ルカ文書への招待(3)

 

Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第3回は、ルカ文書の著者と読者についてです。

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ルカが語る福音の物語③ 「ルカ文書の著者と読者」

今回は、ルカ文書の著者と読者について考えて見たいと思います。キリスト教会では伝統的に、テオピロに宛てて書かれた二つの新約文書を書いたのは、ルカという人物であったと考えてきました。このルカはどのような人だったのでしょうか?

使徒の働きの、パウロの伝道旅行を記した部分には、「私たち」という二人称複数形で書かれている箇所があります(たとえば使徒16章10節以降)。これらは、同書の著者が実際にパウロに同行して自ら見聞きしたできごとを記している部分と考えられます。つまり、ルカはパウロに同行した人物でした。実際、パウロの手紙にはルカの名が三度登場します(コロサイ4章14節、ピレモン24節、2テモテ4章11節)。コロサイ4章14節(「愛する医者ルカ」)からは、彼が医者であったことが分かります。

ルカはたいへん洗練されたギリシア語を書く、高い教養を持った人物であり、おそらく新約聖書記者の中で唯一の異邦人(つまり非ユダヤ人)クリスチャンでした。同時に、彼は旧約聖書とユダヤ教に関する豊富な知識も持っていました。

ルカはその二部作をテオピロと呼ばれる人物に宛てて書いています。これは「神に愛された者」という意味のギリシア語の名前で、おそらく彼も異邦人クリスチャンでした。ルカ1章3節では「尊敬するテオピロ殿」と呼びかけられており、社会的に高い地位にあった人物と考えられます。ルカが書いた本の出版を援助したパトロンだったのかもしれません。

けれども、ルカはただテオピロ個人だけのためにこの二部作を書いたのではなく、彼が属する教会に向けてそれを書いたと考えられます。そのメンバーの多数派はおそらく異邦人クリスチャンだったでしょう。

異邦人クリスチャンが主に異邦人から構成される教会に宛てて書いた福音の物語――ルカ文書の存在自体が、福音がユダヤ教の民族的枠組みを超えて異邦人にも伝えられていったという、ルカによる物語の生きた証しとなっています。それは、異邦人クリスチャンが大多数を占める今日の私たちにとっても、大きな意味を持っているのです。

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<ブログにおける補足>

これまで、この二つの書について、「ルカが書いた~」というような表現を便宜上使ってきました。けれども、この二つの書の本文自体には、それらが誰によって書かれたのかを明示しているところは一つもありません。ルカ文書が「ルカ」という名の人物によって書かれたことを示すのは、福音書のタイトルだけです。近代の多くの聖書学者は、四福音書のタイトルはオリジナルの原本にはなく、福音書は最初の数十年間は無名のまま流布していて、2世紀初頭になってはじめてタイトルがつけられたと主張してきました(そこには、福音書記者についての伝統的な見解は信頼できないという含みがあります)。しかし、これは学者による単なる推測に過ぎません。20世紀後半になって、マルティン・ヘンゲルらの研究により、四福音書のタイトルはかなり早い時期、おそらくそれらが最初に世に出た時からついていたに違いないと説得力を持って主張されるようになってきました。

しかし、たとえルカ福音書のタイトルが最初からあったものだとしても、それが本当にルカによって書かれたことがただちに証明されるわけではありません。近代批評学の興隆にともない、多くの人々は本書の著者はパウロの同行者ルカではないと考えてきました。この問題は非常に複雑で、このブログで詳細に論じることはできません。しかし、私がルカ文書がたしかにパウロの同行者ルカによって書かれたと考える理由を、ごく簡単に述べたいと思います。(専門的な議論に興味のある方は、たとえば最近のクレイグ・キーナーによる使徒行伝の注解書などを参照してください。)

まず、ルカ文書の本文から著者について推測できるデータ(たとえば使徒行伝の「私たち」章句)から、必ずしも著者がルカであると断定できるわけではありません。しかし、もし著者がルカであるとすると納得できる点がいくつかあります。たとえば使徒28章14節で著者は「それからわたしたちは、ついにローマに到着した。」と記しており、著者はパウロがローマで2年間軟禁状態にあった時に彼とともにいたとことを示唆していますが、これはコラムにも書いた、コロサイ書やピレモン書の記述と一致します。これらの手紙の執筆時にはルカがパウロとともにいたことが分かりますが、これらはこの時のローマでの投獄期間中に書かれたと考えられているからです。

そして、ルカ文書の著者問題を考える際に、古代教会の証言はたいへん重要です。現存するルカ福音書の写本はすべてルカの名が冠されています。また古代教会の伝承は、最初期のものから一貫して第三福音書の著者はルカであることを証言しています。

これは、もしこの福音書がルカによって書かれたのでない、あるいは、著者がまったく不明であったとしたなら、それがルカに帰せられているのは非常に奇妙なことです。ルカは使徒ではなく、また新約聖書の中でもそれほど重要な役割を演じているわけではありません。もし実際にルカが書いたのでないとしたら、後になって教会がこれほどの長さを持つ(ルカ福音書と使徒行伝を合わせると、実に新約聖書の4分の1を超えます)重要な著作に、ほぼ無名に等しい人物の名を冠したというのは考えにくいことです。

したがって、私は個人的には、ルカ文書はパウロの同行者であった医者ルカが書いたという、伝統的な見解を疑う必要は感じていません。しかし、私にとってむしろ重要なのは、著者が誰かということよりも、ルカ文書の著者がおそらく異邦人であったということです。使徒20章3-5節には次のように書いてあります。

彼(パウロ)はそこで三か月を過ごした。それからシリヤへ向かって、船出しようとしていた矢先、彼に対するユダヤ人の陰謀が起ったので、マケドニヤを経由して帰ることに決した。  プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。 この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを待っていた。

ここでまた「わたしたち」という表現が出て来ることから、使徒行伝の著者はエルサレムに向かうパウロの一行のメンバーであったことが分かります。ところで、このグループはパウロに率いられてユダヤ教会を訪問する異邦人教会の代表団という性格がありました(ローマ15:27、2コリント8:23参照。この中でおそらくパウロとテモテだけがユダヤ人でした)。そのメンバーであった著者も異邦人であった可能性は十分にあります。

そして、パウロ書簡に登場するルカは異邦人でした。コロサイ書4章の次の部分を見てみましょう。

10  わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。 11  また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。 12  あなたがたのうちのひとり、キリスト・イエスの僕エパフラスから、よろしく。彼はいつも、祈のうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。 13  わたしは、彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人々のために、ひじょうに心労していることを、証言する。 14  愛する医者ルカとデマスとが、あなたがたによろしく。

パウロは14節でルカが彼とともにいることを述べていますが、その前の11節で、彼とともにいるユダヤ人(「割礼の者」)はアリスタルコ、マルコとユストの3人だけであると言っていることから、獄中にあるパウロの周囲の人間でこの3人以外はすべて異邦人ということになります。したがってルカも異邦人であることが分かります。

このように、ルカ文書の著者は異邦人クリスチャンである可能性が大きいです。そうであるなら、ルカ文書が(特に後半の使徒行伝で)福音が異邦人に伝えられていく様子を克明に描いているのも合点が行きます。ルカは自分たち異邦人が神の民になったということはどういうことなのか、という、異邦人クリスチャンのアイデンティティの問題に強い関心を抱いていたと思われます。彼はその答えを、イエスからエルサレム教会の使徒たちを通して異邦人にまでつながる歴史の連続性の中に見出していったのです。このように考えるなら、異邦人宣教における最大の功労者であったパウロが、使徒行伝のナラティヴのヒーローであることもまた当然ということができるでしょう。

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福音書記者ルカ。伝統的に翼のある牛とともに描かれることが多いです。

続く