12月27日から31日にかけてJCFNの主催でカリフォルニア州マリエータで行われたEquipper Conference 2016 (EC16)に参加して来ました。

会場となったMurrieta Hot Springs Christian Conference Center
すでにシリーズ「ルカ文書への招待」(最終回の記事に各回へのリンクがあります)で書いてきたように、今回私は講師の一人としてお招きいただき、朝の4回の「聖書講解」の時間でルカ福音書からお話をさせていただきました。箇所とタイトルは以下の通りです。
第1回 「信じる者になること」(ルカ1章26-38節)
第2回 「弟子になること」(ルカ5章1-11節)
第3回 「隣人になること」(ルカ10章25-37節)
第4回 「証人になること」(ルカ24章44-53節)
参加者は毎朝の聖書講解の前に、小グループに分かれてIBS (Inductive Bible Study、帰納的聖書研究)と呼ばれるバイブルスタディを行いましたが、毎朝のIBSの箇所はその日の聖書講解と同じ箇所が取り上げられました(このような形でIBSと聖書講解を連動させたのは今回が初めての試みだったそうです)。このようにして、IBSで個人や小グループで読み、考え、話し合った同じ箇所について、さらに聖書講解で語られるのを聞くことで、聖書の理解がぐっと深まったということを何人もの方々から聞きました。語る側としても、会衆がとてもしっかりとこちらのメッセージを受けとめてくれているという手応えを感じて、安心してお話しすることができました。このような部分も含めて、集会全体が非常に緻密に考えられ、組み立てられていると思い感銘を受けました。
今回は4回の聖書講解の他、聖書に関する二つのワークショップを担当させていただきました。個人的にも、古くからの友人との再会や新しい方々との出会いが与えられて感謝でした。特にもう一人の講師であった内越努先生(愛隣チャペルキリスト教会主任牧師)とは初めてお会いしましたが、とてもよいお交わりをいただきました。また今回は妻と三人の娘たちも参加しましたが、妻は通訳と英語部のワークショップを担当し、子どもたちはユースのプログラムに参加して、とても楽しい5日間を過ごしたようです。
今回もう一つ嬉しかったことは、私のベテル神学校時代の恩師であり、私を聖書学の世界に導き入れてくださった恩人でもあるJeannine Brown先生(ベテル神学校サンディエゴ校)がECを訪れてくださったことです。ブラウン先生は広く読まれている英訳聖書New International Version (NIV) の翻訳委員の一人でもある新約聖書学者です。先生とは11月のSBLでお会いして、ECのことをお話ししたところ、とても関心を持ってくださり、ECを通して神学校に行きたいという願いを持つようになった人のために、ベテルの紹介をしてくださいました。このような形で母校とJCFNの間をとりもつことができて、たいへん感謝でした。

ブラウン博士
JCFNについてはこちらの過去記事にも書きましたが、在外日本人クリスチャンの帰国支援と帰国後のフォローアップを中心とした働きがなされています。今回のEC16でも、海外で信仰を持った日本人クリスチャンが帰国して直面するであろうさまざまな困難を想定したプログラムやメッセージが繰り返し語られていました。カンファレンスにはそのような、これから日本への帰国を控えている人々だけでなく、彼らを送り出そうとしている海外在住のクリスチャン、そして、彼らを迎え入れる日本側のクリスチャン(今回日本からもたくさんの参加者がありました)も参加しており、また求道中の人々もいました。ECでそのようなさまざまな背景を持つ人々が集まり、ともに神を礼拝し、交わりを持つ様を見る時に、人々を信仰に導き、整え、母国へ送り出し、受け入れていく一つの大きな流れができているのをイメージすることができました。

全体集会の様子
今回のECに参加して特に個人的に思わされたのは、クリスチャン同士のつながり、キリストのからだの大切さでした。
集会では参加者の平均年齢の若さを反映して元気よく盛り上がる場面がたくさんありましたが、同時に、このような集会における感情的高揚はやがて時が経てば冷めていくものであることもしっかりと指摘されていました。さまざまな「決心」を行う機会もありましたが、それらの決心もまた、参加者個人の確信や意志の強さだけに頼っていたのでは、もろくも崩れ去ってしまうことでしょう。では、そうならないためには何が必要なのでしょうか?
私はその一つは信仰の友とのつながりであると思います。感情的な体験は大切なものですが、それだけではその後の信仰の歩みを支えることはできません。しかし、このような集会でキリストにある兄弟姉妹と長く続く交流が生まれるならば、それはその後の信仰生活にとって大きな励ましとなります。
パウロも手紙の中では、いろいろな人からのあいさつを取り次いだり、彼が派遣する人々を推薦したりしていますが、それらはローマ帝国の各地に散在する教会を励ますためでした。たとえばコロサイの教会に宛てた手紙で彼は次のように書いています。
わたしの様子については、主にあって共に僕であり、また忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、あなたがたにいっさいのことを報告するであろう。わたしが彼をあなたがたのもとに送るのは、わたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためなのである。(コロサイ4章7-8節)
このように、さまざまな地域に暮らしているクリスチャンたちが互いに励まし合うネットワークを構築することは、パウロの大切な働きの一つであったように思います。
そして、そのような励ましや慰めは、しばしば弱く傷ついたクリスチャンによって与えられます。
4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。(2コリント1章4-7節)
ECではいろいろな参加者からの証詞を聞く機会がありましたが、それらの多くは、何らかの形で苦しみや試練を通った体験を語ったものでした(帰国後の孤独な生活、罪との葛藤、愛する者の死など)。現在もまだそのプロセスの途中にある人もいました。それらの証詞によって慰め、励まされた人が今度は最終日に証詞をするということもありました。神は苦難の中にある信仰者を直接慰めるだけでなく、キリストのからだに連なる他の信仰者を通しても慰めを与えてくださることが多いのではないかと思います。
そして、他者を慰めることができるために、問題が解決済みで、苦難を乗り越えていなければならないということはありません。いま現在傷つき葛藤していても、その中でともにいてくださる神を指し示すことで、多くの兄弟姉妹を励まし、いのちを与えることができるのでしょう。これこそ、教会のうちに存在する「神の力強い活動によって働く力」(エペソ1章19節)とパウロが呼んだもののあらわれではないかと思います。
恵みにあふれた5日間でした。感謝します。