ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(5)

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聖書は多様性に満ち、複雑で、そしてリアルな書です。その中には、画一化されたキリスト教の「敬虔」のイメージに当てはまらないような箇所、多くのクリスチャンにとって、教会で公に朗読するのがはばかれるような箇所もあります。けれども、そのような箇所から目を背けることなく、また自分の信仰理解にこじつけたような解釈を施そうとすることなく、聖書が語りかけることにじっと耳を傾けていくことによって、今まで見えなかった新しい世界が開けてくることがあります。

ピーター・エンズは『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の3章と4章で、旧約聖書の中からそのような箇所をいくつかピックアップしています。

まずエンズはいくつかの詩篇を取り上げます。詩篇は神に対する賛美や感謝の祈りももちろん含まれていますが信仰者の嘆きや苦しみを歌った種類のものも多数あります。エンズはその中で88篇、89篇、73篇の3篇について語っていきます。

詩篇88篇については、以前も取り上げたことがあります(こちら)。この詩篇では苦しみの中にある信仰者の神への叫びが綴られていますが、多くの嘆きの詩篇とは違って最後まで明るい調子が表れることなく、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(新共同訳)という絶望的なことばで終わっています。

神が遠く離れて顧みておられないかのような、あるいは神が不在であるかのような感覚について、聖書が記していること――そしてそのような態度が決して否定されていないこと――は重要であるとエンズは言います。神に見捨てられたように感じる体験は信仰者にとって決して例外的なことではなく、むしろよくあることであり、神の民であることの一部をなしていて、それゆえ貴いものだというのです。そしてこのようなイスラエルの霊性は、十字架上のイエスの叫び「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節、詩篇22篇1節参照)につながっていくものです。

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エンズはウォルター・ブルッゲマンがこのような聖書箇所をイスラエルの「主証言(main testimony)」に対する「対抗証言(countertestimony)」と呼んでいることを紹介しつつ、その重要性を強調しています。対抗証言は、イスラエルの神が私たちの予測通りに動いてくださり、ものごとが順調に進んでいくという「主証言」にチャレンジを与えることによって、私たちの人生の複雑な現実をとらえています。人生の歩みの中で、これまでの信仰理解ではとらえられないような事態に直面したとき(そしてそれは決して珍しいことではありません)、私たちはこのような「対抗証言」に耳を傾けていく必要が出てきます。

詩篇89篇では、前半で詩人は神の恵みと真実を高らかに歌いますが、その内容が後半ではひっくり返されます。真実な神はダビデと永遠の祝福の契約を結びましたが、その契約を破棄されたというのです(38-39節)。これはそして詩人は「主よ、いつまでなのですか。」(46節)と嘆願し、神の真実なるご性質のゆえに、ダビデと結んだ約束を守ってくださるようにと訴えます(49節)。

詩篇89篇は神に裏切られた感覚、神が約束を反故にされたと思えるような状況について歌っています。これは神学的にはある意味で88篇よりさらに問題を含んだものと言えるかも知れません。けれどもエンズは、詩人は神をまだ充分に信頼しているゆえにこそ、面と向かって神に抗議しているのだと言います。

詩篇73篇では悪の問題が取り扱われています。「見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。」(12節)。けれども、詩人を悩ませているのは悪人が栄えることではなく、神がそのような悪を放置しておられるかのように思えることです。

エンズはこの問題を詩人がどのように解決したかに注目します。彼は悪の問題について思索しても解決を得ることはできませんでした(16節)。しかし、結局詩人がしたことは、「神の聖所に行って」、神を礼拝することでした(17節)。

あらゆる証拠から見て、神が決められたルールに従って動いてはおられないような時でも、詩人は聖所に入る。彼は神から遠ざかるのではなく、神に近づく――それは、あらゆる反証にもかかわらず、神を信頼しようとする動きである。それが彼に与えられた唯一の選択肢だったのである。(70ページ、強調は原文)

続いてエンズは伝道者の書に目を向けます。作者のコヘレトが描くのは、「空の空、空の空、いっさいは空である。」(1章2節)というキーフレーズに見られるように、陰鬱で虚無的な世界です。地上には悪が栄え、人の一生はむなしい労苦の積み重ねで、彼らが死ねば誰も覚えている者はありません。神を信じることには何の意味もないかのような人生の現実がえんえんと12章にわたって描写されて行きます。そして本書の最後に(12章9節以降)、コヘレトとは別人の語り手が全体のまとめをしますが、そこではこのように言われています。

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(12章13節)

エンズは、伝道者の書の結論部分は、それまで12章にわたって書かれてきた内容をキャンセルするものではないと言います。むしろそのような、一見神を信じることがむなしく思えるような現実をしっかりと受けとめた上で、それでも神を恐れ、従うことが求められているのだと言います。それこそが、伝道者の書に込められている深遠な信仰のパラドックスだというのです。そして、それは信仰の弱さの表れではなく、まことの信仰者が持つ経験についての真摯な考察であると言います。

最後に、エンズはヨブ記を取り上げます。正しい者がなぜ苦しまなければならないのか――ヨブ記のこの有名な主題については、さまざまな解釈や解答が提出されてきました。けれどもエンズは、ヨブ記は私たちが知る必要(より正確に言えば、私たちが神のわざについて知ることができるという期待)を手放すことを命じている、と言います。信仰(=信頼)とは、私たちが神を理解できる時に働くわけではありません。私たちには神が理解できないのだとついに悟った時、にもかかわらず働くのが信仰だというのです。

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エンズが取り上げている旧約聖書の各箇所については、さまざまな(そしてより「敬虔」な)解釈を施すことが可能です。しかし、ここでエンズは、多くのクリスチャンが見過ごしている(あるいは見て見ぬふりをしている)聖書の箇所が、信仰者のリアルな葛藤を正面から見据え、受け止めていることを的確にとらえていると思います。

エンズが指摘するように、聖書は偶像礼拝をしたり他人に対して不正な振る舞いをすることを厳しく断罪していますが、神に見捨てられたと感じることについて語ることは批判していないどころか、むしろそのような苦悩の叫びを聖なるテクストとして保存してさえいるのは、驚くべきことであると思います。

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イスラエルの信仰は、神に対して疑いや葛藤を抱くことを排除せず、むしろ積極的に信仰の中に取り入れていっているように思えます(これについては、こちらの過去記事もご覧ください)。それはもしかしたら、自分たちが理解し制御できる神学体系の中に神を押し込めようとする人間の傲慢に対しての警告なのかもしれません。

本書の中で繰り返し出てくる表現に、「それでも神に信頼する(trust God anyway)」というものがあります。神を信じるべき何の論理的理由も見あたらないとき、神が私たちを無視したり、私たちに対して真実でないように思えるようなとき――それでもとにかく神に信頼するのが、聖書的な信仰であるとエンズは言います。

それでも。Anyway――

もし私たちが自分に正直になるなら、信仰の歩みの中で出口のない暗闇をさまようような体験をすることは、決して珍しいことではないと思います。そのような時、私たちに必要なのは、この一言なのかもしれません。

続く