最近、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil:フランス語では「ヴェイ」と発音するらしい)の生涯と思想に心を惹かれて、折に触れてその著作を少しずつ味読しています。彼女は第二次世界大戦中に34歳の若さで亡くなったユダヤ系フランス人で、哲学者・政治活動家・神秘主義者でした。生前に出版した著作は多くはなく、無名に等しい存在でしたが、死後彼女の遺稿が次々と編集・出版され、多くの人々に影響を与えてきました。
シモーヌ・ヴェイユ(1909 – 1943)
ヴェイユをクリスチャンと呼ぶことには異論があると思います。彼女は晩年はキリスト教に接近し、聖書に親しみ、主の祈りをギリシア語で好んで暗唱し、カトリックの神父と親交を持ったりしていましたが、組織としての教会に加わることを拒み続け、ついに洗礼を受けるには至りませんでした。しかし、彼女のことばには、クリスチャンとして深く共鳴できるものが少なくありません。
たとえば次の一節――
創造は、神の側からすれば、自己を拡大するいとなみではなく、身を退き、身を捨てる行為なのである。神と全被造物を一しょにすれば、神おひとりよりももっと小さくなる。それは、神がその分だけ小さくなりたもうたからである。神は、ご自身の存在の一部分を捨て去られたのである。神はこの行為によって、すでにご自身の神としての身をむなしくなさったのである。だからこそ、ヨハネは「小羊は、世のつくられたときから、ほうられていた」と言っているのである。神は、ご自身以外のもの、ご自身よりもはるかに取るにたらぬものにも、存在することをゆるしたもうた。神は、創造の行為によってご自身を否定したもうた。ちょうど、キリストがわたしたちに対して、自分自身を否定しなさいと命じられたように。神がご自身を否定されたのは、わたしたちのためであり、わたしたちも、ご自身のために自分を否定することができるようになるためであった。この応答、この反応こそ、創造という狂気に似た愛の行為の正しさを示しうるただ一つの可能な証拠なのである。そして、わたしたちにはこの応答を拒むこともゆるされているのである。
(田辺保訳「神への暗黙的な愛の種々相」より。強調は引用者)
ここに見られるような、「神の自己否定としての創造」という概念は、ユダヤ教における「ツィムツム(神の自己収縮)」という概念に通じる気がします。世界創造前には、神はすべてを満たしていたため、神以外のものが存在する余地はありませんでした。しかし、そこで神が自ら自己の内部に「収縮(退却)」されることによって、神以外のものが存在できるスペースが生まれたというのです。
ヴェイユがどこまでユダヤ的なツィムツム概念に影響を受けたのかは、不勉強のためよく分かりません。しかしいずれにしても、この中の「創造という狂気に似た愛の行為 (la folie d’amour de l’acte créateur)」という表現に私はいたく心を打たれました。神による世界の創造は、全能者の手すさびや気まぐれでなされたものではありませんでした。ご自身だけで完全に自己充足されている神が、なぜ定義からしてご自分よりもはるかに劣る、不完全な存在である世界を造ろうとされたのでしょうか?それは人間の目からは不可解な、狂的とさえも思える行為です。しかし、創造はまさに神ご自身の自己犠牲的な愛の表現としてなされたのです。
つまり「神は愛である。」(1ヨハネ4章8、16節)という新約聖書の言葉に要約されているような、自己犠牲的なアガペーの愛の本質は、創世記の冒頭の一句「はじめに神は天と地とを創造された。」において、すでに表されているのです。愛は聖書全巻を貫くもっとも太く長い線であるといえるでしょう。
そして、その狂おしいまでの愛のゆえにこの自分――愚かで、醜く、罪深い自分――も存在をゆるされているのだ、神は身を削るようにして、私が存在するためのスペースを空けてくださったのだ、と考える時、神の恵みふかさに心打たれ、今日も新しく生きる力を与えられます。そして、やがて神がふたたび「すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15章28節)ために、この自分という与えられた存在を捧げたいと願わされるのです。
BGMはフランスつながりでオリヴィエ・メシアン(『アーメンの幻影』より「創造のアーメン」)を。メシアンは1908年12月生まれ、ヴェイユは1909年2月生まれですので、ほとんど同い年ということになります。この曲はヴェイユの引用文の雰囲気によく合っていると個人的には思います。