第2回、第3回の投稿では、オープン神論の聖書的根拠について、ごく簡単に概観しました。これまで述べてきましたように、オープン神論の特徴的な主張は、「未来は部分的に開かれている」ということです。今回はこの点についてもう少し詳しく説明していきたいと思います。
部分的に開かれた未来
オープン神論によれば、未来は部分的には確定したものとして存在し、部分的には可能性として存在しています。神はこれらの存在をそのまま、つまり確定したことがらは確定したことがらとして、可能性として存在するものは、可能性として認識しています。つまり、神は未来に起こるできごとすべてを確定したものとして予知しているのではなく、あることがらに関しては起こるかも知れないし起こらないかも知れないできごととして認識している、ということです。その意味で、未来は部分的に開かれています。
この、部分的に開かれているというのは、被造物の自由意志による選択と関わっています。世界には、たとえば物理法則に従った天体の運行のように、私たちの意志ではどうにも変えられない要素がたくさんありますが、ある種のことがらは私たちのおこなう選択によって影響を受け、歴史は違ったコースをとって進んでいくことになります。その意味で、私たちにとって未来は部分的に開かれています。そして、オープン神論の特徴的な主張は、私たちの目にそう見えているだけでなく、神ご自身にとっても未来は部分的に開かれている、ということです。
こう書くと、「オープン神論の神は未来についてすべてを予知しているわけではない、だから全知ではない」と考える人がいるかもしれません。しかしそれはオープン神論に関する誤解に基いています。オープン神論は神が全知のお方であることに全面的に同意します。ここで問題となっているのは神の全知性ではなく、神がご自分の権威によって自由に創造された世界の性質なのです。
オープン神論は、この世界が、未来が部分的に可能性として存在しているような性質を持っているのは、神がそのように意図して世界を創造されたからであり、またそのようなものとして神は世界を認識しておられる、と主張します。神は世界について知りうることがらのすべてを完全に知っておられます(ゆえに神は全知です)。そして未来の一部は可能性としてしか存在していないので、神はそのようなものとして未来を認識しておられるのです。したがってボイドは自らの神学的立場を「開かれた神観open view of God」と呼ぶよりむしろ、「開かれた未来観open view of the future」と呼ぶことを好みます。
このような世界では自由意志を持った存在がさまざまな選択をしていきますので、世界が将来とりうる形は瞬間ごとに無数の可能性に枝分かれしていきます。けれども、神は無限に知性のあるお方ですので、そのすべての可能性について完全に把握しておられます(その意味で、オープン神論の神は世界の進むべき道をただ一通りにしか決めていない神よりもはるかに多くのことを知っていると言えます)。確かに神はある被造物がある時点でどういう選択をするかということは(自由意志の定義からして)分かりませんので、無数に分かれた可能性のうち、どれが現実化するかは神にも分かりません。けれども、神はどんな可能性が現実化したとしても、そのすべてを完全に把握しておられますし、そのそれぞれのケースについて、被造物とどのように関わっていくのが最善の道かを完全に知っておられます。ですから、未来が開かれているといっても、オープン神論の神は何か不測の事態が起こって不意打ちを食らったり慌てたりすることは決してありません(神が願っておられる最善の方向に世界が進んでいかないと言うことはありえますが)。熟練したチェス・プレイヤーが相手の指す手を何十手先まで読むように、いやそれより無限にまさって、神は歴史の展開しうるすべての可能性を熟知しておられるのです。
しかしなぜ神はそのような複雑で流動的な世界を造られたのでしょうか?歴史があらかじめ定められた唯一のコースを厳密にたどって展開していくような世界を造るならば、神は世界のすべてを完全にコントロールすることができます。そして、神は全能のお方ですから、もしその気になれば、そのように未来のすべてが最初から確定されているような世界を造ることも当然できたはずです。私たちの世界が未来が部分的に開かれた構造をもっているのは、神がご自分の自由意志によってそのような世界を造ることをあえて選ばれたからにほかなりません。なぜでしょうか?その答えは「愛」です。
神は愛である
7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(1ヨハネ4章7-12節)
聖書の証しする神の本質は愛です(「神は愛である」)。三位一体の神様は永遠に存在する愛の共同体です。そして神は愛する対象として世界を造られ、被造物が三位一体なる神の愛の交わりに参加するように招いておられます。つまり、愛の神が創造されることを望まれた世界とは、創造者である神と愛の関係を持ち、また互いに愛の関係をもつことができる被造物の住む世界ということになります。
さて、被造物が真の意味で神と愛の関係を持つことができるためには、被造物は神の愛に応えて、神を愛する自由も愛さない自由もなくてはなりません。もちろん、上で述べたように神は全能のお方ですので、全被造物がつねに神を「愛し」、神が望むような行動(つまり善)のみをなすような世界を造ることも可能です。しかしそれはプログラムされたロボットの住む世界のようなもので、真の意味での人格的な愛の関係は生まれません。愛の価値は、愛さない自由もある中であえて愛することを選ぶところにあるからです。そこで、神が愛する対象として世界(の中にいる人格的存在=人間や天使)を創造されたとき、神は被造物に自由意志をお与えになりました。オープン神論の重要な主張の一つは、被造物には真の意味での自由意志が与えられている、ということです。だからオープン神論は「自由意志神論free will theism」とも呼ばれます。
神が「全能」であるとは
オープン神論では、神は自由意志を持った被造物(人間や天使)とのフレキシブルでダイナミックな相互関係を持たれます。神はこの関係がどのように展開していくかについて、ご自分の意志だけでなく、被造物の意志も一定の影響を及ぼすことを許されます。第2回の投稿で見たように、神は被造物の行為に応じてフレキシブルに対応を変えていかれます。神は世界で起こるできごとのすべてを厳密にコントロールすることはなさらず、被造物と相互に影響を及ぼし合いながら、歴史を導いていかれます。神はご自分の権威によって歴史の最終的な目的は定めておられますが、そこに至る道筋は一つではありません。つまり、未来は部分的に開かれているのです。
逆に、神がこのような愛の相互関係を被造物と持とうとするならば、そのためには未来が部分的に開かれているような世界を造る必要があります。愛が可能な世界は自由意志が存在する世界であり、自由意志が存在する世界は未来が部分的に可能性として存在している世界なのです。神は愛が可能である世界を欲しながら、未来のすべてが厳密に決定されている世界を造ることはできません。それは論理的に不可能です。これは神の全能性を損なうことにはなりません。全能の神にも論理的に不可能なことがら(たとえば丸い三角形を造ること)を行うことはできないのです。
このように、オープン神論では神は世界の歴史を大枠で支配し、最終的にご自分の望まれる方向に導いて行かれます。しかし、神は世界の歴史のすべてをご自分の一方的な意志で決定されることを望まれませんでした。そうではなく、全能の神は世界に対するその支配を自主的に制限され、被造物が自由意志を行使して世界の歴史に影響を及ぼすことができるような余地を作られたのです。したがって、当然その中では被造物が神の望まれないような選択をする(すなわち悪が生じる)ということが起こってきます。けれども、神はあえて自由な被造物とともに働いて、ご自分の目的を達成することを選ばれました。神は全能ですので、ご自分の意志を被造物に強制することもできますが、多くの場合は強制ではなく説得という方法をもって、また上から押さえつける力ではなく仕える愛をもって、ご自分の目的を達成しようとされるのです。このような神の姿勢を体現しているのが、人となったイエス・キリストにほかなりません。
オープン神論は(クリスチャンも含め)多くの人が持っている神の「全能性」や「主権」「力」の概念の見直しをうながします。神は独裁者のように人々の行動すべてを強制的に支配することによって歴史を導くのではなく、対話と説得と愛を通して人々を導こうとします。人間の世界でも、後者のタイプの支配者の方がより高度な知恵と指導力を要求され、また称賛に値する存在とみなされますが、神についても同じことが言えると思います。同時に、神が世界の進むべきコースをご自分だけで決めるのではなく、被造物にもそのプロセスに参加させてくださるということは、神がご自分の被造物をいかに愛しておられるかということを証ししています。被造物は神がご自身の栄光を現すための単なる道具ではなく、人格を持ったパートナーとして神のプロジェクトに自主的に協力するようにと招かれているのです。このように考えてくると、神がその全能の力を愛のゆえに自主的に制限され、その一部を被造物に分け与えられたことは、神の偉大さや栄光を減じるものではなく、むしろはるかに高めるものであると言うことができるでしょう。
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「未来が部分的に開かれている」というオープン神論の主張は、ある人々にとっては奇異なものに聞こえるかもしれません。けれども、その根底にある中心的な考えは、神は愛であり、自由な愛に基づく人格的相互関係を被造物と持たれる方だということです。オープン神論は、愛の神という聖書的神観をその神学の中心に据えている神学です。言い換えれば、オープン神論は「愛の神学」と言うことができるのです。
(続く)