑いは信仰の敵ではありません。疑いが信仰の敵のように思えるのは、私たちが「信仰」を私たちの「確実な考え」と同一視するからだと言います。

むしろ、疑いが起こるということは、霊的な新境地への旅が始まっているという意味だとエンズは言います。疑いは霊的な弱さのしるしではなく、信仰のさらなる深みへの一歩なのです。

そのような疑いの時期には、神は私たちに敵対しているように思えたり、遠く離れていたり、あるいはまったく存在していないかのようにさえ思えるかもしれません。けれども、もしかしたらそのような霊的暗闇は、神の不在のように見えるだけで、実は神の臨在の表れかもしれません。それは、私たちが自分たちのちっぽけな神概念から抜け出して成長するための、神からの賜物かもしれないのです。

エンズはこのことを死と復活というイメージを用いて説明します。新約聖書は一貫して、クリスチャンの信仰の歩みをイエスの死と復活に重ねています。イエスは自分に従おうとする者たちは、十字架を負って彼に従って来なければならないと語りました(マタイ10章37-39節ほか)。パウロもまた、自分はキリストとともに十字架につけられた存在だと語り(ガラテヤ2章19-20節)、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3章3節)とまで言っています。キリスト教の本質は、正しい教理や道徳以上のものです。それはキリストとの神秘的な合一を通して、キリストの死と復活にあずかることなのです。そして、わたしたちがキリストの復活のいのちにあずかるためには、まずキリストの十字架の死にあずからなければなりません。

このことと、疑いとはどのように関係しているのでしょうか?エンズは「疑いは、この死とよみがえりのプロセスが進行中であることを知らせてくれる」と言います(164ページ)。疑いは、神が私たちを死を通っていのちに至らせるために用いる道具です。「疑いは神の厳しい愛」なのです(165ページ)。

このような信仰理解はエンズのオリジナルではなく、キリスト教の歴史の中で長い伝統があります。それは「魂の暗夜dark night of the soul」と呼ばれてきたもので、エンズ自身もその影響を受けてきたことを本書で語っています。

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神がおられないかのように思える魂の暗夜は、神の臨在の特別なしるしです。そこでは、私たちの偽りの神概念がはぎとられ、私たちの存在は空っぽにされます。それが暗闇のように感じられるのは、私たちが頼れるもの、コントロールできるものが何もなくなるからです。けれどもそのようなときにこそ、私たちは「それでも神に信頼するtrust God anyway」よう招かれているのです。

暗闇は、ものごとをコントロールできるというのは幻想であることを明らかにすることによって、私たちのために役立つ。すべてが取り去られたとき、「どこでコントロールを取り戻すことができるのだろうか?」という熱心な問いかけはついには止み、「主よ、コントロールを手放すことができるように助けてください。自分に死ぬことができるよう、助けてください。信頼することができるよう、お助けください。」という嘆願に変わっていく。(170ページ)

エンズによると、このような決断をすることこそ――それがどれほど困難であろうとも――クリスチャンの信仰生活の真髄なのです。それは偶像――つまり、私たちが理解しコントロールできるような、私たちの想像上の「神」――を捨て去って、まことの生ける神との交わりに生きることです。

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キリストとの神秘的な合一によって、十字架の死と復活のいのちとにあずかるということは、新約聖書の霊性の核心にある考えです。パウロはそのことをローマ書の中ではっきりと書いています:

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。(ローマ6章3-5節)

パウロが言うように、バプテスマはクリスチャンがキリストの死にあずかることを意味していますが、それはバプテスマの時だけで終わるものではなく、上で引用した福音書やガラテヤ書その他の箇所からもわかるとおり、この地上の生涯を通じて続くプロセスです。

もちろん、キリストの十字架にあずかることはその復活にあずかることに必然的につながっていきます。そして、キリスト者はある意味ですでにキリストの復活のいのちにあずかっています(エペソ2章6節など)。しかし、パウロにとって復活は究極的には未来に実現する希望であり、それに至る地上の歩みはキリストの死と同じありさまになっていくプロセスとも考えられます。

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(ピリピ3章10-12節)

つまり、クリスチャンの地上の歩みは、キリストの死と復活のありさまと等しくなっていく両側面があり、この二つを切り離すことはできません。もし私たちが復活のいのちにあずかっているという側面だけを強調して、十字架を負ってキリストに従うという側面を軽視するなら、バランスを欠いた勝利主義的なキリスト教に陥ってしまうことでしょう。

このことに関連して、最近興味深い議論を読みました。アンドルー・ペリマンという神学ブロガーが、クリスチャンが「キリストのかたちに変えられる」とはどういうことかについて考察しています(こちら)。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(2コリント3章18節)

たとえばこのような個所について、多くの人は「主と同じ姿に変えられていく」とはキリストと似た道徳的特質や行動を現すことができるような人格に作り変えられていくことだと理解していますが、ぺリマンはパウロが語っているのはそういうことではないと言います。そうではなくて、「キリストのかたちに変えられる」とは、キリストと同じように苦しみと死を経験し、それを通して復活に至ることだ、というのです。つまり、それはクリスチャンの人格がキリストの人格に似るようになるということではなく、クリスチャンがキリストが通られたのと同じ旅路をたどるということを意味しているのだというのです。

ペリマンはこれに関連した投稿で、コロサイ1章24節(「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」)についても同様の線で解釈しています。彼はこの箇所はギリシア語の構文的に、「わたしの肉体におけるキリストの苦しみが、なお足りないところを補っている」と取れることを示し、パウロが言おうとしているのは、彼が肉体において教会のために耐え忍んでいる苦しみは、「キリストの死のさまとひとしく」なる(ピリピ3章10節)までにはまだ達していない、ということだと言います。つまり、ここでもパウロのゴールはキリストの十字架の死にあずかることであり、それを通してキリストの復活のいのちにあずかることなのです。

個人的にはペリマンのブログに書かれている細かい釈義的議論にはすぐに同意しかねる部分もありましたし、クリスチャンが人格的にキリストに似たものとなっていくこともまた重要だと思います。クリスチャンが十字架と復活の道を歩む中で、結果として人格が作り変えられるということも起こってくるでしょう(ペリマンもこの点はおそらく否定しないと思います)。にもかかわらず、彼はここでとても大切なことを指摘していると思います。

キリストのかたちに変えられていくということは、復活の栄光に輝くキリストに似たものへと一足飛びに変えられるということではなく、その前に十字架を負ってキリストに従う段階が来なければならないということです。そして、そうだとしたら、「栄光から栄光へと変えられていく」とパウロが言うとき、それは「十字架の栄光をあらわす存在から復活の栄光をあらわす存在へと変えられていく」ということなのかもしれません。どちらもキリストの栄光であり、キリスト者はその両方の栄光を反映する存在として召されているのだと思います。

エンズの本で興味深いのは、このようなキリスト者の苦しみというテーマを、信仰(信頼)と疑いというテーマとつなげて見せたことです。キリストの十字架にあずかるということは単なる抽象的な理論ではなく、現実に大きな痛みを伴うつらい経験であり、それはしばしば信仰者に本物の危機をもたらします。時には十字架上のイエスが叫んだように、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ぶこともあるかもしれません。しかし、そのような疑いの暗黒の中でもなお神を信頼していくとき、私たちはキリストのかたちへと変えられていくのでしょう。栄光から栄光へと――

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続く