オープン神論とは何か(3)

その1 その2

前回の投稿では、オープン神論の主張を支持すると思われる聖書箇所について概観しました。今回は逆に、オープン神論の主張に反するように見える聖書箇所について見ていきたいと思います。

 

神は悔いることがない?

神は人のように偽ることはなく、
また人の子のように悔いることもない
言ったことで、行わないことがあろうか、
語ったことで、しとげないことがあろうか。
(民数記23章19節)

28  サムエルは彼に言った、「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。29  またイスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」。(1サムエル15章28-29節)

前回の記事で、神が考えを変えられることについて書かれている箇所を見ました(エレミヤ18章7-10節など)。ところが、聖書にはその反対に、神は考えを変えることがない、と書かれている箇所があります。上に挙げた2箇所のうち、特に1サムエル15章28-29節は前回取り上げた「主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。」(1サムエル15章35節)という箇所と同じエピソードの中に出てきますので、いっそう不可解です。いったい神は悔いることがあるのでしょうか、ないのでしょうか?

上の民数記の箇所もサムエル記第一の箇所も、神は「人ではない」ので「悔いることがない」と書かれています。そこで、これらの箇所は、神が人間とは隔絶した存在であり、人間のように考えを変えることは決してないことを教えている、と解釈されることがあります。けれども、これは前回見たような、神は悔いることがある、という聖書箇所と矛盾します。

上の2つの箇所はどちらも神が悔いることがない、という表現が、神が「偽ることがない」お方である、ということと結び付けられています。つまり、ここで神が悔いることがないというのは、神はご自分がなさると宣言されたこと(民数記の場合はイスラエルを祝福すること、サムエル記の場合はサウルをイスラエルの王位から退けること)を必ず実行される、思い返されることはない、ということを意味しているのです。

このように考えれば、サムエル記の同じエピソードに神は悔いることがない、という表現と主は悔いられたという表現が出てくるのも理解できます。神は常に真実なお方であり、ご自分の約束されたことは必ず実行されるお方です(その意味で、悔いることがありません)。だから神は予め告げられたように、サウルを王位から退けられます。一方、神のイスラエルに対する愛と真実が変わることがないからこそ、サウルがその御心に反する行動を取った時、主は彼を王にしたことを悔いられたのです。

 

神は未来のすべてを予知しておられる?

わたしは終りの事を初めから告げ、
まだなされない事を昔から告げて言う、
『わたしの計りごとは必ず成り、
わが目的をことごとくなし遂げる』と。
(イザヤ46章10節)

イザヤに与えられたこの言葉は、神が未来に起こるできごとを永遠の昔からすべて予知しておられるという意味でしょうか?必ずしもそうではありません。

イザヤ書の文脈では、この箇所は、神がイスラエルの民をバビロン捕囚から解放する計画について語っています。この節の後半で「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」と語っておられる通りに、神はこの特定の歴史的できごとについて、約束された救いのみわざを必ず為し遂げられる、ということが言われているのです。

オープン神論は神の全能性を主張します。神が一たびことを行うと決められたら、誰にもそれを止めることはできません。ですから、歴史において神が設定された目的(この場合は捕囚からの解放)は必ず実現します。その意味で、神は捕囚からの解放を予知しておられると言うことができます。

オープン神論は未来のすべてが不確定だと主張するわけではありません。オープン神論の主張は、「未来は<部分的>に開かれている」ということです。この「部分的」という表現が大変重要です。神はご自身の主権によって、歴史の展開のある部分、すなわち救済史の大枠をあらかじめ定めておられますし、最終的に歴史がどこに向かうかという到達点も決まっています。その部分に関しては未来は閉じられています。しかし、その中に生きる個人には自由意志が与えられており、神の導きにどのように応答して生きるかは各人に任せられているのです。

ところで、以前このブログでも紹介しましたように、N・T・ライトは聖書全体を一つの一貫した筋を持つストーリーと考え、それを五幕からなる未完の劇にたとえました。そしてライトによると、現代に生きる私たちは「教会」と題された最終幕の舞台に立っているわけですが、その部分の台本は与えられておらず、私たちは初代教会の部分まで残された台本と、この劇がどういう結末を迎えるかのラフスケッチだけを頼りに、自分が出演している場面にふさわしい役柄を即興で演じていく、というのです。

ライトによる即興のアナロジーはオープン神論の考え方ととても親和性があります。アドリブにはこうしなければならないという決まった方法はありません。それは各役者の自由に任されています。けれども、劇は全体としてはあらかじめ決められた結末に向かって確実に進んでいくのです。

このように、神は個人の自由意志を阻害することなく、歴史の大きな動きやご自分の民の運命をご自分の望まれる方向に導いていくことがおできになります。イスラエルがエジプトで400年間過ごすこと(創世記15章13-14節)やバビロンで70年間捕囚になること(エレミヤ29章10-11節)に関する預言も、同様に理解することができます。しかし、このことは必ずしも未来のすべてのできごとを神が包括的に予知しておられることを意味しません。

 

個人の未来の行動に関する予言?

しかし、聖書にはさらに、個人の未来の行動を神(あるいはイエス)が予告されるような箇所もあります。これは、神が未来のできごとをすべて予知していることを意味するのでしょうか?代表的な例として、ペテロがイエスを否認したできごとについて考えましょう。

33  するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。34  イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。(マタイ26章33-34節)

そして実際、ペテロはイエスが予告されたように、主を否定することになります(マタイ26章69-75節)。

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この箇所について、オープン神論の観点からはいくつかの解釈ができます。ボイドは、神は過去と現在におけるすべてのできごとの包括的な知識(そこにはペテロの気質についての正確な洞察も含まれます)に基づいて、ペテロがある特定の状況下に置かれたときにどのような反応をするかということを、かなりの精度で予測し、イエスに伝えることができた、と考えます。つまり、彼は極度のプレッシャーを受けると、内にある弱さからイエスを否定するだろうということです。けれども、ペテロが自分の弱さを徹底的に自覚し、試練と挫折を通して成長することができるように、神はそのことを前もって告げ、具体的な環境をアレンジしてそのような状況に彼を導かれたと論じます。

一方ジョン・サンダーズは上で述べたような解釈に加え、この時のイエスの言葉は、ペテロが必ずそのように行動するという確実な予知に基づいた「予言」ではなく、ペテロに信仰に堅く立って誘惑に負けないことを促す「警告」であった、という解釈も提供します。つまり、ペテロはイエスを三度否定するように定められていたわけではなく、信仰に堅く立ち続けたならば、人前でイエスを否定したいという誘惑に打ち勝つこともできた、と考えます。しかし、実際にはペテロは誘惑に屈し、イエスの「予言」は「的中」した、というのです。

これは決して奇抜な解釈ではなく、むしろ聖書的なものです。実際、旧約聖書の預言の多くはこのような「条件付きの預言」であり、人間の側の応答によって、神がその後の対応を変えられることは、前回の記事でも見たとおりです。もっともわかりやすい例は、ヨナによってなされたニネベ滅亡の預言です。

4  ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。5  そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。(中略)10  神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。(ヨナ3章4-10節)

ここでヨナは単純明快に、四十日後にニネベは滅びると「予告」します。しかし、それは実現しませんでした。ニネベの人々が悔い改めたことを受けて、神がわざわいを思いかえされたからです。実際、ヨナは神がそのようになさるだろうと予想していました(4章2節)。つまり、この場合のさばきの宣告は何が起ころうとも変わることのない未来についての予言ではなく、人々の悔い改めをうながす「警告」だったのです。ペテロに対するイエスの「予言」も同様に考えることができるとサンダーズは言います。

個人的には後者の解釈により説得力を覚えますが、これは最初に挙げた解釈と矛盾するものではありません。神はペテロがどのような反応をするかということはかなりの精度で予測することができましたが、最終的に彼が誘惑に屈さないという可能性もありました。けれども、たとえそうなったとしても、イエスの言葉が無意味だったことにはなりません。むしろ、ペテロが警告を真摯に受けとめて誘惑に抵抗したことをイエスは喜ばれたことでしょう。

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この他にもいろいろな聖書箇所がありますが、この場ですべてを論じ尽くすことはできません。この他のいろいろな箇所の解釈について興味のある方は、ボイドのGod of the Possible、サンダーズのThe God Who Risks等の書籍や、ボイドが主催するReKnew等のウェブサイト(すべて英語)を参照してください。前回の記事と同じく、今回サンプルとして取り上げた聖書箇所も、オープン神論とはことなる視点から解釈することも可能です。しかし、一見オープン神論とは真っ向から対立するように見える聖書箇所も、オープン神論の主張と矛盾なく解釈することが可能であることがおわかりいただけたのではないかと思います。つまり、これらの聖書箇所は、かならずしも神が未来に起こるできごとのすべてを予知していると仮定しなくても解釈できるのです。そして大事なことは、どのような解釈が聖書全体が証ししている神の姿によりよく適合するか、ということです。

次回はこのような聖書理解の背後にある、オープン神論の基本的な考え方について見ていきたいと思います。

続く