待ち望むということ

今週からアドベント(待降節)に入り、教会暦では新しい年を迎えました。アドベントについてはこちらの過去記事でも書きましたが、二千年前のキリスト降誕のできごとを思い起こすとともに、キリストの再臨を待ち望むという意味があります。そしてまた、信仰者が1月1日から始まるこの世の暦とは異なる時間のサイクルに生きることは、この世の世界観とは異なる神の国の時空に生きることにほかなりません(これについてはこちらの過去記事を参照してください)。

個人的に、今年の待降節は文字通り「待つ」ということの意味を深く考えさせられています。

ルカ福音書の降誕物語では、イスラエルの救いを待ち望む忠実なユダヤ人が何人も登場しますが、興味深いことにそのほとんどが老人です。バプテスマのヨハネの両親であるザカリヤとエリサベツしかり(1章)、そしてシメオンとアンナしかりです(2章)。彼らは若いヨセフやマリヤとともに、メシアを待ち望む敬虔な神の民イスラエルを代表しているわけですが、ルカはこのイスラエルを、神の約束の実現を待ち望みつつ年老いた民族というイメージで描いているように思われます。つまり、福音書の冒頭部分でルカは、イスラエルに対する神の約束の実現が久しく遅れていた――あるいは少なくとも人間の目にはそのように見えた――ことを読者に伝えようとしているのかもしれません。そしてそれは、今まさに到来しようとしている新時代の幕開けに対する期待を高め、ドラマティックな効果をあげています。

 「待つ」ということは、辛いものです。私たちは自分の望んでいるものがやってくるのを待つ時間をできるだけ短縮しようとするだけでなく、自分から出かけていってそれを手に入れようと努力します。しかし、ある種のものごとは、自分から求めていっても決して手に入れることはできません。

ニール・ヤングによる1972年のヒット曲、“Heart of Gold”(邦題「孤独の旅路」)では、世界中を経めぐって「黄金の心」を探し求めるうちに、年老いていった男のことが歌われています。人によって「黄金の心」が意味するものはさまざまでしょうが、受け取るメッセージは同じです:私たちは人生で求めているものを手に入れることはできないということです。これはC・S・ルイスの言うSehnsucht(あこがれ)のようなものかもしれません。

ジョニー・キャッシュ(彼はクリスチャンでした)によるカヴァー

そのようにして年老いた時、私たちの取るべき道は大きく分けて3つあります。あくまでもあてのない探求の旅を続けるか、絶望してすべてを放棄するか、あるいは求めているものが与えられるのを、じっと待ち望むかです。私たちは自力で幸せを得ようとする努力がすべて潰えたとき、ようやく「待ち望む」ことを学ぶのかもしれません。

この「待ち望む」ということは、ただ漫然と何もしないで祝福が与えられるのを受動的に待っていることではありません。ルカ2章25節でシメオンが「イスラエルの慰められるのを待ち望み」、38節で敬虔な人々が「エルサレムの救を待ち望」んでいた、と書かれている時に使われているギリシア語はprosdechomaiですが、この言葉はルカ12章36節では、主人が婚宴から帰って来たらすぐに戸を開けようと待ち構えているしもべたちの態度について使われています。つまりこれは注意力を集中し、期待をもって待ち望む態度を表します。そうしていないと、神の訪れがあった時にそれを見過ごしてしまうかもしれません。また、本物ではなく偽物をつかまされてしまうこともあるかも知れません。

イスラエルの救いを待ち望んでいるうちに、しだいに年老いていき、自分に与えられた人生の残り時間が少なくなっていったとき、ザカリヤやエリサベツ、シメオンやアンナはどのような思いにかられたでしょうか。もしかしたら、自分の人生がむなしく費やされてしまったのではと後悔したかも知れません。神の約束を疑うことも、時にはあったかもしれません。

しかし、彼らは待ち続けました

なぜでしょうか?一つには、彼らには他の選択肢は与えられていなかったからです。神の国は歴史の主権者である神ご自身が持ち来たらせるものであって、人間の努力で実現できるものではありません。神の民に与えられた選択肢は、ただ神が時にかなって約束を実現してくださることを待つことしかなかったのです。

そして同時に、彼らは神を信頼していました。彼らはイスラエルの神は真実な、正しいお方であって、彼らの先祖に対して結ばれた約束を必ず実現してくださるお方であると信じていたのです。もちろん、待つことに耐えられず、信仰を失っていった人々、この世の営みに人生のよりどころを求めて行った人々、あるいは人間的で性急な改革を目指していた人々もいたことでしょう。しかし、少数の忠実な神の民は、約束を与えられた方が真実な方であることを信じて、待ち続けたのです。

そして、彼らは約束のものを得ました。待ち望んでいたメシアがついに到来したのを見たのです。
シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
(ルカ2章28-32節)

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二千年の後、ふたたび私たちは待っています。メシアが再びこの地上に来られて、神の国を完成し、その聖なるみこころが全地をおおうようになることを、待ち望んでいます。その約束は長らく果たされていません。しかし、私たちは、約束してくださった真実な神を信頼して、待ち続けるのです。