ルカ文書への招待(1)

今年の12月に米国カリフォルニア州で行われるEquipper Conference 2016(EC16)の講師としてお招きを頂きました。これは以前もご紹介したことのある、JCFNが主催しているものです。集会について詳しくはこちらをご覧ください。

集会では4回にわたって、ルカ福音書から聖書講解をさせていただきますが、それに先立って8回シリーズで、ルカについての入門的コラムを書いて欲しいと依頼されました。それを通して参加者が講解で扱われる聖書箇所だけでなく、ルカ文書全体により親しみ、理解を深めることが目的です。

EC16ではクリスチャンになって間もない参加者もおられますし、字数も限られていますので、コラムではごく基本的な内容を簡潔に書いていきたいと思っていますが、こちらのブログでは、その内容をJCFNの許可をいただいて掲載させていただいた上で、そこに補足的な内容も加えて書いていきたいと思っています。

第1回のコラムは以下の通りです:

ルカが語る福音の物語① 「ルカが書いた二部作とは?」

みなさん、こんにちは。山崎ランサム和彦です。今回ECで私が担当させていただく聖書講解では、ルカの福音書から4つの箇所を選んで、ご一緒にみことばを学んでいきたいと思っています。

ところで、新約聖書に収められた4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中で、ルカの福音書にしかないユニークな特徴があります。それは、この福音書だけが、続編を持っている、ということです。それは「使徒の働き(使徒言行録・使徒行伝とも呼ばれます)」です。

ルカの福音書の1章3節使徒の働き1章1節を比べて見ると、どちらの文書も「テオピロ」という同一人物に宛てて書かれたものであることが分かります。使徒の働き1章1-2節には、

テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。

と書かれていて、作者はこの書の前に、イエスについてもう一つの書を記していることが分かります。それがルカの福音書です。

ルカの福音書の物語はイエスが十字架にかかり、復活してから天に昇られたところで終わっていますが、使徒の働きはその後を受けて、イエスの昇天後に誕生した教会の歩みを描いています。つまり、この二つの書はルカが書いた一つの長い物語の前編・後編として捉えることができます。これをまとめて「ルカ文書」と言います(英語だとLuke-Actsと言うこともあります)。

今日私たちが手にしている新約聖書の配列では、ルカの福音書と使徒の働きは続けて収められておらず(間にヨハネの福音書が入っています)、この二つの書が連続した一つの物語であるということに気づきにくいかも知れません。けれども、このことを知っておくことは、ルカの福音書を深く理解するためにたいへん重要です。みなさんも、一度ルカの福音書と使徒の働きを続けて読むことにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

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<ブログにおける補足>

コラムでも書きましたが、使徒行伝がルカ福音書の続編であることは、クリスチャンでも意外と知らない人がいるかも知れません。それは、現行の新約聖書でこの二つの書がばらばらに収められていることも大きいと思います。

なぜ新約聖書がこのような配列になったのかはよく分かりませんが、四福音書を並べるにあたって、まず共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)をまとめた後に、性格も異なり成立年代も遅いヨハネを最後に持ってきた、そして、この福音書グループの後に使徒行伝を置いたために、ルカ福音書と使徒行伝を分割せざるを得なかったのかもしれません。それはある意味では納得できる配列ですが、そのためにルカ文書の統一性が認識されにくくなってしまったのは、たいへん残念なことだと思います。ルカ文書はその全体を通して読んでこそ、深く理解できるのです。

いずれにしても、ルカ文書(ルカ福音書+使徒行伝)は、同一の著者が書いた二つの独立した書物ということではなく、二部作の体裁をもった単一のナラティヴであるということは重要です。

使徒1章1節でルカがイエスの昇天にまで至る公生涯について記した「前の書」に言及していることから、福音書が先に書かれ、次に使徒行伝が書かれたことは確実です。それでは、ルカは福音書が完成した後に続編の執筆を思い立ったのでしょうか?そうではないと考える理由があります。ルカ8章10節に次のように書かれています:

そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。」

ここで「見ても見えず、聞いても悟られない」という部分は、イザヤ6章9-10節の引喩になっています:

主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。

共観福音書はどれも、このイザヤ書引用が、種まきのたとえの文脈で出てきます(マタイ13章14-15節とマルコ4章12節を参照)。神の国の奥義を悟らないユダヤ人たちの霊的盲目が、イザヤの時代のイスラエルと重ね合わされています(文脈は違いますがヨハネ12章40節でも引用されます)。特にマタイはイザヤ書からの引用であることを明示しています。

これに対して、ルカ8章の場合は、イザヤ書の内容はそれとなく暗示されるに留まっています。しかしこれは、イザヤの預言の成就ということがルカにとって重要でなかったという意味ではありません。なぜなら、ルカは後になってこのイザヤ書の箇所をフルに引用するからです。

使徒行伝の最後の部分、使徒28章25-28節では、イザヤ書のことばが完全な形で、しかもはっきりと出典を明示して引用されます:

互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
『この民に行って言え、
あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、
耳で聞かず、
心で悟らず、悔い改めて
いやされることがないためである』。
そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。

ここから分かることは、ルカは福音書の時点ではイザヤ6章9-10節の存在は暗示するにとどめ、その完全な引用を二部作の最後にまでわざと取っておいたと考えられます。つまり、ルカは福音書を書いていた時点ですでに、その続編としてイエスの昇天後の教会の歴史を描く構想を持っていたということが分かります。

使徒行伝は後から思いつきで書き足された「おまけ」ではありません。ルカははじめからその物語を、イエスについての第1部と教会についての第2部からなる二部作として計画し、執筆したということです。そういった意味でも、ルカ文書(ルカ福音書+使徒行伝)を全体として読むことはたいへん重要なのです。

iwanamiluke

(岩波書店から出ている新約聖書分冊版ではルカ文書が一巻にまとめられています。)

続く