これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。
エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような質問を投げかけました:
あなたがクリスチャンであり続けることの最大の障害となっているものを一つ二つ挙げてください。あなたが繰り返しぶつかる障害物は何ですか?そもそもなぜ信仰を持ち続けているのかと疑問に思うような、あなたにつきまとって離れない問題とは何ですか?
これらの質問に対して、エンズは数多くの率直な(しばしば匿名の)回答を受け取りました。それらは、大きく分けて次の5つのカテゴリに分けられるものだったと言います:
1.聖書は神を暴力的な存在として描いている。これは特に旧約聖書における神の裁き(創世記6章のノアの洪水など)やカナンの先住民を皆殺しにせよという「聖戦」の記述に見られるものです。そして、新約聖書でも、黙示録で再臨のイエスは暴力的な裁きの神として描かれています。これらの聖書の記述は、「神とはどのようなお方か?」という問題に関して、多くの人々に対して真剣な考察を迫ります。そのような中で、多くの人は「無神論者になるための最良の教科書は聖書である」と考えているのです。
(ちなみに、黙示録におけるキリストの暴力的な描写の解釈については、過去シリーズ「黙示録における『福音』」を参照してください。)
2.聖書と科学は矛盾するように見える。進化生物学や遺伝学や宇宙物理学や地質学といった自然科学の諸分野は、私たちの生きている宇宙についてさまざまのことを明らかにしてきました。それは、聖書の提示する宇宙像――たとえば地は平らで固定されており、その上をドーム状の天が覆っていて、これらすべては数千年前に造られた――とはかなりかけ離れたものです。また、人類学や心理学や神経生物学は、人間の心理や行動について、以前は考えられなかったような深みにまでメスを入れるようになってきました。そのような中で、多くの人々は「人間とは何か?」という深遠な問いに、聖書はもはや現代人に納得の行く形で答えることができなくなっているのではないかと考えています。
3.世界に満ちる不正や苦しみに対して、神は無関心であるように思える。これは「悪の問題」あるいは「神義論」と呼ばれる問題です。聖書が証しするような、全知全能で愛にあふれた神がおられるのなら、なぜこの世界には不条理と思える苦しみが満ちているのでしょうか?「主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。 」(詩篇121篇7節)やその他多くの聖書のことばにもかかわらず、神は信仰者も含め多くの人々が苦しみの中にある時、それに何の関心も払っておられないように見えます。つまり、神がどのような性質を持っていて、どのように働かれるかについての私たちの(聖書に基づいた)知識は、この世界の現実と合致しないように見える時があります。
4.キリスト教だけが神への唯一の道であると考えることは難しい。多くのクリスチャンは、キリスト教だけが真理を独占していると考えています。しかし、彼らが一歩教会の外に出て、同じ信仰を共有しない人々と交流を持つようになるやいなや、彼らの信仰が揺るがされることがあります。そこで出会うのは、キリスト教を論破しようと手ぐすね引いている戦闘的無神論者ばかりではありません。自分より遥かに知的でしかも善良な非キリスト教徒に出会う時、自分が真理として信じていることがナイーヴで偏狭なものに思えてくる時があります。
信仰に対するこれら4つの「障害」に対しては、もちろんキリスト教(やユダヤ教)の側から、これまでにもいろいろな応答が試みられてきました。しかし、これらが難しい問題であることには変わりありませんし、事実多くの人々がこれらの問題のゆえに信仰から離れ、あるいは信仰に入ることを躊躇しているのです。
5番目の「障害」はこれまでの4つとは性格の異なるものであり、ある意味では最も深刻なものです。
5.クリスチャンが互いをひどく取り扱うので、キリスト教や神の存在そのものの妥当性を疑ってしまう。エンズのアンケートに答えた多くの人々は、仲間のクリスチャンやキリスト教指導者からさまざまな種類の精神的な虐待を受け、その結果教会を去ったり、信仰そのものを失ってしまったと答えました。その理由は、彼らが自分たちが疑わず信じるべきだと教えられてきたことがらに疑問を持ったからです。それは彼らの属していたグループの信じる「福音」を脅かすものと見なされたのです。このような悲劇は、人々が神についての自分たちの考えを神ご自身と同一視してしまうところから生まれるとエンズは言います。
彼によると、この種の問題が最初に挙げた4つと異なるのは、それは完全に私たちのコントロール下にあるものだということです:
私たちは、聖書の難点や、現代世界や、苦しみや、他宗教との接触を避けることはできない。けれども、卑劣で醜いふるまいをやめることはできる。いつでも、私たちが望みさえすれば。
私たちはそうしなければならない。イエスがそう言われているのだ。まさにここにこそ、福音がかかっている。人々のいのちがかかっているのである。(142ページ)
正しい思考にこだわりすぎ、それを熱狂的に追求していく時、それは「我ら」対「彼ら」のメンタリティを生み出し、私たちは「彼らの誤り」から「自分たちの真理」を守ることに全力を尽くすようになります。皮肉なことに、そのようなメンタリティに陥った時、私たちは自分たちが擁護しようとしているイエスが「敵を愛せ」と教えられたことをしばしば忘れてしまうのです。
* * *
さて、上記の5つのカテゴリに代表されるような形で、私たちの信仰が揺るがされたときに、クリスチャンはどうすれば良いのでしょうか?エンズはそれに明快な答えを与えようとはしません。なぜなら、そのような「解答」を提示した瞬間、それは新たな「確実性」を生むことになってしまうからです。その代わり、エンズはこれらの問題に取り組む際に助けになるかもしれない、いくつかの視点を提案します:
1.近代の肯定的な役割を評価する。これまで見てきたような、私たちの信仰(もっと正確に言うなら、ボイドの言う「確実性追究形信仰」)に対するチャレンジの多くは、近代になって起こってきたものです。しかし、エンズはそれは悪いことではないといいます。それは偽りの「信仰」がはらむ問題点を暴き出してくれたからです。「近代の挑戦は、私たちの確実性の感覚を揺さぶり、それによって、私たちを信頼へと押しやった」のです(151ページ)。
(この点は個人的に大いに教えられました。ポストモダン的立場からモダニズムがキリスト教に与えた弊害について批判するクリスチャンが増えてきていますが、モダニズムの挑戦がキリスト教に良い刺激を与えた面も忘れてはならないと思います。)
2.私たちは神を理解し尽くすことはできない。人間の理性によって完全に把握できるような神は神ではありません。エンズは、「創造主への信仰は(反理性ではなく)超理性的で、神秘的なものでなければならない」と言います(152ページ)。
3.キリスト教は、確実性を手放すようにつくられている。キリスト教をキリスト教たらしめている二本の柱は、受肉と復活ですが、これらは二つとも人間の理性を超えた奥義mysteryです。これらの奥義を受け入れるためには、理性を超えて信頼へと進んでいかなければならないのです。
4.聖書が何を提供するかについて、私たちの期待を調整すること。聖書はしばしば、私たちが「聖なる書物はこのようでなければならない」という期待を裏切ります。そのさい特に重要なのは、聖書を数千年前に書かれた古代文書として読むということです。聖書はそれが書かれた古代の歴史的背景のもとで読まなければならず、そのためにはそれなりの努力が必要となってきます。
5.神の時。人生には、神を親しく体験する特別な瞬間があります。それは理性的に説明することはできませんし、その妥当性を第三者に証明することもできません。しかし、まさにその点――それが理性を超えている点――が重要なのだと、エンズは言います。そのような「神の時」に信頼を置いていくことが重要です。
6.神は松葉杖ではない。以前のエンズは、神が自分を助けてくださるからという理由で信仰を持つ人々を見下していたそうです。キリスト教が真理なら、それには自分が必要だからという以上の理由が必要です。しかし、今では少し見方が変わって、神に助けを叫び求める人は、自己に頼るのではなく、完全に神に身を委ねることができるユニークな立場に置かれており、まさにそこから神との真の交わりが始まる可能性があるのだと思えるようになったと言います。
7.信仰と格闘するのは正常なことである。エンズにとって、信仰の人生においては「旅」や「巡礼」が重要なキーワードになってきたと言います。
私は不安定で、不確実で、恐れに満ちた時期があると、それによって私が何者であり、どこにいて、何を考えているかということが現実を規定するわけではないことを思い起こすよう、期待するようになった。その道中で、自分の体験に向き合い、そこに真に身を置くことによって、ある瞬間の私の体験は旅の全行程ではないことを思い出すことができるのだ――神が遠くはなれているかのような時期も含めて。(154ページ)
そのような信仰の旅路にあって、葛藤と疑いの時期は――聖書の中でさえ――よくあることなのです。
(続く)