「あなたの信仰があなたを救った」(2)

その1

前回は、「あなたの信仰があなたを救った」という表現が現れるルカ福音書の4つの箇所(7章50節、8章48節、17章19節、18章42節)について概観しました。これらの4つのエピソードでは、まったく同一のギリシア語の表現hē pistis sou sesōken seが見られるだけでなく、その表現が各エピソードの結末部におけるイエスのことばとして記されていることから、各エピソードの中核的なメッセージを担っていることが分かります。そして、ルカがこの同一の表現を福音書の中で4回も繰り返し用いているのは、ある特定の意図に基づいていると考えることができます。

この4箇所には、共通して見られる次のようなナラティヴのパターンがあります:

1.何らかの形で社会(と神)から疎外されている人々がイエスに近づく。
2.彼らが障害を乗り越えてイエスに近づく。
3.イエスが彼らの陥っていた苦難から彼らを解放する。
4.イエスが「あなたの信仰があなたを救った」を含むことばを彼らにかける。

したがって、ここでイエスが語られる「救い」は、単なる目前の苦難(病気等)からの解放を意味するだけでなく、イエスとの人格的関係の樹立であり、それに伴う社会と神との関係の回復であることが分かります。したがって、イエスによってもたらされる「救い」は肉体的・社会的・霊的な側面を含む、包括的なものであると言えます。

このような「救い」を可能にしたのは人々の「信仰pistis」ですが、それは誰に対する「信仰」なのでしょうか?

ここで取り上げた4つのエピソードのどれにおいても、ルカは人々の「信仰」の対象を明記していません。それらが神に対する「信仰」である可能性はありますが、すべての場合において「信仰」を持った者がイエスに対する何らかの働きかけをおこなっていることから、イエスに対する「信仰」と考えるのが適当と思われます(ちなみに、ルカ文書においてpistisの対象が明示されている時、その対象は常にイエスです)。彼らの「信仰」は単なる知的「信念」ではなく、イエスに対して人格的な関係を取り結ぼうとする態度です。その「信仰」が困難を乗り越えてイエスに近づくという具体的な行動によって表現されたとき、イエスはそれに応えて彼らを救いました。したがってここで問題になっている「信仰」は、単に奇跡を行うイエスの能力を知的に認識するだけのものではなく、イエスという人格への信頼を意味しています。イエスは自らを信頼する者に対して、神の国の民となる特権を与えるのです。

イエスとはだれか?

次に問題となるのが、人々が信頼を置くべきイエスとはどのような存在なのか?ということです。イエスのアイデンティティの問題はルカ福音書の中心的な主題の一つですが、現在考察している4つの箇所を通して、ルカはイエスのアイデンティティを漸進的に構築していることが分かります。

7章においてイエスは「預言者prophētēs」(39節)という評判のある「教師didaskalos」(40節)として登場しますが、そのような人々のイエス観は、イエスが女の罪の赦しを宣言したことによって動揺します(49節「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」――ルカ5章21節によれば、罪を赦すことができるのは神おひとりのみだとされています)。イエスはこのように謎めいたアイデンティティを持つ存在として登場します。

8章17章のエピソードにおいては、イエスは「先生epistattēs」と呼ばれますが(8章45節、17章13節)、これはユダヤ教の教師を意味する「ラビ」という呼称の言い換えであると思われます。この呼称だけ見るならば、イエスのアイデンティティに関する理解の深まりはそれほど見られません。むしろこの呼称は、イエスの真のアイデンティティに対する誤解を示しているとも言えます。しかし、ツァラアトをきよめられたサマリヤ人が「神」をほめたたえながら戻ってくると、「イエス」の「足もとにひれ伏して感謝」し、それを受けてイエスが彼を「神をほめたたえるために帰ってきたもの」と呼ぶルカの記述は、救いのわざにおける神とイエスの連続性を暗示しています。

イエスのアイデンティティが最も明確に表現されているのは、18章のエピソードにおいてです。

Healing_of_the_Blind_Man_by_Jesus_Christ

エリコの盲人はイエスに対して「ダビデの子」、すなわちダビデの子孫としてのメシアとして繰り返し呼びかけます。しかも、イエスの元に連れてこられた彼はイエスに対して「kyrios」と呼びかけています(41節)。kyriosはギリシア語訳旧約聖書においてイスラエルの神の固有名を表すヘブル語YHWHの訳語として用いられました。ルカ福音書においては、「主」という呼称はイエスとイスラエルの神の結合されたアイデンティティを表しています。すなわち、ルカ福韻書において「あなたの信仰があなたを救った」という表現が最後に登場する場面では、イエスはイスラエルの主なるメシア(キリスト)、さらには神ご自身とも重なる存在として描かれているのです。

このように、ルカの緻密なナラティヴ構成を通して、「救いを与える信仰」の内実が明らかにされていきます。「信仰」はイエスとの信頼関係にもとづいて働き、人々を解放します。そして、多様な人物がイエスへの「信仰」を通して救いを受け取るできごとが繰り返されるうちに、そのような救いを与えるイエスがイスラエルの主でありメシアであるという真理(イエスの真のアイデンティ)が読者に対して開示されていくのです。

ルカ福音書でマルコ福音書に見られない2箇所のエピソードを含め、まったく同一のギリシア語の表現が4回用いられていることは、福音書記者ルカの編集的意図が働いていることを示しています。ルカはこれらの箇所を通して、メシアであるイエスの人格に対する信頼としての「信仰」が、肉体的・社会的・宗教的疎外状態の中にある人々に「救い」をもたらすことを伝えようとしています。ルカはすべての人に提供される「神の救い」について語りますが(3章6節)、それは具体的には各人のイエスに対する「信仰」(信頼)を通して与えられるのです。

次回は、ルカ福音書の「信仰」概念をより広いローマ史的文脈の中に位置づけてみたいと思います。

(続く)