復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。

1節を見てみましょう。

そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。

ここでヨハネはイエスが弟子たちにご自分を「あらわされた」と書いています。この節は、後に続くテベリヤ湖畔でのエピソード全体についての要約となっています。同様に14節にも「イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。」と、イエスが弟子たちに「あらわれた」ことが書かれています。つまり、ヨハネにとって21章のできごとは、イエスが弟子たちにご自分をあらわされたできごとと考えてよいでしょう。

ここで「あらわす」と訳されているギリシア語の動詞はファネロオーと言います。興味深いことに、ヨハネはこの動詞を20章のエルサレムでの復活顕現記事では用いていません。しかしこれはヨハネが好んで使う言葉であり、1章にはこうあります。

29  その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30  『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。31  わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。(1章29-31節)

ここに出てくるヨハネは、福音書の著者ではなく、バプテスマのヨハネですが、彼はイエスが来られたできごとを、「このかたがイスラエルに現れてくださる(ファネロオー)そのこと」と表現しました。

このファネロオーという言葉には、「目に見えないものを見えるようにする」あるいは「暗がりから何かを明るみに出す」というニュアンスがあります。この福音書の冒頭で、ヨハネはイエスを「光」と表現し、神の御子であるキリストが人となって生まれたできごとを、この光が闇であるこの世に来てくださったと表現しています。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(1章5節)、「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(9節)。イエス・キリストが来られたできごとは、神ご自身が私たち人間にご自身を表してくださったということなのです。

ヨハネにとってイエス・キリストは、私たちに「現れてくださった」お方です。宗教とは、人間が神を見いだそうとして追求していく営みです。しかし、そのような人間の側からのアプローチでは、神のことは分かりません。そうではなくて、神の側から人間にご自身を現してくださってはじめて、神が分かり、神と出会うことができる、というのが聖書の主張です。ヨハネは「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」と言います(1章18節)。

福音書の復活顕現記事を読んでいて気づくのは、よみがえったイエス・キリストと出会った弟子たちは、それが彼らの師であるイエスだとすぐには分からない場合が多いということです。ヨハネ21章の顕現記事でも同様です。そこから浮かび上がってくるのは、復活のキリストの側から現れてくださらない限り、弟子たちには主が認識できないということです。弟子たちに現れたのは、確かにかつて彼らと寝食をともにしたナザレのイエスでした。しかし同時に、イエスの復活の肉体には、どこか奇妙な、普通でないところがあったのです。このことは次の箇所に最もよく表れています:

イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。(12節)

このように、キリストはあくまでも、ご自身を能動的に私たちに啓示される存在です。復活のキリストが人々に現れるできごとは、N・T・ライト風に言えば、「天が地に到来し、未来が現在に突入するできごと」と言ってもよいかもしれません。よみがえったイエスは地に属すると同時に天に属し、現在の存在であると同時に未来の存在でもあるのです。

それでは、キリストが現れたということは何を意味するのでしょうか?福音書記者のヨハネが書いた手紙からそのことを見ていきたいと思います。

第一に、キリストが現れたのは、いのちをもたらすためでした。ヨハネの手紙第一の冒頭部分を見てみましょう。

1  初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――2  このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――(1ヨハネ1章1-2節)

2節に「現れる(ファネロオー)」ということばが2回出てきます。ここでヨハネは疑いなくイエス・キリストについて語っていますが、彼にとってキリストの現れは、永遠いのちの現れにほかなりませんでした。キリストはいのちとして現れてくださり、私たちにいのちを与えてくださる存在です。

ヨハネ21章13節で、イエスがパンと魚を取って弟子たちに与えられたとき、弟子たちは忘れることのできない一つのできごとを思いしたことでしょう。福音書の6章に書かれている、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々に食べ物を与えられたできごとです(6章11節)。その後イエスはユダヤ人たちに対して、「わたしは命のパンである。」と言われました(6章48節)。この五千人の給食のできごとは、最後の晩餐にもつながり、さらに世の終わりに神の国で持たれるメシヤの祝宴、黙示録で「小羊の婚宴」と呼ばれる食事のイメージにつながっていきます(黙示録19章9節)。いずれの場合にも共通しているメッセージは、イエスがいのちを与える存在であるということです。

二番目のポイントは、イエス・キリストの現れは世の罪を取り除くためであったということです。

あなたがたが知っているとおり、彼(キリスト)は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。(1ヨハネ3章5節)

罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。(同8節)

イエス・キリストが現れたのは、悪魔のわざを滅ぼし、人々を罪から解放するためでした。キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」であり(1章29節)、キリストは十字架にかかることによって悪魔すなわち「この世の君」を追い出されました(12章31節)。

そして、ヨハネ21章15節から描かれている、イエスとペテロの対話は、キリストによる罪のゆるしということを、最もドラマティックなかたちで表現しています。

15  彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。16  またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。17  イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。

ここでイエスは、ペテロに三度「わたしを愛するか。」と訊ねます。これはペテロにとっては辛い質問でした。彼はイエスへの愛を疑われても仕方のないようなことをしてしまったからです。彼はイエスが十字架にかかる前に捕らえられたとき、主を三度も否認してしまいました(18章15-27節)。その裏切りの経験はペテロの心に深い悔恨の思いを植え付け、ペテロはずっと自責の念にとらわれていたことでしょう。

そんなペテロに、イエスは「わたしを愛するか。」と三度訊ねられたのです(原文では異なる二種類のギリシア語が使われていますが、多くの学者は意味上の違いはないと考えています)。これは明らかに、三度主を否定したペテロを回復させるためになされた質問でした。罪とはただ単に悪いことをしたということではなく、人の歩みが神に向いていない、「的外れ」の人生を歩んでいる状態を示します。ですから罪を取り除くとは、ただペテロが謝罪し、イエスにそれを受け入れていただく、という以上のことを意味します。ペテロは自分の過ちを後悔するだけでなく、積極的に主を愛し、主に従う人生へと方向転換する必要がありました。そこでペテロを罪から解放してご自身との正しい関係を回復するために、イエスは彼にご自身への愛を告白することをうながし、新しい使命を与えられたのです。

最後に、キリストが現れたのは、愛のためでした。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。(1ヨハネ4章9節)

ヨハネは、キリストが現れたのは、神の愛が現れたことだと言います。口語訳聖書では「明らかにされた」と訳されていますが、これまでと同じ動詞ファネロオーが使われています。ヨハネは同じ手紙で「神は愛である」と書いています(4章16章)。神の本質は愛であって、その愛はイエス・キリストを通して余すところなく世に現されたのです。

福音書21章のガリラヤ湖畔のエピソードも、イエスの愛が弟子たちに表されたできごととして読むことができます。死に勝利して復活されたイエスは、天においても地においても、いっさいの権威を持っておられる方です(マタイ28章18節)。にもかかわらず、よみがえったイエスがなされたのは、十字架にかかる前と同じように、弟子たちに食事を与え、愛をもって仕えるということでした。この姿勢は、私たちが神の権威というものをどう考えるべきか、ということについて、とても大切なことを教えています。イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われましたが(13章4-11節)、これは当時は奴隷のする卑しい仕事でした。そしてイエスはこう言われました。

13  あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。14  しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。15  わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

このように、主であるイエスの「権威」とは、へりくだって愛を持って仕えることを通して行使される権威なのです。そしてこの姿勢は、復活後も少しも変わらなかったことが、主が弟子たちに朝食の給仕をしたことから分かります。復活のいのちは愛の生き方を通して現されるのです。

このように、キリストが現れると、いのちが与えられ、罪が取り除かれ、愛が現されます。ヨハネによると、キリストは神の民イスラエルにご自分を現すお方です(1章28節)。イエスが十字架にかかって死んだとき、その働きは失敗に終わったかに見えました。けれどもよみがえったイエスは、ペテロをはじめとする弟子たちにご自分を現されました。神の民に自己を啓示するキリストの働きは継続しています。その働きは、世の終わりにキリストがご自身を最終的に現される(ファネロオー)時(1ヨハネ2章28節、3章2節)、完成します。そしてキリストがペテロたちに現れてくださったということはまた、この弟子たちこそがまことの神の民、まことのイスラエルであることを意味しているのです。

キリストが現れる時、私たちは変えられ、この方の現れに応答する生き方をするように召されていきます。このことは、イエスがペテロとの会話の中で、主への愛を告白したペテロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と三度命じておられることからも分かります。原文のギリシア語の表現はこの三回で微妙に違いますが、言わんとしているメッセージは同じです。ペテロは彼に委ねられた羊、すなわちクリスチャンたちを愛をもって養い、導いて行かなければならないのです。

イエスは「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」と言われました(ヨハネ10章11節)。つまり、ここでペテロはイエスご自身がいのちがけで愛された魂をゆだねられているのです。これはとても大きな責任です。ペテロ自身も、自分に与えられた使命をいのちがけで果たしていくことを求められているからです。

でも、はたしてそんなことができるのでしょうか?これは誰よりもペテロ本人が抱いた疑問でしょう。彼はイエスをすでに三度も裏切っている男です。こんな重い責任をどうやって負っていくことができるのでしょうか?その答は「主がともにおられるなら可能である」というものです。ヨハネ21章のエピソードで、弟子たちはイエスなしでは小魚一匹とれませんでした。けれども、主がともにおられたとき、網がはちきれんばかりの大漁の恵みに与ることができたのです。主がともにおられるなら、その務めは不可能ではありません。

そしてそのために必要なのは愛です。イエスはペテロを再び福音の働きに召されるにあたって、彼の勇気や能力や信仰すら問いませんでした。イエスが繰り返し問われたのは、彼が主を愛しているか、という一点だけでした。福音の奉仕になくてはならないものは、愛です。ペテロが主を愛し続けていったとき、イエスの霊である聖霊がやがてペテロに注がれ、初代教会のリーダーとしてその働きを導いて行ったことは、使徒行伝に書かれています。そして、彼は最後は主のためにいのちをもささげることになるのです。

18  よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。19  これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。(ヨハネ21章18-19節)

ここで、イエスはペテロがどのような死に方をするか、ということを語っておられます。多くの学者は、「自分の手をのばす」という表現を、十字架刑を表すものと解釈しています。実際、伝承によるとペテロは紀元60年代半ばのネロ帝による迫害の中で、ローマで十字架にかかって殉教したと言われています。しかし、重要なのは彼が「神の栄光をあらわす」ような死に方をした、ということです。イエスに助けられて立ち直ったペテロは、やがて見事に主に従い通し、いのちを捨てるまでになるのです。

けれども、実はさらにその先があります。ここでペテロはその死をもって神の栄光を現すと言われていますが、死が終わりではありません。イエスはこうも言われました。

「39  わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。 40  わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。(6章39-40節)

「24  よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。25  自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。26  もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」。(12章24-26節)

ここから、いのちまでも捧げてイエスについて従って行く者は死で終わるのではなく、永遠のいのちに至ることが分かります。11章でラザロが死の病の床にあったとき、イエスは言われました。「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」(11章4節)。ラザロは死んだことによって神の栄光を表したのではなく、死んでよみがえらされたことによって神の栄光を表しました。死を打ち破ってよみがえられたイエスご自身が、弟子たちに復活のいのちを与えてくださいます。だからペテロの殉教は死に対する勝利なのです。イエスを信じる者たちが永遠のいのちを得、死に打ち勝つこと。究極的に言えば、これこそ神の栄光にほかならないのです。

ペテロのこの後の歩みも決して平坦ではありませんでした、この後も彼は大きな失敗をしたこともあります(たとえばガラテヤ2章11-14節参照)。しかし彼は倒れても倒れてもイエスに従い続けました。主への愛が彼の胸に燃え続けていたのです。

ペテロに現れた復活のキリストは、今も生きておられ、神の民である私たちにもご自分を現してくださいます。このお方は私たちにいのちを与え、罪を取り除き、愛を与えてくださいます。私たちは主の現れに応答して、このお方を愛し、従うように招かれているのです。