カリフォルニアでのEquipper Conference 2016での奉仕のためにアメリカに来ていますが、その前にミネソタ州にある妻の実家を訪れ、何年かぶりでアメリカでのクリスマスを過ごしています。
近年は日本でもそうですが、アメリカでもクリスマスは文化の一部になっており、キリスト教とは直接関係ない世俗の祝日として楽しまれています。
その一つとして、クリスマスイヴには、市役所前の広場で今年亡くなったホームレスの人々に捧げられた、エキュメニカルな追悼礼拝があり、それに家族で参加してきました。

亡くなった方々の名前を記したプラカードを持って立つ人々
When the song of the angels is stilled,When the star in the sky is gone,When the kings and the princes are home,When the shepherds are back with their flocks,The work of Christmas begins:To find the lost,To heal the broken,To feed the hungry,To release the prisoner,To rebuild the nations,To bring peace among brothers,To make music in the heart.
天使たちの歌声が静まるとき空の星の輝きが消えるとき王や君主たちが宮殿に帰るとき羊飼いたちが群れに戻るときクリスマスのわざが始まる。失われた者を見いだし、心傷ついた者をいやし、飢えた者に食物を与え、囚われ人を自由にし、国を立て直し、兄弟間に平和をもたらし、心に音楽を響かせるためのわざが。
この詩の言わんとしていることは、天使や星や東方の王たちや羊飼いといったイメージに代表されるクリスマスの祝祭的気分(それ自体は否定されていません)が過ぎ去ったとき、クリスマスの本当の意味――この傷ついた世界を回復するために、神の御子がこの世に来てくださったこと――を考え、行動をはじめるべきだということでしょう。
近年のアメリカでは、商業主義に毒されたクリスマスのオルタナティヴとして、互いに高価なプレゼントを贈り合う代わりにそのお金で貧しい人々を助けるための寄付をしたり、ボランティアを行ったりする人々が増えているそうです。そのような活動をしている人たちはクリスチャンだけではなく、人道主義的な精神で行っている人々もたくさんいます。たとえそうだとしても、そのようにしてなされていることは、オリジナルのクリスマスのメッセージとスピリットにかなったものであると言えるのではないかと思います。
サーマンのメッセージには心から同意しつつも、「クリスマスのわざ」は羊飼いたちが舞台から退場してから始まったわけではないことを指摘したいと思います。ルカ福音書のクリスマス物語では、羊飼いたちが「クリスマスのわざ」において中心的な役割を演じているのです。
さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2章8-11節)
「すべての民」(新改訳では「この民全体」)はおそらくイスラエルをさしますが、神の民全体へのよい知らせが告げ知らせられたのは、社会の中で底辺近くに位置していた羊飼いたちにだった、というのは意味深いことだと思います。つまり、当時のユダヤ社会の支配的な地位にあった人々からは顧みられなかった貧しい羊飼いたちこそが、神にとってはご自分の民の代表者たちだったのです。
そしてもちろん、この知らせは「民全体」のためのものですから、知らせを最初に受けた者たちはその知らせを民に伝える責務を負います。それは一国の君主であるならたやすくできることかもしれませんが、彼らは往々にしてそうしようとはしません(マタイ2章に登場するヘロデ大王を思い起こしましょう)。そうではなく、このよい知らせは羊飼いたちによって、いわば草の根的に伝えられていきました(ルカ2章17節参照)。
神の民のためのよい知らせ(福音)はまずはじめに社会の底辺にある人々に伝えられました。それだけでなく、そのような疎外され抑圧されていた人々が、最初の福音宣教者、よきおとずれを伝える者になっていったのです。
クリスマスの時期に、この世の中で虐げられ、忘れ去られた人々のためにイエス・キリストが来てくださったことを、――どのような形であれ――覚えることは、とても大切であると思います。
