ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(3)

その1 その2)

前回に引き続き、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第1章を見ていきます。前回見たような信仰の危機が生じる背景には、ある特定の信仰理解があると思われます。エンズ自身がその中で育った、この種のメンタリティにおいては、「真の信仰と正しい思想とは同じコインの裏表であった」と言います(13ページ)。そこでは、自分が何を信じているかということについて確信が持てている限り、人は安定した信仰生活を送ることができます。何が信じるべき「正しい教え」であるかは明確に定義されており、その境界線の中にとどまっている限り、自分は正しい道を歩んでいるという安心感があります。

しかし、エンズは最終的にそのような「安住の地」を出て、「自分が確信を感じているかどうかにかかわりなく、幼子のような信頼をもって神に依り頼むことを選ぶ」境地に導かれていったと言います(15ページ)。なぜでしょうか?

エンズによると、神に対する信仰と神についての私たちの思想(信条)を同一視するとき、さまざまな問題が生じてきます。なぜなら、限界ある人間の営みであるかぎり、私たちの神についての思想が絶対的に正しいということはありえないからです。聖書にしても、何の解釈も通さずに「ただ聖書に書かれていることをそのまま受け取る」ということは不可能です。私たちが聖書のメッセージだと理解している内容は、あくまでも私たちの解釈であり、それはつねに誤りを含みうるものです。要するに、私たちの理解の中にある神のイメージは、実際の神ご自身とまったく同じではないのです。

このような、私たち人間の神理解が誤りを含みうる、限定されたものであること自体は問題ではありません。被造物が創造主について完全な理解を持つことができないのは当然のことです。問題は、私たちがそのような人間としての限界を忘れ、自分の理解する「神」を本物の神ご自身と混同してしまうことにあります。その時、私たちの「神」は私たちにとって偶像となってしまう可能性があります。もしそうなら、私たちは神ご自身よりも私たちの思想により頼んでいることになるのです。

エンズによると、前回見たような、信仰が揺るがされる体験は、私たちが神を自分たちの思考の枠内に押し込めてしまっていることに気づかせてくれます。もしそのように捉えるなら、そのような体験は恐れるべき脅威ではなく、むしろ私たちを解放し、信仰を深めさせてくれる助けになると言うことができるでしょう。

エンズは決して神についての真理を知的に探求する営みを否定しません。彼が警鐘を鳴らしているのは、正しい思考に没頭するあまり、あたかも私たちの信仰が神についていかに正しい考えを持つかにかかっているかのように考えてしまうことです。そのような態度を彼は「確実性の罪」と呼びます。それが罪であるのは、そのような態度が生けるまことの神を私たちに理解可能なイメージと同一視し、偶像としてしまうからなのです。

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エンズがここで述べているような内容は、「確かさという名の偶像」と題した過去シリーズで取り上げた、グレッグ・ボイドのいう確実性追究型の信仰の問題とおおむね重なります。神について正しい理解を持ち、その内容を疑わずに信じることが「強い信仰」だ、という信仰理解がさまざまな問題をはらんでいることは、そのシリーズで見たとおりです。

その第一は、そもそも私たちが持っている「正しい神理解」が本当に完全に正しいものなのか、私たちには決してわからないということにあります。たとえそのような神理解が、神のことばである聖書にもとづいているものだとしても、です。なぜなら、私たちの聖書理解(解釈)はつねに不完全なものにとどまるからです。同じように聖書を信じている真摯なクリスチャンの間に、聖書や神についてさまざまな見解の相違がある事実が、このことを証ししています。

しかし、このような確実性追究型信仰の真の問題点は、自分たちの神理解の不完全さに目を塞がせ、異なる理解を持つ人々と対話したり、彼らから学んだりする可能性を最初から排除してしまうところにあります。このような硬直化した信仰理解に陥ってしまうと、人は自分がより頼んでいる信仰理解が脅かされるのではないかという恐れにつねにつきまとわれ、その反動として意見の異なる人々に対して過度に攻撃的な態度をとるようになります。

したがって、このようなメンタリティから解放される第一のステップは、「自分(たち)があらゆる問題に対して正解を持っている」という高ぶりを捨てて、まだ到達していない真理を謙虚に求めていこうとする態度を身につけることだと思います。

第1回でも書いたように、信仰についてのこのようなメンタリティを問題視しているのは、エンズやボイドだけではありません。アメリカのクリスチャン作家・ブロガーであるレイチェル・ヘルド・エヴァンズの処女作であるFaith Unraveledは、アメリカのバイブル・ベルトで典型的な福音派クリスチャンとして育った彼女が、いかにして確実性追究型信仰から解放されて、神に信頼していくようになったかを自伝的に語ったものとして読むことも可能だと思います。

Faith Unraveledという書名は訳しにくいですが、本書が彼女が以前持っていた確実性追究型の「信仰」が解体した(unraveled)ことについて書いた本であるという意味と、その結果彼女にとっていかにして「信仰」の真の意味が解明された(unraveled)かという二重の意味が込められているように思います。けれども、個人的には、本書が最初に出版された時につけられていた、Evolving in Monkey Town(モンキー・タウンで進化する)という刺激的なタイトルも、ユーモアのただよう表紙とともに捨てがたいと思っています(Monkey Townとは、スコープス進化論裁判の舞台となったテネシー州デイトンのことで、彼女は13歳の時からそこで育ちました)。

monkeytown

さて、なぜここでエヴァンズの本を取り上げたかというと、この本の副題(これは旧版でも新版でも変わっていません)に注意を喚起したかったからです。それは“How a Girl Who Knew ALL the Answers Learned to Ask the Questions”(すべての答えを知っていた少女がいかにして疑問を口にすることを学んだか)というものです。この副題は、クリスチャンが「確実性の罪」から解放される道について、みごとに要約しています。

十代の頃のエヴァンズは、クリスチャンとして何が正しい生き方かについての確信に満ちていました。それは伝統的な家族概念を守ることであり、米国民としての忠誠の誓いに神への言及を残すことであり、銃規制に反対することを含んでいました。彼女は「赤ん坊がどこから出てくるか知る前から、人工中絶が何かを知って」いました。そしてビル・クリントンを支持した祖父は地獄に行くと思って、彼のために泣いたそうです。彼女はこのような「正解」を学び、擁護し、他者を説得することに情熱を燃やしていました。けれどもやがて彼女はそのような確信が揺るがされる経験を通して、さらに深く信仰を追求するようになっていくのです。

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エンズの本から話がそれましたが、近年ますます多くの人々が確実性を偶像視することの危険性を認識し、疑いや疑問を持つことに肯定的な価値を見出すようになってきているのは確かだと思います。

そして、エンズはこのような洞察は今現在「信仰の危機」や疑いの中にある人々のためだけにあるのではないと言います。自分の「確実な神理解」の中に安住し、満足している人々も、自分たちがもしかしたら神がどのようなお方であるのか、クリスチャンの人生がどのような歩みであるのかについて、大切なものを見落としていないか、考えてみることは有益かもしれません。

続く