ホタルとパウロ

夏になると、私の住んでいる地域では水辺でたくさんのホタルを観ることができます。宵闇の中で音もなく明滅しながらゆったりと飛び交うホタルの光は、何度見ても心がなごみ、良いものです。私はホタルを見るたびに、ある話を思い出します。

Photo credit: Mr.k_Taiwan via VisualHunt / CC BY-NC-SA

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3年前に地元の文化会館で、「とべないホタル」というミュージカルが上演されました。このミュージカルには妻と娘たちも出演していましたので、私も観に行きました。当日は1000人を超える盛況で、たいへんな好評でした。私もこの劇を見て大きな感動を受けました。それは家族が出演しているという身びいきだけでなく、劇自体のストーリーがたいへん良くできているということも大きかったです。それはこんな話です――

ある夏の夕暮れ時、水辺で一斉に羽化したホタルたちは、元気に飛び回っていた。しかしその中に一匹だけ、生まれつき羽が縮れて飛べないホタルがいた。仲間たちは一生懸命励まそうとするが、どうすることもできない。やがて皆は一匹また一匹と飛び去って行き、とべないホタルは一人取り残されてしまう。

ある日、とべないホタルが木の枝に登っていると、やってきた人間の子どもに捕まりそうになる。絶体絶命のホタルを救うために、仲間の一匹が自分から子どもの手に飛び込む。「自分は一人ぼっちだと思っていたけど、みんなはぼくを見守ってくれていたんだ。そしてあのホタルはぼくのために子どもの手に飛び込んでくれた・・・」とべないホタルは仲間の自己犠牲に心を打たれる。

やがて身代わりになった勇気あるホタルは、人間に逃してもらって、仲間の元へ帰って来る。けれども、再会を喜んだのもつかの間、ホタルたちは嵐に巻き込まれてしまう。嵐が去った後、とべないホタルは泥に埋まった仲間を助けるが、そのホタルは目が見えなくなっていた。それはかつてとべないホタルの身代わりになってくれた勇気あるホタルだった。また別のホタルは嵐のショックで光を失ってしまった。絶望するホタルたち。でも、とべないホタルは皆を励ます。「見えなくても、光れなくても、たとえ飛べなくても、ぼくらはみんな同じホタルなんだ!」

嵐と人間の開発で住処を追われたホタルたちは、新天地を求めて行こうとする。目の見えないホタル、光れないホタル、とべないホタルたちは、力を合わせて助け合い、皆で旅立って行った――

HotaruStage

ミュージカル「とべないホタル」

この話は元々ある小学校の先生がいじめをなくそうと思って書いたものだそうで、原作の童話シリーズはベストセラーになっています。作者の方がクリスチャンかどうかは知りませんし、おそらくキリスト教的なメッセージを意図して書かれた物語でもないと思いますが、この劇を観た時に、私の心にはとても聖書的なメッセージとして響いてきました。あるいは、このミュージカルのメッセージが、聖書のメッセージと私の中で共鳴したと言ってもよいでしょう。以下に記すのは、あくまでも私の個人的な「読み込み」であることをお断りしておきます。また、参照される「とべないホタル」のストーリーは、原作の童話ではなくミュージカル版のものです。

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人間に捕まりそうになったとべないホタルの身代わりとなって仲間のホタルが自分から子どもの手の中に飛び込むシーンを見て、キリスト者なら誰でも、人間の罪のために身代わりとなったイエス・キリストの十字架の犠牲を思い起すのではないでしょうか。また、ホタルたちが様々な傷を抱えながらも、助けあって一緒に飛び立っていくところは、まさに新約聖書でパウロが語っている教会の姿を連想させます。

からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。(1コリント12章12節)

この有名な「からだと器官」の比喩は、教会における多様性と一致を見事に表現しています。私たちクリスチャンはそれぞれ異なる背景、性格、賜物、使命が与えられていますが、そのような違いは互いの優劣を表しているのではなく、また一致を妨げるものでもなく、キリストにあって一致するために必要なものだ、とパウロは言います。

同じ章の22節から26節では、パウロは引き続き身体と器官の喩えを使っていますが、議論の焦点は少し異なってきています。

22  そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、23  からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、24  麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。25  それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。26  もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

ここでは、パウロは身体の中で「弱い」器官、「劣った」器官について語っています。けれどもこの手紙全体をよく読むと、パウロは本当の意味で他のクリスチャンより「弱い」とか「劣った」クリスチャンが存在するとは考えていないことが分かります。それはあくまでも人間的な視点から見ての「弱さ」なのです。しかし、実際には私たちは人を外面で判断し、「あの人は劣っている」とか「信仰の弱いクリスチャンだ」といったレッテルを貼ってしまうものなのです。けれどもパウロは、そのような人間的に見て「弱い」クリスチャン、「劣った」クリスチャンも、教会の中で大切な存在なのであり、私たちは互いに助け合わなければならないのだと言うのです。

パウロは手紙の中で何度も、教会の中で弱い人々を助けるようにと命じています。たとえばローマ人への手紙15章1節では、「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」と書かれています。教会の中で弱っている人々を助ける。これはパウロの教会理解から考えて当然のことでしょう。

しかし、パウロが「弱さ」について語っているのは、このような箇所だけではありません。一見私たちの個人的な弱さを神様がそれぞれ強めてくださると語っているように見える箇所も、「キリストのからだ」という視点から見てみると、まったく別の理解を得ることができると思います。いくつかそのような箇所を列挙してみます。

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10  だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(2コリント12章9-10節)。

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(ローマ8章26節)

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ4章13節)

私たちは普通これらの箇所を読むと、個人のクリスチャンが、それぞれ弱さの中で神から力をいただいて、強められるというイメージを持ちがちです。私たちは「人に頼るのは恥ずかしいことだ」という意識があって、自分の弱さに直面したときに、その問題を自分と神の間の関係の中だけで解決してしまおうとするところがあるのかもしれません。

けれども、パウロがこれらの箇所で語っているのは、ばらばらのクリスチャンがそれぞれ神様から力をいただいてパワーアップしていく、という個人主義的なメッセージではありません。もちろん、クリスチャン個人が祈りや聖書を通して神から助けをいただいていくことは大切ですが、それと同時に、神が私たちを力づけようとなさる時には、教会という共同体を通してそのことをしてくださるという側面もあるのです。

パウロは彼が第1回目の伝道旅行でガラテヤ地方の諸教会を開拓した当時のことを、次のように振り返っています。

13 あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。14 そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。15 その時のあなたがたの感激は、今どこにあるのか。はっきり言うが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしにくれたかったのだ。(ガラテヤ4章13-15節)

このように、パウロ自身が伝道旅行の中で弱さを覚えていた時、ガラテヤの人々に助けられたのでした。私たちは「使徒パウロ」というと、弱さや問題とは無縁の霊的スーパーマンのような人物で、人に頼らなくても何でも自分でできた人のように思うかもしれませんが、そうではありませんでした。実はパウロの「力強い」伝道活動はこのように、他の兄弟姉妹たちに支えられながら前進していったのです。

「とべないホタル」の中で最も感動的なシーンは、ホタルたちが新天地を求めて行こうとする場面でした。目の見えなくなったホタルは、皆と一緒に行きたくても、一人では飛ぶことができません。そのホタルにとべないホタルが語りかけます。「ぼくが君の目になるよ。君はぼくの羽になって、ぼくを抱えて飛んでくれればいいんだ」と――

一方のホタルは、羽は動かせるけれども、目が見えません。もう一方のホタルは、目は見えるけれども、飛ぶことはできません。この二匹のホタルはそれぞればらばらでは、どちらも飛ぶことはできません。けれども、目の見えないホタルが、とべないホタルを抱えて一緒に飛ぶとき、飛べないホタルは目の見えないホタルに行くべき方向を教えて、自由に行きたいところに飛んでいくことができるのです。

このイメージは、キリスト者のあるべき姿を表しているように思います。私がこのホタルの姿に感動したのは、一方的に強い者が弱い者を助けるというのではなく、それぞれに弱さを抱える者同士が助け合い、互いの弱点をカバーしあっていく姿が描かれているからです。パウロもコリント人への第二の手紙の中で、マケドニヤの諸教会が、自ら極度の貧しさと試練の中にありながらも、困っているユダヤの教会を助けるために精一杯献げた姿勢を賞賛しています。

1 兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。2 すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。3 わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。(2コリント8章1-3a節)

教会はこのようなものでなければならないと思います。私たちは「自分も弱っているのに、他人を助ける余裕なんてない」と思ってしまうことがありますが、自分の弱さに目をとめるのではなく、自分にできることは何か、と視点を変えていくときに、弱い自分にも他者のためにできることがあるのに気づくのではないでしょうか。逆に、教会につながっていく時に、私たちの弱さを支えることのできる人も出てくるでしょう。

ミュージカルの最後の方に、こんな歌詞の歌があります。

「飛べないことよりも、見えないことよりも悲しいこと、それは心の通う仲間がいないこと。心の通う仲間があれば、同じ思いで飛べる。」

これをクリスチャン的に言い換えるなら、こういう風に言えるかもしれません。

「目立った賜物がないことよりも、問題を抱えていることよりも悲しいこと、それは共に祈り支えてくれる信仰の友がいないこと。キリストのからだに属する仲間がいれば、同じ神の国の希望を持って歩むことができる。」

この心あたたまるホタルの物語は、教会とは何か、弱さのうちに働く強さとは何か、ということについて、いろいろなことを考えさせてくれたのでした。

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ところで、このミュージカルで、ホタルたちが目指す新天地は、「白鳥座」を目指して飛んで行くとたどり着くことができると言われています。言うまでもなく、白鳥座は十字形をした星座ですが、そこにイエス・キリストの十字架を見てしまうのは、やはりキリスト者としての色眼鏡でしょうか。

Cygnus

Photo credit: Ro Irving via Visualhunt / CC BY-NC-SA