「聖書信仰」についての覚え書き

『舟の右側』の最新号(2016年11月号には興味深い記事がいくつも掲載されていますが、その中の「今『聖書信仰』を考える」という特集を読みながら考えたことを書き留めておきます。

今回の特集では特に聖書の「無誤性」(聖書は科学や歴史等に関する内容も含めてあらゆる点で誤りがないとする考え)について繰り返し取り上げられていました。その中で、「聖書の無誤性は妥当な概念か」「無誤性と無謬性(聖書は救いと信仰生活の領域において誤りがないという考え方)のどちらを取るべきか」という、福音派キリスト教会の中で従来ありがちだった議論を超えていこうとする方向性が見えて好感が持てました。このブログでは、無誤性そのものというよりは、それが前提としている聖書観について考えたことを書きたいと思います。

無誤性と関連した概念に、逐語霊感説(神の霊感は聖書記者の言葉の選択のレベルにまで及んでいるという考え)があります。無誤性と逐語霊感は同じものではありませんが、無誤性の概念は逐語霊感を要求すると考える人々もいます。現代の世界の福音主義者たちの間では、聖書の無誤性や逐語霊感に対して多様な意見が存在します(たとえばこちらを参照)。

無誤性や逐語霊感説が前提としている聖書観は、聖霊に導かれた聖書記者たちが誤りのない真なる命題の書としての聖書を書き記した点に聖書の権威があるという考えです。これはたとえてみれば、そのようにして書かれた聖書原典には、神が伝えようとした永遠の真理のメッセージがいわば「冷凍保存」されており、後代の人間はそれを適切な方法で「解凍」(釈義)するならば、そこに保存されている真理をそのまま取り出すことができるという考えです。

このような立場においては聖書の「霊感」(聖書記者に対する聖霊の働き)と「聖霊の照明」(今日の聖書読者に対する聖霊の働き)をはっきりと区別し、後者の重要性も強調されますが、聖書自体の真理性の根拠は霊感に限定して理解されます。照明はあくまでも罪によって堕落した人間の理性を回復し、聖書に「すでに与えられている」真理を認識できるようにする、ということだからです。つまりこの立場によれば、聖書の権威の重点は、聖書原典の命題的な真理性にあり、霊感を受けた記者がその原典を書き記した時点にあるということになります。もちろん、この場合の問題は、この聖書原典は現存せず、今日では誰にもアクセスすることができないということです。

ところで、17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパで盛んになった理神論という思想があります。これは簡単に言えば、神は自律して機能する自然法則を備えた宇宙を創造したが、その後宇宙には超自然的方法で関与することはない、と言う考えです。宇宙は神によって与えられた自然法則に則って自律的に動いていくものとされ、奇跡や特別啓示としての聖書等の可能性は基本的に排除されています。

さて、このような理神論の考え方は、上で見てきたような聖書観と非常に似ているように思います。この聖書観によると、聖書原典は閉じた真理の体系として神によって生み出され、はじめからそこにあり、聖書の権威はこの体系の真理性にあるとされます。そして、適切な解釈方法を用いてそこから真理を取り出すことが、後代の聖書読者の務めということになります。どちらにおいても、世界や聖書の起源における神の関与は大変重視される一方、現在における神の関与は限定されたものとなっています。

しかし、このような考え方は聖書的なものでしょうか?私は聖書の霊感を信じる者ですが、上のような聖書観は極端かつ聖書の実態にもそぐわないもののように思えます。もし聖書の権威が、誰もアクセスすることのできない原典の命題的真理性に基づいているとしたら、今日の私たちにとって聖書の持つ権威は定義からいって不完全なものとなってしまいます。なぜなら、聖書原典のオリジナルテクストを復元しようとする試み(本文批評)や、聖書翻訳といった営みは、どこまでも不完全なものにとどまるからです。またこのような考えは、より良いテクストを持つ者、より正確な解釈をする者が教会内で権威を持つという、一種政治的な状況も生み出します。しかし、私も聖書原語や学問的釈義方法を修得することの益は大いに認めつつも、原語に通じていても神を信頼していない聖書学者の方が、専門知識はなくとも単純素朴に聖書を信じている信徒よりも「正しく聖書が読めている」とは必ずしも言えないのではないかと思います。

無誤性や逐語霊感の議論でしばしば引用される聖書箇所に、2テモテ3章16-17節があります:

聖書は、すべて神の霊感を受けて(theopneustos)書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

今号の『舟の右側』には中澤啓介先生も寄稿しておられますが、その中で先生が指摘しておられるように、パウロがここで語っている「聖書」は旧約聖書の原典ではなく、そのギリシア語訳(いわゆる七十人訳聖書)ですので、この箇所から旧約聖書のヘブル語原典の霊感について議論するのは的外れです(この点は私も『福音主義神学』45号に掲載した論文「新約聖書における使徒的解釈学」で指摘したことがあります)。

そしてパウロは「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、だから無誤である」と言っているわけではありません。パウロがこの箇所でテモテに語っている内容の主旨は、聖書に誤りがあるかないか、ということではなく、聖書は信仰者をつくりかえ、神のわざのために人格をととのえる力・はたらきがあるということです。米国の聖書学者ルーク・ティモシー・ジョンソンは、この箇所は聖書の起源ではなく機能に関する内容であり、それは「存在論的言明ではなく、機能的言明である」と述べています。聖書が神の言葉としてそのような力や働きを持っているのは、それがまさに「神の息(聖霊)が吹き込まれた(theopneustos)」書であるからにほかなりません。しかし、この箇所でパウロは必ずしも、聖書原典における逐語霊感ということを意味しているわけではありません。ここでパウロが語っているのは、聖書は神の息が吹き込まれた書であるがゆえに、今日においてクリスチャンが信仰を持って聖書を読むとき、神の息吹である聖霊が生き生きと働いて、彼らを作りかえてくださるということなのです。

今回の『舟の右側』には藤本満先生のインタビュー記事も載っています。先生は著書『聖書信仰』の中でも、聖書の救済論的側面を強調されていますが、インタビューでも、無誤性か無謬性かという議論を超える視点として、今日私たちが聖書を読む際に働かれる聖霊の関与について語られ、「聖書の言葉が『今』聖霊によって用いられる」という点を強調しておられます。まさにわが意を得たりという思いで読ませていただきました。

もちろん、理神論とはことなり啓示や創造後の世界に対する神の関与を認めるクリスチャンが創造の働きを無視するわけではないのと同様に、私も聖書原典が書き記された際に聖書記者に対してなされた聖霊の働きを認めますし、重視しています。しかし、そこに力点を置きすぎるあまり、現在において聖書を通して働く神の力を軽視することがあってはならないと思うのです。神は確かに、聖書記者たちに働きかけて、真実な権威あるみことばを書き記させました。しかし、N・T・ライトも言うように、そのような聖書の権威とは、命題的に記された「永遠の真理」の権威というよりはむしろ、神の民がそれに従って生きるように召されている物語の権威です。聖書に関する神の働きかけはそれが書かれた時に終わったわけではなく、さまざまな歴史的状況にある神の民が聖書を読み、それが提供する大いなる物語に参加していくときに、神は聖書を通して働き続けておられるのです。

ライトによると、理神論は近代ヨーロッパに特徴的な、超自然的な神の領域と自然的な人間の領域を区別して考える「階層化された世界観」の一つの表れであり、現在でも西洋文化の大部分におけるデフォルトモードになっている考え方です。20世紀の特にアメリカで盛んになった無誤性の思想は、同様の階層化された世界観の申し子ということもできるかも知れません。聖書無誤論や逐語霊感説が、(神の特別啓示を否定すると言う意味では正反対の)理神論に通底する部分があるとしたら、それは大きな皮肉であると言わざるを得ません。