もう一ヶ月以上前のことになってしまいましたが、6月13日(月)に福音主義神学会東部部会の春期研究会で発表をさせていただきました。研究会の全体テーマは「聖書が教える『信仰』(I)」で、その中で私と東部部会理事長の大坂太郎先生(ベテルキリスト教会牧師)の二人が講演をしました。大坂先生は「なぜ『彼』は引き合いに出されたのか?―パウロによる『アブラハムの信仰』再考―」と題して興味深い発題をしてくださいました。当日の二つの講演の要旨はクリスチャン新聞2016年7月3日号に掲載されましたが、このブログではその内容を一般向けに書き直して掲載したいと思います。
私の講演のタイトルは「救いを与える『信仰』~ルカ福音書における『信仰』についての一考察~」で、ルカの福音書、特にその中に特徴的に現れる、「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7章50節ほか)という表現について考察したものです。ですから、これはルカ文書における「信仰」の包括的な研究ではありませんし、ましてや新約聖書全体をカバーしたものではありません。しかし、この特徴的な表現から、ルカが「信仰」ということばで理解していた内容の一端を明らかにすることを願っています。
そもそも、信仰とは何でしょうか?信仰は聖書における重要な概念の一つであり、それだけにその意味内容を正しく理解することはとても大切です。西洋のキリスト教では、信仰は伝統的に「主体が何らかの命題的対象を信じる行為」として理解されることが多かったです。わかりやすく言うと、信仰とはキリスト教の教えやメッセージを受け入れ、同意すること、という理解が支配的でした。もちろん、信仰にこのような側面があることは確かです。しかし、最近の研究では、古代ギリシア・ローマ世界とキリスト教における信仰の持つ関係的側面がより重視されるようになってきています。この点については、次回以降に考察していこうと思います。
さて、ルカ福音書には、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」というイエスの言葉が4回(7章50節、8章48節、17章19節、18章42節)出てきます。原文のギリシア語はhē pistis sou sesōken seという、まったく同一の表現です。同じ表現はマタイ福音書には1回、マルコ福音書には2回登場しますが、ルカ福音書に4回も現われるということは、福音書記者ルカがこの表現の意味する内容に特別な関心を持っていたことを示唆しています。以下に、それぞれの箇所の内容を簡単に見ていきたいと思います。
「罪深い」女(ルカ7章50節)
7章36節から始まるこのエピソードでは、パリサイ人シモンの家に招かれたイエスが食事の席に着いていると、そこに「ひとりの罪深い女」が現れ、イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、香油を塗ります。この後イエスとシモンとの間に罪の赦しと愛についての問答がなされた後、イエスは彼女の罪の赦しを宣言します。そしてこの話はイエスの次のことばで終わっています。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50節)。
このルカ福音書のエピソードには、他の福音書に並行箇所はありません。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」の表現が話の結末部分におけるイエスの最後のことばに現れていることから、この内容がこの箇所の中心的テーマになっていると考えることができます。イエスは女の罪の赦しを宣言し、したがって彼女を救ったのです。
そしてその救いは彼女の「信仰pistis」がもたらしたものです。「救った sesōken」という動詞の完了形が用いられていることから、この救いは将来実現されるべき救済ではなく、「信仰」を持つ者に対していま現在すでに与えられているリアリティであることが分かります。最後の「安心して行きなさい。」という命令は「平和のうちに行きなさい」という意味です。これは神が与える平和(ヘブル的シャローム)のうちにすでに彼女が入れられていることを示しており、イエスにおいて彼女に与えられた神の救いを表しています。実際、救いと平和は相補的な関係にあります。救いは何らかの脅威からの救出を表し、平和はその救いの結果実現する健康で幸福な状態を表すのです。
以下に見るように、ここに登場するsōzōという動詞は「救う」とも「いやす」とも訳せることばですが、この箇所において病のいやしのニュアンスが含まれていないのは明白です。そして、ルカ福音書においてこの句が最初に登場する箇所で、「信仰」が「救い」と明確に結びつけられている事実は、以下に見る3つの箇所の釈義を考える際にも重要であると考えられます。
長血の女(8章48節)
十二年間長血をわずらっていた女がイエスの着物のふさにさわると、瞬間的に出血が止まります。イエスはご自分から力が出て行くのを感じて、誰が触ったのかと問いかけると、女は進み出て一部始終を告白します。ここでも、ナラティヴはイエスのことばで終わっています。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(48節)。
このエピソードは共観福音書すべてに並行箇所が存在しており、マタイ9章22節とマルコ5章34節はいずれもhē pistis sou sesōken seという同一のギリシア語の表現を含んでいます。ルカはおそらくマルコの記述を資料としてこの箇所を書いたと思われます。
ここの箇所は、新改訳聖書では「あなたの信仰があなたを直したのです。」と訳されており、英訳聖書のNIVでも “your faith has healed you”となっています。sōzōという動詞はさまざまな種類の苦難や危険からの救出を意味することばであり、第二神殿期のユダヤ教においては肉体的治癒や生命の維持、罪の赦し、終末的救済、永遠のいのちなどをさして用いられていました。しかも、1世紀の包括的世界観によれば、人の肉体的疾患はその人の社会的・霊的状態と切り離して考えることはできないとされていました。このエピソードの内容(長血の病に悩まされていた女性の出血が止まったこと)からすると、この箇所を「直した」あるいは「いやした」と訳すことはたしかに可能です。しかし、この女性がイエスから受け取ったものは単なる肉体的疾患の治癒以上のものであったと考えられます。
この女性がわずらっていた「長血」はおそらくレビ記15章25-30節に規定されているような長期にわたる異常な血の漏出であり、したがって彼女はつねに儀式的に「汚れた」状態に置かれていました。このことによって、彼女は当時のユダヤ社会における宗教的疎外を経験していたと考えられます。そして、このことが彼女の問題の中心であったことは、彼女がイエスにうしろから(つまり気づかれないように)さわったこと(44節)、そしてイエスから名乗り出るように求められたとき、「隠しきれないのを知って、震えながら進み出」たこと(47節)からも明らかです。
すなわち、イエスによる彼女の救出は単なる肉体的苦痛からの解放を超えて、社会的・宗教的な疎外状態からの解放であったと考えられます。イエスによる「娘よ」(48節)との呼びかけは、彼女が神の家族に迎え入れられたことの証しでした。イエスが彼女にかけた「安心して行きなさい」という最後のことばは、7章50節で「罪深い」女にかけられたことばとまったく同一であり、単なる肉体的いやしを超えた神の平和が彼女をつつんでいることを表しています。したがって、この箇所のsōzōは「救う」と訳すのが適当であると思われます。彼女の信仰が彼女を救ったのです。
ツァラアトに冒されたサマリヤ人(17章19節)
このエピソードは他の福音書に並行箇所を持たない、ルカ独自のものです。サマリヤとガリラヤの境でイエスはツァラアト(口語訳では「重い皮膚病」)に冒された十人の人々と出会います。彼らはイエスにあわれみを求め、イエスは行って自分を祭司に見せるように命じます。彼らは行く途中でいやしを経験しますが、神を賛美するためにイエスの元に戻ってきたのはサマリヤ人ただ一人でした。
このエピソードではツァラアトからの解放が3つのことなる動詞で表現されています。まず、彼らは十人とも「きよめられ」(14、17節)、そして「いやされ」(15節)ました。しかし、イエスはただ一人戻ってきたサマリヤ人に対して「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と宣言するのです。ここでも、動詞sōzōは単なる肉体のいやし以上のことを意味しています。十人はみなツァラアトが「きよめられ」、「いやされ」ました。しかし、神をあがめるためにイエスの元に戻ってきたサマリヤ人のみが「救われた」のです。
ルカがこの箇所の直後に、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねたパリサイ人たちに対して、イエスが「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と答えたエピソード(20-21節)を配置しているのは重要です。ユダヤの宗教的指導者であるパリサイ人たちは彼らの間にイエスを通して神の国(支配)が現れていることに気がつきません。しかし、イスラエルの不信仰とはうらはらに、イエスにおいて到来しつつある神の国を受け入れる人々もいました。ツァラアトがきよめられたサマリヤ人もまさにその一人といえます。サマリヤ人はユダヤ人と民族的・宗教的に敵対関係にあり、一般のユダヤ人の目からは神から疎外されていた存在でした。ユダヤ的標準からすると、彼はツァラアトに冒されている点とサマリヤ人であるという点において、二重に「汚れた」存在でした。しかし彼はイエスにおいてまさに神の国が到来していることを正しく認識し、そのことのゆえに神をほめたたえました。彼はイエスとの新しい関係に生きる存在となったのです。
エリコの盲人(18章42節)
イエスがエリコで盲人の目を開けたエピソード(ルカ18章35-43節)には共観福音書における並行箇所があります(マタイ20章29-34節、マルコ10章46-52節)。共観福音書間の記述の相違についてここで論ずることはしません。この投稿の目的にとって重要なのは、マルコ10章52節に見られるhē pistis sou sesōken seの表現をマタイは削除しているのに対し、ルカは保持している点です。
本エピソードはルカ福音書の中心部を占める、ガリラヤからエルサレムに至るイエスの旅ナラティヴの終わり近くに位置しています。イエスがエリコに近づいた時、そこで物ごいをしていた一人の盲人が「ダビデの子よ」と呼びかけ、助けを叫び求めます。周囲の人々の妨害にもかかわらずイエスに向かって叫び続けた盲人は、イエスの元に連れてこられます。イエスが彼に何をして欲しいかと尋ね、盲人が見えるようになることを求めると、イエスは宣言します。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。このことばを聞くと彼はたちまち見えるようになり、神を賛美しながらイエスに従います。
この箇所で興味深いのは、イエスは動詞sōzōの完了形を用いて語っているにもかかわらず、盲人の開眼はその後に起こっている点です。このことはsōzōの指示する変化は、彼の目が見えるようになる前に起こっていることを暗示しています。つまり、盲人が受け取った「救い」は単なる視力の回復以上のものなのです。この人物は盲目という身体的困難の他に、それに起因する貧困(彼は物ごいをしていた)にも苦しんでいました。彼は社会の最下層に属する、誰にも必要とされない存在だったのです。さらに、第二神殿期のユダヤ教においては、盲目や物ごいは神に拒絶された罪人と同一視されていました。イエスに助けを求める盲人を「先頭に立つ人々」(おそらくイエスの弟子たち)が黙らせようとした(39節)ことから、彼らの目からは、彼はキリストであるイエスが関わり合うに価しない存在と見られていたことが伺えます。つまり、ここでも社会的・宗教的な疎外という問題が存在しているのです。イエスが盲人を近くに呼んで親しくことばを交した時点で、彼の解放はすでに始まっていました。イエスとの出会いによって彼は神の国に入れられたのです。盲人の視力の回復は、イエスによって与えられた、より大きな広がりを持つ救いの一つの現れに過ぎなかったのです。
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今回は、ルカ福音書における「あなたの信仰があなたを救った」という表現について、それが現れる4つの箇所を概観しました。次回は、これらの箇所から見えてくることについて、さらに考察していきたいと思います。
(続く)