ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(2)

その1

ピーター・エンズの著書『確実性の罪(The Sin of Certainty)』について、前回は導入的な記事を書きましたが、今回からいよいよ本書の内容に入っていきたいと思います。

本書は9章からなりますが、その第1章「自分が何を信じているのか、もう分からない(I Don’t Know What I Believe Anymore)」というショッキングな題がつけられています。ここでエンズは、多くの(もしかしたらすべての)クリスチャンが一度は体験したことのある、ある瞬間について語り始めます。

それは、神について自分があたりまえのように信じてきたことがらが揺さぶられ、脅かされるような体験です。それは必ずしも聖書やキリスト教について深く考えている時に起こるとは限りません。エンズにとっては、そのような体験の一つは、飛行機の中で子ども向けの映画(『テラビシアにかける橋』)を観ていたときに起こりました。映画の主人公で、聖書を信じなければ神さまはあなたを地獄に墜とすだろうと語る、典型的な福音派クリスチャンのジェスとメイベルに対して、もう一人の主人公レスリーが「神さまがそんなことをなさるとは思わない」と答える場面を観て、神学校の教授であるエンズはふと「レスリーは正しい」と思ってしまったというのです。

ここで、レスリーの「神学」が正しいかどうか、エンズが最終的にレスリーに同意するかどうかということが問題なのではありません。重要なのは、エンズがこの体験を通して起こった信仰のゆらぎについて、正面から向き合って考察するようになったことです:

私はその時まで、自分が神について考えていることをあけっぴろげに探求することは決してなかった。なぜなら、疑問を抱きすぎることはクリスチャンとして安全なふるまいではないと教えられてきたからだ。そんなことをすれば、神は私に対してたいへん失望し、怒られるだろう、というのである。(4ページ。強調は引用者)

それまで、エンズのクリスチャンとしてのエネルギーは、つねに神学的な「誤り」をいかに探知し、排除するかに注がれてきました。彼自身の表現を使えば、彼の「神学的アンチウイルスソフト」はつねにフル稼働していたのです。しかし、この体験をきっかけに、彼はこのような疑いの瞬間をむしろ信仰を成長させる「神の時」ととらえ、自分が神について知っていると思い込んでいる知識に執着することをやめて、神に信頼する必要をおぼえるようになっていったと言います。

もちろん、これは容易なことではありません。自分が間違いのない真理だと信じてきた教え、しかもそれを疑わずに信じることが永遠の救いの条件であると教えられてきた内容が、もしかしたら間違っているかも知れないという疑問をいだくことは、それだけで大きな恐れと不安を引き起こすものです。このような信仰の葛藤について考察し、それにどう取り組んだらよいかを考えるのが本書の主題です。

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本書を読んでまず感銘を受けたのは、著者エンズの率直さです。これはグレッグ・ボイドのBenefit of the Doubtについても感じたことですが、クリスチャンにとって疑いをいだくことは健全なことだと主張したり、また自分自身疑いを抱くことがあると公言することには、大きなリスクが伴います。なぜなら、多くのキリスト教会においては、講壇から語られる公式の教えに疑いを差し挟むことはタブー視されているからです。「あまりにもしばしば、教会は霊的に率直になるには最も危険な場所である」とエンズは言います(9ページ)。

それはつねに白黒のはっきりした世界であり、クリスチャンが何を考えどのように行動すべきかが明確に定義されている世界です。どのような問いにも決められた「正解」があり、それを疑わずに受け入れることが「よいクリスチャン」のあかしであるとされています。逆に、疑いや疑問を持つことは「不信仰」なこと、弱いクリスチャンのすることとして、批判や同情の対象とされることがあります。「疑い」や「確信のなさ」は解決すべき問題、克服されるべき弱さ、治療を要する病と見なされるのです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?疑いや不確実性には、よりポジティヴな価値もあるのではないでしょうか?本書はそのようなことを考えさせてくれます。

この問題は、特に牧師や神学教師といった、教会の指導者とみなされている人々にとっては深刻だと思います。なぜなら多くの場合、指導者はつねに揺るがない確信を持ち、人々に「真理」「正解」を教え、神学的「誤り」に対してはこれを暴露して反駁し、信徒を守って戦うことが求められるからです。

しかし、私は個人的に思います。信仰が揺さぶられ、疑いをいだいたことのない指導者などいるのでしょうか?

私には推測するしかありませんが、多くのキリスト教指導者は内心では疑いや不確実性と葛藤しながらも、信徒に対してそのことを認めることを恐れて、そうできないでいるのではないかと思います。それは理解できることです。信徒の問いに対して「分からない」と答えることは恥であり、指導者としての能力や霊性の乏しさをさらけだすものと考えるかもしれません。そんなことをしたら、信徒が失望して去って行ってしまうのではないかと思うかも知れません。実際、信徒が牧師に一切質問することを許さない教会もあるそうですが、これはそのような恐れの裏返しではないかと思います。

ところで、私は最近ではフェイスブックの個人的使用は一切しておらず、仕事で使用するだけですが(その理由についてはこちらの過去記事に書いてあります)、SNSにおける「リア充アピール」という現象があるそうです。つまり、SNSの世界には自分の人生がいかに幸せで充実しているかを友人たちにアピールする投稿が溢れているというのです。

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これは自己承認欲求のなせるわざであり、裏を返せば自信のなさの表れなのでしょう。そのような人々は、意識しているといないとにかかわらず、つねに自分の人生の充実ぶりを他者にアピールし、それを評価してもらわないと不安になってしまうのです。そして多くの場合、そのような投稿は周囲の人間にプレッシャーを与え、さらなる「リア充アピール」の連鎖を生んでいます。

キリスト教会にも「リア充アピール」ならぬ「ゆるがない信仰アピール」という病理が潜んでいるように思います。

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つねに自信にあふれた態度をとり、自分(たち)だけが真理を所有していると主張し、異論に対してはこれを攻撃し、疑いを持つことを自分にも他人にも許さない――おいおい本書の内容を紹介していく中でも触れていきますが、このような信仰態度は聖書的でないばかりか、自分にとっても他人にとっても有害であるように思います。そして何より、もし本人が実際に疑いや信仰のゆらぎを体験しているにもかかわらず、このようなアピールがなされているなら、それは自己欺瞞的な態度であると言えます。

もちろん、私たちの信仰生活において、揺るがない確信を持つことができる時もあることは確かです。しかし、ちょうど「リア充アピール」をする人々の生活がつねにバラ色でないのと同じように、信仰生活にも浮き沈みがあります。これまで信じてきたことが足元から崩れていくように感じる時、いつ果てるとも知らない暗いトンネルに入り込んだかのように思える時、祈りが虚空にむなしく響くように思える時があります。けれども、そのようなときにこそ、神はそばにいて私たちに語りかけておられるのかもしれません。もし私たちが信仰の歩みの暗い側面を無視し、抑圧するなら、大切な何かを失ってしまうのではないかと思います。

中には本当に一切の疑問や疑いとは無縁の信仰生活を長年送っているクリスチャンもおられるのかもしれません。もしそうならそれは素晴らしいことだと思いますし、そのような揺るがない信仰を神からの賜物として感謝して受け止めていけばよいと思いますが、それがクリスチャンのあるべき「標準」であると考え、疑いや疑問と葛藤することを「不信仰」や「霊的弱さ」のしるしとみなすべきではないと思います。真摯な疑問や疑いをもつことが健全な信仰の一部分であることが広く認識され、疑いや疑問を持つクリスチャンが愛を持って受け入れられ、そのような話題について安全な雰囲気の中で語り合えるような文化がキリスト教会でもっと育っていくことを願います。

続く