暗闇からの叫び

所属教会で礼拝説教の奉仕をしました。多少手を加えた原稿をアップします。

暗闇からの叫び(詩篇88:1-2)

今日は詩篇の中から、88篇を取り上げました。いま司会者の先生に最初の2節を読んでいただきました。少し長いですがこの詩篇の全体をお読みしたいと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。

2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって

わたしを苦しめられました。
8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって

あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

これが詩篇88篇です。読んでみてお分かりのように、この詩篇は全体が非常に暗いトーンで貫かれていて、読んでいると心が暗くなってくる、という方もあるかもしれません。

「好きな詩篇は何篇ですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」という23篇が好きだという方もおられるでしょうし、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」という42篇が好きだという方、「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」という150篇が好きな人もおられるかも知れません。しかし、好きな詩篇を聞かれて「私は88篇が大好きで、いつも口ずさんでいます!」と答える人はほとんどいないと思います。

この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう。この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がアメリカの神学校で学んでいたとき、旧約聖書を教えてくださった教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも説教ができる」と語っておられたのを覚えています。私たちは聖書を通読していても、この詩篇のような箇所は、あまり深く思い巡らすことをしないで、さっと読み飛ばしてしまうことが多いのではないかと思います。

けれども、そのように暗く悲しみに満ちた詩篇88篇ですが、これも聖書の一部であることを、私たちは覚える必要があります。この詩篇が聖書の中に収められているということは、実はとても深い意味があると思いますので、今日はここから学んでいきたいと思います。

話は変わりますが、世界的に有名なU2というロックバンドがあります。U2は一般の音楽業界で活躍しているグループで、いわゆるクリスチャン・ミュージックの枠にははまらないバンドですが、彼らの歌にはキリスト教的な信仰に裏打ちされた歌詞を持つものも少なくありません。リードボーカルでバンドのフロントマンでもあるボノはクリスチャンで、その信仰をしばしば公に証ししていますが、彼が詩篇について書いた文章があります。そこで彼はこんなことを書いています:

12歳の時、僕はダビデのファンだった。彼は身近に感じられた・・・ちょうどポップ・スターが身近に感じられるように。詩篇の言葉は宗教的であると同時に詩的でもあり、彼はスターだった。とてもドラマティックな人物だ。なぜなら、ダビデは預言を成就してイスラエルの王となる前に、ひどい目にあわなければならなかったのだから。彼は亡命を強いられ、国境地帯の誰も知らないような町にある洞窟の中で、エゴが崩壊し、神から見捨てられるような危機に直面した。でもこのドラマの面白いところは、ダビデが最初の詩篇を作ったと言われているのはこの時だと言われているということだ。それはブルースだった。僕にはたくさんの詩篇がブルースに感じられる。つまり、人が神に叫んでいるということだ―「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。 遠く離れて私をお救いにならないのですか。 」(詩篇22篇)と。

「詩篇はブルースである」―いかにもロックミュージシャンらしい表現だと思いますが、これは真実の一面をとらえていると思います。詩篇88篇は「嘆きの詩篇」と呼ばれるジャンルで、聖書の詩篇の中にはこの種の嘆きを歌った詩が多くあります。詩篇というと、賛美の歌とか感謝の歌といったものをイメージすることが多いかも知れませんが、実は詩篇の中に一番多く収められているのが、この嘆きの詩篇のジャンルなのです。詩篇は古代のイスラエル人が公の礼拝の中で歌った歌でした。表題によると、この詩篇のは「マハラテ・レアノテのしらべにあわせて」うたわせたもの、と書かれています。これが正確に何を意味するのか、どんなメロディーだったのかは、よく分かっていませんが、おそらくはもの悲しい調べだったのではないかと推測できます。今日のキリスト教会では、あまり礼拝で嘆きの賛美というものを歌う機会はありませんが、イスラエルの民は礼拝で嘆きの詩篇を歌っていたのです。それはまさにブルースと言ってもいいものでした。

私たちは悲しい時や落ち込んでいる時に、気分を明るくしようとして、ノリのいい楽しい音楽を聴くと、もっと落ち込んでしまうことがあります。しかし、悲しい時にブルースのような悲しい音楽を聴くと、不思議と心が落ち着き、慰められることが多いです。同じように、落ち込んでいる時に賛美や感謝の詩篇を読んでも、なかなか心にみことばが響いてこないことがあります。時には、詩篇の記者がしているように神様に賛美したり感謝したり、喜んだりできない自分がとても不信仰に思えてきて、さらに落ち込んでしまうこともあります。けれども、そんな時に嘆きの詩篇を読むと、不思議と慰められることがよくあります。おそらく、私たちが今通っている痛みや苦しみは、私たちだけのものではなく、ダビデをはじめ、数え切れないほど多くの信仰の先輩たちも同じように経験してきたものだ、ということを知る時に、神の民の一体感を感じ、同時に神様はそのような嘆きの声をむげにしりぞけることなく、しっかりと受けとめてくださる方であることを知って、慰められるのだと思います。

さて、この詩篇88篇では、作者が具体的にどのような苦難の中にあるのかは述べられていません。この詩篇を重い病の中にある人の苦しみを歌ったものであると考える学者もいますが、必ずしもここで歌われている苦しみを病気だけに限定する必要はないと思います。むしろ、この詩篇はさまざまな苦しみの中にあるすべての人に訴えかけてくる普遍性のあるメッセージをもっています。皆さんがこの詩篇を読む時には、自分が経験した一番辛いできごと、苦しかった経験を思い起こしながら読んでみると良いかも知れません。

この詩篇は絶え間ない叫びの祈りで幕を開けます。1節には「わたしは昼、助けを呼び求め、夜、み前に叫び求めます。」と書かれていますが、詩人は昼も夜も、つまり絶え間なく神様に助けを叫び求めているということです。2節で作者は、私の祈りを聞いてくださいと神様に願い求めています。なぜでしょうか?その理由が3節に書かれています。「わたしの魂は悩みに満ち、わたしのいのちは陰府に近づきます。 」

「魂」と訳されている言葉は「ネフェシュ」というヘブル語ですが、これは単なる精神や心ではなく、私たちを活かしているいのちの原理そのものをさします。ですからここには、肉体的な苦痛、精神的な苦痛、霊的な苦痛のすべてが含まれています。そしてそのいのちは「陰府に近づ」いていると言います。「陰府」のヘブル語は「シェオール」ですが、これは地下にある死者の住む世界のことです。旧約聖書では人間が死んでからどうなるのか、という死後の世界についてははっきりとしたことは書かれていません。けれども死んだ人間は消滅してしまうのではなく、地面の下にある「陰府」という場所に下っていくと考えられていました。そこは暗闇と沈黙と忘却が支配する世界です。いのちがよみに触れているというのは、詩人が死と隣り合わせの状況にあり、絶望している様子を表しています。彼は生者と死者の世界の境に立たされている人間なのです。

苦しみは人を孤独にします。親友や愛する者たちも詩人から離れて行ってしまいました(8、18節)。私たち人間はお互いを必要としています。悩み苦しむとき、私たちは互いに慰め合い、励まし合うことによって、苦しみを乗り越えていく力が与えられます。逆に、ひとりぼっちで苦しむことほど辛いことはありません。

けれどもそれだけではありません。詩人は人からだけでなく、神様ご自身からも見捨てられ、裁かれているように感じています。これは人間的な孤独よりもさらに恐ろしいものです。私たちは孤独なときでも、神様だけとは親しい交わりを持ち、それによって慰められることがあります。たとえ誰にも理解されず、顧みられないことがあったとしても、神様が共にいてくださり、愛を持って語りかけてくださっていることが確信できる人は心に平安があります。けれども、もしその神様でさえそっぽを向いてしまったら、どうなるでしょうか?残されたものは絶望しかありません。詩人が言っている「陰府」というのは、神様から見捨てられた場所、そこからは神様を呼び求めることも祈ることもできない場所です(10-12節)。詩人にとっては神様は御顔をそむけ、祈りに耳を閉ざしているお方です。そして詩人は神様の激しい怒りに苛まれていると言います(7, 16節)。

普通聖書では神様の怒りは罪や不正に対して向けられるものですが、この詩篇では詩人は自分のどのような罪のゆえに神様の怒りを招いたのか、明らかにしてはいませんし、また具体的な悔い改めの祈りも見られません。もちろん、すべての人間は罪人ですので、ある意味ではすべての人が神様の御怒りを受けなければならない存在です。けれども、ここで詩人が言っているのはそのようなことではないように思います。もちろん罪を示されたら悔い改める必要がありますが、人生はそう単純ではありません。時には私たちの理性ではまったく説明がつかないような不条理な苦しみに出会うこともあります。そんな時、私たちにはまるで神様が何の理由もなく私たちに対して怒りを燃やしておられる「かのように」見えます。あるいは神様は遠く離れて、私たちの祈りの声に対して顔を背けておられる「かのように」見える時があるのです。

ヨブはまさにこの詩篇の作者と同じような苦しみを通りました。彼は正しい人であったにもかかわらず、神は「わたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵のひとりのように思われた。 」(ヨブ19章11節)と語りました。

もちろん、聖書はそのメッセージを全体として受け取らなければなりません。聖書のほかの部分から、私たちは神様は私たちを愛しておられ、いつも共にいてくださることを知っています。これは聖書的な真理です。けれども時には、私たちが頭で理解している真理と、実際にリアルに体験している現実との間にギャップがあるように感じることがあります。詩人が直面しているのは、まさにそのような、神様に見捨てられてしまった「かのような」絶望的な状況です。

そしてこの詩篇は最後まで暗いトーンを変えることがありません。最初に申し上げたように、詩篇には「嘆きの詩篇」と呼ばれる種類のものが多いです。けれども、そのほとんどすべては、最後には神様への信頼を歌い、主を賛美して終わっています。そうでなくて、最後まで絶望的な調子で終わるのはこの88篇だけです。18節で詩人はふたたび自分の孤独な状況を歌います。愛する者や友人も彼から去って行ってしまいました。最後の行は「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」と訳されていますが、ここは新共同訳聖書のように「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」とも訳せます。ヘブル語原文の最後の単語は「暗闇」です。先ほど出てきた私の神学校時代の恩師はこの最後の一語は詩人の絶望的な叫びであると考え、次のように訳しました。

「あなたは私の愛する人も私の友、すなわち私を知る人々も私から遠ざけてしまわれました――ああ、真っ暗闇だ!」

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さて、このように徹底して暗く絶望的な聖書箇所から、私たちは何を学べるのでしょうか?3つのポイントで見ていきたいと思います。

まず第一に知らなければならないのは、これほどの絶望を歌っていても、それでもこれは「祈り」である、ということです。1-2節をもう一度、今度は新改訳聖書で見てみましょう。

1主、私の救いの神。
私は昼は、叫び、
夜は、あなたの御前にいます。
2 私の祈りがあなたの御前に届きますように。
どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。

ここで作者は苦難の中から神様に叫び求めていること、祈っていることを告白しています。つまり、詩人は神を信じることをやめてしまったわけではありません。日本人は絶望的な状況に直面すると、「神も仏もあるものか」と言いますが、詩篇の作者は今でも神様がおられることを信じていますし、この方を「私の救いの神」と呼んでいます。彼はこの暗闇から神様が救い出してくださることを信じて、助けを叫び求めているのです。

しかし同時に、この詩篇ではそのような救いはすぐには実現しそうにありません。ここには現実をしっかりと見つめる聖書のリアリズムがあります。神様を信じれば自動的にバラ色の人生が送れるようになるわけではなく、さまざまな苦しみに直面することが多いです。そんな時、私たちはともすれば、目の前にある困難な現実から目をそらして、安易に信仰の世界に逃げ込んでしまいたいという誘惑に駆られることがあります。

たとえば、親しい人を亡くして悲しんでいる人がいたとします。そういう方々に対して、「大丈夫、あの人はイエス様を信じていたから、また天国で会えるよ。だから、悲しまなくてもいいんだよ」と言ったとしたらどうでしょうか。語っている内容は間違っているわけではありません。たしかにクリスチャンには永遠のいのちの希望があります。けれども、今悲しんでいるその人に対してかける言葉としては不適切な場合もあるのです。その人がクリスチャンであれば、永遠のいのちのことは私たちに言われなくても信じているでしょう。でも実際に愛する人を失うことは辛く、悲しいことです。その苦しみから目をそらせて、安易に希望のことばを語ることは、結局は苦しみにしっかり向き合うことを避け、それを未解決のまま残してしまい、結果的には聖書の教えるすばらしい希望でさえもうすっぺらな中身のないものにしてしまう危険性があります。クリスチャンでも泣いたり嘆いたりすることがふさわしい、そんな時があるのです。もちろん、いつまでもそのままでいることは健全ではありませんが、悲しみや嘆きを取り除くべき障害とだけ捉えて、インスタントな解決を求めることは、聖書的な態度ではないと思います。

クリスチャンの信仰の人生はきれいごとでは済まされないことがたくさんあります。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。」(1テサロニケ5章16-18節)ということを頭では知っていても、いつでもそうできるとは限りません。神様を信じていても、時には感謝できないとき、賛美できないとき、祈れないときもあります。また時には神様に対して「どうしてこのような状況なのですか?あなたは私を見捨てられたのですか?」と抗議したくなることすらあります。

聖書の、特に詩篇の素晴らしいところは、そのような信仰者のなまの感情がそのまま書き記されていることです。聖書はきれい事の本ではなく、真実の本です。聖書は神様の素晴らしさや恵みもたくさん書かれていますが、同時に人間の罪の醜さも、この世界に満ちる苦しみや悩みについても、ありのままに、リアルに書かれています。詩篇は祈りの本と言ってもいいと思いますが、それらをじっくりと読んでいくと、その言葉の率直さにしばしば驚かされます。「えっ、こんな祈りを神様にしてもいいの?」と思うような箇所がよくあります。

私たちはいつも人前で祈るような、良く整えられた敬虔そうな祈りだけができるわけではありません。時には神様に向かって子どものように泣き叫んだり、あるいは声にもならないうめきしか出てこない時もあります。そして、最後に敬虔なクリスチャンらしく「いろいろ辛いけれど、それでも感謝します、賛美します。ハレルヤ!」と付け加えることもできないような時もあります。詩篇88篇の作者もそのような心境だったのでしょう、この詩篇はお手軽なハッピーエンディングを拒否しているかのように、嘆きのままで終わっています。もちろん、この詩篇は聖書全体の文脈のなかで考えなければなりませんので、私たちは確かに絶望で終わりではなく、希望があることを知っています。けれども、いま置かれている具体的な状況の中で私たちが経験している痛みや苦しみ、時には絶望感さえ、正直に神様に申し上げることは、決して不信仰ではありません。

嘆きの詩篇は、祈りの中では神様にどんなことでも申し上げていい、ということを教えてくれます。むしろ、神様は心のこもらないうわべだけ綺麗な祈りよりも、私たちの心の底からほとばしるような真実の叫び声をこそ、聞きたいと願っておられるのです。私たちは苦しみの中にあるとき、信仰深そうな祈りができなくても、とにかく心の中にある思いをそのまま神様の御前に注ぎだしてください。神様は決してそのような祈りを退けられることなく、愛を持って受けとめてくださいます。神様は真実を愛される方です。そもそも、神様は私たちの心をすべてご存じですので、私たちがうわべだけ取り繕った祈りをしても、すべてお見通しです。神様を欺くことはできません。けれども、そのようなうわべだけの祈りは、かえって祈っている私たち自身を欺いてしまい、本当の解決への道を閉ざしてしまいます。私たちが自分の心の真実に正直に向き合うときにはじめて、いやしと救いと回復への道を歩み始めることができるのです。

今、私たちは祈りの中で神様の御前に自分の思いを正直に申し上げるべきだと言いました。けれども、ここで注意すべきことがあります。この詩篇を読む時の二番目のポイントは、私たちは、そのような時でも、神様はどのようなお方であるか、という聖書の基本的な真理を忘れてはならない、ということです。私たちの信じている神様、聖書が証ししている神様は愛と恵みに満ちた、徹底して良いお方です。私たちはこのような正しい聖書的な神観を持つ必要があります。そしてそれは、絶望のどん底にあるときでさえも、いやむしろ、そのような時にこそ、大変重要なことなのです。

これまで見てきましたように、この詩篇はたいへん暗い内容を持っていますが、決して詩人は絶望や怒りにまかせて神様に暴言を吐いたり、御名を冒涜したりしているわけではないことに気づきます。注意深く読んでいくと、作者の絶望的な叫びの根底には、神様に対する深い信頼が隠されているのです。10節から12節まで、詩人は死人は神様をほめたたえることがない、ということを表現を変えながら繰り返しています。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。
12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

神様は人間のために奇しいわざを行われる方であり、恵みと真実と義に満ちたお方です。けれども、死んでしまえばそのような神様の素晴らしさを体験し、賛美することはできなくなってしまいます。だからこそ詩人は、今の絶望的な状態から救われて、神様をふたたび賛美できるようになることを切に願い求めているのです。神様のすばらしさを味わい、ほめたたえること、これこそが人間が神様と本来持つべき関係だ、ということを詩人は知っているのです。

しかし、いま現在詩人が体験している状況には、そのような神様の良いご性質が反映されていません。そこで詩人は、なぜそうなのですか、と神様に訴えているわけです。13節には「しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。」とあります。口語訳聖書はこの最後の部分を「み前にささげます。」と穏当に訳していますが、原文のヘブル語は、ほかの箇所では「立ちむかう」とも訳されている言葉です(たとえば詩篇18篇5節)。そう考えると、この箇所は「あしたに、わが祈はあなたに立ちむかいます。」とも訳せるのです。この解釈は、すぐ次の節で「主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。」と語られていることからも裏付けられます。つまり詩人は、自分から御顔をそむけておられるかのように見える神様に対して、朝ごとに祈りで立ちむかっているということです。

20世紀ドイツの有名な神学者でディートリッヒ・ボンヘッファーという人がいます。彼はナチス・ドイツによっていのちを奪われた人ですが、詩篇について書いた本の中でこんなことを書いています。嘆きの詩篇の中で苦しんでいる者は「神のために神と戦おうとする」のだ、と(Psalms: The Prayer Book of the Bible, p. 47)。つまり、詩篇の作者は苦難の中からなかなか自分を救い出してくださろうとしない神様に抗議しているわけですが、それは神様ご自身が良いお方である、という聖書的な真理に訴えているのであり、神様ご自身の聖なる御名のために神様と戦っているのだ、ということなのです。そのように考えると、この詩篇に表されている詩人の抗議は、決して不信仰の表現ではなく、むしろ神様への深い信頼に基づいた信仰の叫びであることが分かります。私たちも、苦しみの中で神様に抗議したくなる時があります。そうすることがふさわしい、そんな時もあります。けれども、私たちは、そのような抗議も、正しい神観に基づいてしていくことが大切です。

最後に、詩篇88篇は、私たちの目をキリストの十字架に向かわせます。他人には言えなくても、この詩篇にあるような絶望の叫びを上げたことのない人はいないかも知れません。ある意味で、この詩篇は私たちの人生の真実を表している詩篇です。けれども、神様はそのような私たちの苦しみの叫びを、遠く離れた天から他人事として聞いておられるのではありません。聖書は神様ご自身がその苦しみのただ中に降りてきてくださって、私たちと一緒にその苦しみを味わってくださったと語っています。それがイエス様の十字架でした。主は十字架につけられたときに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。これは詩篇22篇1節の引用ですが、それだけでなく、88篇の叫び、いや、この世で苦しみの中にあるすべての人間の叫びを集約したものであると言えます。イエス様は十字架の上で、人から見捨てられ、そればかりでなく父なる神様からも捨てられ、この世のすべての罪と悪に対して向けられた神様の怒りを一身に受けてくださいました。イエス様が亡くなられたとき、全地が暗くなったと書かれています(マタイ27章45節)。詩篇の記者が語っている暗闇をイエス様は体験してくださいました。そして、詩篇の記者は「わたしのいのちは陰府に近づきます。」と語りましたが、イエス様は実際にいのちを捨てて陰府に下って行かれました。イエス様は十字架の上で、まさに詩篇88篇の世界を体験してくださったのです。

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先ほどのボンヘッファーはこうも言っています。

「今や私たちは、この地上に存在するどんな苦しみの中でも、キリストはともにいてくださり、私たちとともに苦しんでくださり、私たちとともに祈ってくださることを知っています。キリストだけが私たちの助け手なのです。」(p. 48)。

イエス様は十字架の上で、私たちの苦しみや悲しみのすべてを引き受けて、体験してくださいました。ですから、主は私たちのどんな苦しみも分かってくださいます。イエス様は山上の説教の中で「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」(マタイ5章4節)と語ってくださいました。ここで「悲しんでいる人たち」というのは、狭い意味では神の民であるイスラエルがまだ救われていない状況を嘆いている正しい人たち、ということですが、より広くは、この地上に神の国がまだ訪れていない、神様の御心が100パーセント実現していない、地上に悪が満ちている、そういう現実の中で悲しんでいる人々すべてを含めることができるでしょう。イエス様はここで、「いま悲しいことがあっても、我慢していればそのうちいいことがあるよ」とか「地上で悲しいことがあっても、天国に行けば慰められるよ」と他人事のように言っておられるのではありません。そうではなく、「わたしはあなたの悲しみをよく知っている。なぜなら、わたし自身が十字架でその悲しみを担ったのだから。だからわたしはあなたを慰めてあげることができるのだよ。」と言っておられるのです。私たちはどんな悲しみの中にあっても、イエス様に慰めを見いだしていくことができます。

そしてもちろん、私たちは苦しみや悲しみがすべての結末でないことを知っています。三日目にイエス様は死者の中からよみがえられました。十字架の後には復活があり、暗い夜の後には朝が来ます。けれども、ここでとても大切なことがあります。たしかに、今の絶望的な状況はやがて変えられるという希望を持つことは大切です。しかし同時に忘れてはならないのは、まだ解決が訪れていない、夜が明けていない真っ暗闇のような状況にある時でも、神様は私たちを見捨ててはおられないと言うことです。詩篇139篇にはこうあります:

 7  わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。
8  わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、
あなたはそこにおられます。
9  わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
10  あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
11  「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
12  あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。
(詩篇139篇7-12節)

この詩篇にあるように、神様はどんな暗闇の中でも、絶望的な苦しみの中でも、私たちとともにいてくださいます。神様が祈りを聞いておられないように思える時も、御顔を隠しておられるように感じられる時も、あるいは私たちに対して怒っておられるように見える時でさえ、主は不思議な方法で私たちのすぐ側におられ、私たちと苦しみをともにしてくださっているのです。私たちが直面している問題に、すぐに解決は与えられないかも知れません。なぜ神様がすぐに祈りに応えてくださらないのかも、その理由も分からないかもしれません。けれども、私たちはそれでもこの神様を信じて祈り続けるのです。

この詩篇の1節を新改訳でもう一度お読みします。「主、私の救いの神。 私は昼は、叫び、 夜は、あなたの御前にいます。」ここで詩人は「私の救いの神」である「主」に呼びかけていますが、「イエス」と言うヘブル語の名前はまさに「主は救い」という意味を持っています。イエス様が2千年前に人となって来てくださったできごとは、イスラエルの神である主が確かに救いをなされる方であることを証ししているのです。

詩篇88篇の記者は18節の「暗闇」という言葉を最後に、口をつぐみます。ある注解者は、この後詩人はだまって主を待ち望み、暗闇の中で神様がこの苦しみという謎に答を与えてくださるのを待った、そして真実なる主は彼に現れてくださったに違いない、と推察しています。そのことは詩篇のテキストには書かれていません。けれども、私たちがクリスチャンとして、イエス・キリストの十字架というレンズを通してこの詩篇を読む時に、救いの神であるイエス様が、このどん底の暗闇の中にもいてくださることを信じることができるのです。

今、もしかしたら暗闇のような苦しみのただ中にいる人もおられるかもしれません。祈りの応えがなく、神様から見捨てられたように感じている人もおられるかもしれません。その苦しみ、悩みを正直に神様に申し上げていきましょう、神様はそのような暗闇でもあなたとともにおられます。暗い夜もいつかは終わり、朝が来ます。あきらめないで、救いの神であるイエス・キリストに信頼し続けて行きましょう。