(その1)
前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。
人間とフレキシブルでダイナミックな関係を持たれる神
聖書では、神はその全能の意志を一方的に被造物に押しつけ、すべてを完全に支配して歴史を動かされる方ではありません。神は人間と相互的でダイナミックな関係を持たれます。(本当は人間だけでなく天使のような人格的霊的存在も含みますが、議論の単純化のため、以下では人間のみについて語ります。)つまり、神は人間の側の行動に応じて、フレキシブルに対応を変える方なのです。このことが最も明白に述べられているのは、次のエレミヤ書の一節です:
7 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、8 もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。9 またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、10 もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。
(エレミヤ18章7-10節)
このように、神はたとえご自分の行動計画を明らかにされた後でも、人間側の対応いかんによって、その計画を変更される(「思いかえす」)お方であることが分かります。このような神観は新約聖書でも見られます:
21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ18章21-35節)
このたとえ話で、「王」はあきらかに神(「天の父」)を表しています。このたとえの興味深いところは、王(神)の行動計画が二度にわたって変更されていることです。神はあわれみ深く、私たちにさばきを宣告した後も、私たちの嘆願に応えて罪をゆるし、宣告されたさばきを差し控えてくださいます。しかし、私たちが自分に罪を犯した人々をゆるさないならば、最初の計画に戻ってさばきを決行されるのです。最後にイエスが「もし心から兄弟をゆるさないならば~」という条件文の形で結論を述べていることにも注意する必要があります。つまり、私たちの行動いかんによって、神の対応は変わってくるということです。
ここで注意しなければならないのは、神がその行動を変えられるのは、決して神の側のきまぐれや不誠実によるものではない、ということです。愛であり善である神のご性質は決して変わりませんし、世界に対して神が持っておられる大局的な目的も変わることはありません。しかし、その目的を達成するために、神はつねに変化し揺れ動く人間側の状況に柔軟に対応して、そのつど最善の方法で関わってくださる、ということなのです。
実際、次のような聖書箇所は、神がいつくしみ豊かな方であるからこそ、民の悔い改めに応えて、下そうとしていた災いを思いかえし、祝福を与えるお方であることを証ししています。つまり、神が人間の行動に応じて対応を変化させるのは、けっして気まぐれな例外的行為ではなく、神ご自身の基本的な行動原則なのです。
13 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。14 神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とをあなたがたの神、主にささげさせられる事はないとだれが知るだろうか。(ヨエル2章13-14節。ヨナ4章1-2節も参照)
神の望まれない展開
なぜ神はこのように人間に対する関わり方を変える必要が出てくるのでしょうか?それは、人間の側の自由意志による選択の結果、世界の歴史は必ずしも神の望まれた方向に展開していかないからです。このことは、神とイスラエルの関係を述べた次の箇所に明白に示されています。
万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。(イザヤ5章7節)
このようなとき、神は「悔いる」ことがあると聖書は言います。
5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。(創世記6章6-7節)
サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。(1サムエル15章35節)
多くの人の耳には、神が「悔いる」という表現は奇妙に響きます。これは神が過ちを犯したり、知恵が足りないということを意味しているのでしょうか?そうではありません。ボイドはサムエル記第一15章の例について、次のように説明します:
・・・オープン神論の見解では、神が過去に行った決定を悔やまれるということを受け入れるのに不可解な点はほとんどない。未来が部分的に開かれており、人間が真に自由であることを受け入れるならば、神がご自分が行った決定について本物の後悔を経験されるという逆説は消滅する。神は、最善の結果を生み出す可能性が最大であるような、賢明な決断をなされた。しかし、この件に関して神の決定だけが唯一の要素なのではない。サウルの意志という要素もあったのである。サウルは自由に神の計画からはずれた道を選んだが、それは神の過ちではないし、神の決定が賢明でなかったということにもならないのである。(God of the Possible, p. 57)
祈りに応えられる神
神と人間とのダイナミックな相互関係は、上で見たような否定的なものばかりではありません。神は人間の側からの働きかけに対して、よい意味でも応答してくださる方です。そのもっとも典型的なものは、神は人間の祈りに応えて行動してくださる、ということです。
13 わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、 14 わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。(2歴代誌7章14節)
同様に、モーセのとりなしによって、主はイスラエルに下すと言われたわざわいを思い直されました(出エジプト32章9-14節)。
そもそも、祈りに力がある(ヤコブ5章16節)ということは、私たちが祈る場合と祈らない場合とで神が対応を変えてくださるということがなければ意味をなしません。このことは未来が少なくとも部分的に開かれていることを示唆しているのです。
人の心を「知る」ために試みを与える神
さらに、聖書のいくつかの箇所は神が自由な人間のとる行動をあらかじめ知ることができないことを示唆しています。創世記22章では、「神はアブラハムを試みて」(1節)、そのひとり子イサクをささげるように命じられたことが記されています。アブラハムがイサクを殺そうとした瞬間、主の使いが彼を制止します:
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。(創世記22章12節)
ここで神は(天使を通して)、アブラハムが神を恐れその命令に完全に服従する人間であることを「今知った」と語られます。このことは、アブラハムがイサクを殺そうとする瞬間まで、神はアブラハムの忠誠心が本物であるかどうかを知らなかったことを暗示しています。
ここで神がアブラハムの心を「知らなかった」というとき、神はアブラハムがイサクを殺そうとして、神に対する忠誠を実証する可能性を知らなかったということではありません。アブラハムはテストに合格する可能性も合格しない可能性もあり、神はどの可能性もあらかじめ完全に知っておられました。しかし、実際にアブラハムが数ある可能性の中からどれを選ぶかは彼の自由意志に委ねられており、神もそれをご存じなかったということです。(このような、可能性として存在する未来と神の全知の関係については、シリーズの後の回で書きたいと思います。)
同様に、次の箇所では神がイスラエルを試み、その忠誠心を知ろうとされた、と語っています。
あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。(申命記8章2節)
この箇所も、そのテストの結果はその時にならなければ神にも分からないということが暗示されています。そうでなくて、試みの結果がはじめから決定されているならば、その試みには意味がなくなってしまいます。このことも、未来は少なくとも部分的に開かれていることを示唆しています。
神人同形(情)論?
さて、以上挙げた聖書箇所はすべて、文字通り読むならば、オープン神論が主張するように、神が被造物(人間)とダイナミックな相互関係を持たれること、また未来が部分的に開かれていることを裏付けるものです。
しかし、教会史上これらの箇所はしばしば額面通り受け取ってはならないとされてきました。そのような解釈によると、神が実際に考えを変えたり、悔いたり、新しい事実を知ったりするわけではなく、ただ神があたかも人間と同じような心の動きをもっているかのように比喩的に描いているだけだ、ということになります。このような解釈法を「神人同形論anthropomorphism (より正確には神人同情論anthropopathism)」と言います。
しかし、個人的にはこのような神人同形論的な解釈にはあまり納得できません。聖書に見られる明らかな神人同形論は、肉体を持たない神があたかも人間のような肉体を持っているかのように描き、神について何かを語ろうとするものです。たとえば神の「御腕」という表現は、神の力を比喩的に表現する神人同形論です。しかしながら、たとえ比喩的であったとしても、それらの表現は神について何らかのことを正しく言い表しているのです。したがって、聖書記者が神の「御腕」について語る時は、神の「力」について正しく語っています。しかし同じような対応関係をこの記事で扱った聖書箇所に出てくる表現に見出すことは困難です。なぜなら、このような箇所に神人同形論を適用しようとすると、たとえば「『神が心を変えられた』という表現は、『神は心を変えられない』ことを意味している」ということになってしまうからです。つまり、もし神が決して考えを変えることがないのなら、「神は心を変えられた」という言明は神について誤りを述べていることになります。そして、神が心を変えられないということは、比喩表現などを用いずに表現することは簡単にできるはずです。
さらに注目すべきことは、受肉したイエス・キリストは神の完全な神人同形的自己啓示であるということです。イエスは「神の本質の真の姿」であり(ヘブル1章3節)、彼を見たものは父を見たと言われます(ヨハネ14章9節)。このイエスは喜怒哀楽の感情を持ち、人々と人格的な交流を持たれました。イエスは人間の信仰に驚き(マタイ8章10節)、人間の嘆願に応えて態度を変えられました(マタイ15章21-28節)。このようなイエスの姿を単なる「神人同形論」で説明することは難しいと思われます。ジョン・サンダーズは次のように述べています:
もし受肉が真理であり、神の御子がまったき人間としての人生を経験されたとするなら、神はこのようにして、私たちが世界と関わるのとまったく同じように世界に関わられるということなのである。(The God Who Risks, p. 26)
ではなぜ多くの人々は、神人同形論のような回りくどい議論を用いてまで、これらの箇所を額面通り受け取ることを避けようとするのでしょうか?それはその結果導き出されてくる神観が、彼らの前提としている神観(神は変わることはない、神は被造物から影響を受けることはない、等々)と矛盾することになるからです。
しかし、いったん「神はこう言う存在でなければならない」という先入観を虚心に取り払って、これらの箇所を読むならば、上に述べたような文字通りの解釈(神は考えを変えられる、等)がもっとも自然な解釈ではないかと思われます。おそらく、神学を専門に学んだことのない一般のクリスチャンの多くはこのように聖書を読んでいると思います。
まとめ
以上、オープン神論の聖書的根拠について概観してきました。二つのことを最後に指摘したいと思います。
第一に、聖書にはこの記事で取り上げたような箇所ばかりでなく、オープン神論に反対するように見える聖書箇所もあります。それらについてどのように考えるべきかは、次回に見ていきたいと思います。
第二に、今回取り上げた聖書箇所も、オープン神論を批判する立場から解釈することは常に可能です。(聖書はあらゆる神学的立場から「解釈」することができます)。その一例として、神人同形論的解釈について述べました。この記事の主目的はそういった異なる立場からの解釈に反論を加えることではありません。そうではなく、これらの箇所はオープン神論的な観点からも解釈可能である(個人的には、もっとも自然な解釈である)ということを示すことが目的です。つまり、異論はあったとしても、オープン神論は少なくとも福音主義的な観点から見て妥当な聖書解釈の範囲内にある、ということを示せれば、本稿の目的は果たせたと言えます。
(続く)