12月に入り、南カリフォルニアで行われるEquipper Conference 2016も間近に迫ってきました。この集会に向けたルカ文書の入門コラムとその補足を8回シリーズでお送りしていますが、その6回目をお送りします。
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ルカが語る福音の物語⑥ 「教会のルーツを明らかにする物語」
今回は、ルカ文書が書かれた目的について考えてみましょう。ルカ文書は簡単に言うと、イエスから始まる教会の歴史を記した書であると言えます。しかし、なぜルカはテオピロのために教会の歴史を書く必要を覚えたのでしょうか?
以前のコラムでも書いたように、著者のルカも、その読者のテオピロもおそらく異邦人クリスチャンであり、彼らが属していた教会も異邦人クリスチャンが多かったと思われます。どのような個人や共同体にとっても、自分たちが何者であるのかというアイデンティティの問題は重要ですが、異邦人クリスチャンにとって、このことは特に大きな問題だったと思われます。彼らが信じていた唯一の神はイスラエルの聖書が教え、ユダヤ人たちが礼拝している「アブラハム、イサク、ヤコブの神」でした。また彼らが救い主として信じていたイエスもユダヤ人であり、イスラエルのメシヤだったのです。
要するに問題は、なぜユダヤ教に改宗してもいない異邦人がユダヤ人の神を礼拝しなければならないのか?ということでした。異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンとともに、イスラエルの神の民とされた、ということにはどういう意味があるのでしょうか?これは21世紀に生きる私たちにとっても切実な問題です。
ルカ文書はこのような問いに答えようとして書かれました。教会のアイデンティティは、そのルーツ(起源)を明らかにすることによって確立されます。ルカはエルサレムに誕生した教会がどのように民族的な垣根を超えて福音を異邦人に伝えていったかを描いていきますが、その教会の働きはイエスの働きの継続であることが示されます。そしてそれはさらに、旧約聖書に記されているイスラエルの物語とつながっていきます。
ルカ文書は、異邦人クリスチャンを含む教会のルーツを説明し、神が歴史の中で展開してこられた救いのご計画の中で、自分たちの立ち位置を教えることによって、彼らのアイデンティティを確認させてくれる物語なのです。
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<ブログにおける補足>
ルカ文書はとても長い物語です。分量からすると、新約聖書全体の4分の1以上を占めています。これはパウロの手紙すべてを合わせたよりも長いですし、そもそもパウロの手紙は一つのまとまったストーリーを構成しているわけではありません。一人の著者が書いた単一の著作としては、新約聖書の中で飛び抜けた存在感を持っているのがルカ文書です。なぜルカはこれほどの著作を書き記したのでしょうか?とりわけ、なぜルカはマルコにならってイエスの生涯を描く福音書を書くだけでは飽き足らず、その続編である使徒行伝を書く必要を覚えたのでしょうか?
ルカがその二部作を書いた目的はいくつかあると思いますが、その大きなものの一つは、ブログでも書いたように、ユダヤ人と異邦人の混合体としての教会に対して、その起源を説明し、共同体としてのアイデンティティを与えるということでした。ルカはそのことを、論理的な文章を用いて解説するのではなく、物語(ナラティヴ)の形で行ったのです。
ある人のアイデンティティは、その人がこれまで生きてきた人生のナラティヴによって決まります。記憶を失った人にはアイデンティティがありません。なぜなら、自分が「自分である」ことを物語るナラティヴが失われているからです。個人だけでなく、グループも同様です。どんな国家や共同体も、建国物語のような、起源と来歴を説明する共通のナラティヴを持っています。ちなみにこのようなナラティヴは史実である必要はなく、神話のようなものの場合もあります。とにかく、そのナラティヴをメンバーが共有することができれば、共同体としてのアイデンティティが生まれるのです。
たとえば、日本では1940年に「皇紀二千六百年」が祝われましたが、これは(現代の歴史学の主流では伝説上の人物とされる)神武天皇が紀元前660年に即位し、日本国の礎を築いたというナラティヴに基づくものでした。それは日本人という民族のアイデンティティを与える建国物語でした。そして、当時のキリスト教会の多数派が「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」を開催してこれを祝ったということは、教会がそのような日本建国のナラティヴを共有し、みずからが持つナラティヴをそれに結びつけていく行為だったといえます。(これについては「戦争と神学者」のシリーズも参照ください。)
さて、ルカ文書に話を戻しますと、使徒行伝では福音がエルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤ、そしてローマ帝国内に広く伝えられて行く様子が描かれています(使徒1章8節参照)。そして、使徒行伝のプロットの中で重要な転機となっているのは、福音がユダヤ人という民族的境界線を越えて異邦人にまで伝えられていったことです。
ルカはこのような展開が偶然ではなく、神のご計画と導きに従ってなされたということを示そうと、たいへん心を砕いています。たとえば最初の異邦人クリスチャンとなるコルネリオが回心するくだり(使徒10-11章)では、コルネリオとペテロの両方が神からの超自然的な幻によって導かれたことが繰り返し語られ、コルネリオと彼とともにいた異邦人たちの回心が確かに神の御心にかなったものであったことが、聖霊が彼らに下ったことで確証されました(10章44-48節)。さらにペテロはこのことをエルサレムの使徒たちにあかしし、彼らを納得させています(11章4-18節)。
使徒15章に描かれているエルサレム会議では、ユダヤ教に改宗しない異邦人をそのまま教会に受け入れるという決議は聖霊と使徒たちの合意によってなされたとされています(15章28節)。使徒行伝ではこの他にも、異邦人宣教の働きが聖霊の超自然的な導きと助けのもとに展開していったことが繰り返し書かれています。これはただ単に宣教活動のめざましさを強調する奇跡物語ではなく、神の民イスラエルに異邦人を迎え入れるという、当時としては革命的な働きの神学的正当性を保証する記述にほかならないのです。
異邦人宣教の正当性を保証するものがもう二つあります。イエスの証言と旧約聖書の預言です。復活したイエスは弟子たちに対して、福音のメッセージが全世界に広められていくべきことを告げられました(ルカ24章47節、使徒1章8節)。そして、使徒行伝の結末部分でパウロは、異邦人への宣教はイザヤ書の預言の成就であることを語ります(使徒28章25-28節)。
要するに、異邦人がイスラエルの神の民に加えられたという驚くべきできごとは、旧約聖書における父なる神の働き、福音書におけるイエスの働き、そして使徒行伝における聖霊の働きという、三位一体の神による救いの働きを描く、ひとつながりのナラティヴの中で理解されるべきだということです。ルカはそのことを、彼やテオピロの属する教会のナラティヴをイエスのナラティヴにつながるものとして、そしてそれらをさらに旧約聖書におけるイスラエルのナラティヴにつながるものとして描くことによって、なしとげているのです。
多くの日本人がキリスト教を受け入れにくい理由の一つは、それが「外国の宗教」というイメージがあるからだと思います。なぜ21世紀に生きる日本人が、古代イスラエルの神とそのメシアを信じなければならないのでしょうか?また、クリスチャンの中にも、自分の信仰が旧約聖書のイスラエルとどのように結びついているのか、漠然とした理解しか持っていないこともあります。ルカの描くナラティヴは、そのような意味でたいへん現代的な意義を持っていると言えます。
(続く)