復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。 続きを読む

暗闇からの叫び

所属教会で礼拝説教の奉仕をしました。多少手を加えた原稿をアップします。

暗闇からの叫び(詩篇88:1-2)

今日は詩篇の中から、88篇を取り上げました。いま司会者の先生に最初の2節を読んでいただきました。少し長いですがこの詩篇の全体をお読みしたいと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。

2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって

わたしを苦しめられました。
8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって

あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

これが詩篇88篇です。読んでみてお分かりのように、この詩篇は全体が非常に暗いトーンで貫かれていて、読んでいると心が暗くなってくる、という方もあるかもしれません。

「好きな詩篇は何篇ですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」という23篇が好きだという方もおられるでしょうし、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」という42篇が好きだという方、「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」という150篇が好きな人もおられるかも知れません。しかし、好きな詩篇を聞かれて「私は88篇が大好きで、いつも口ずさんでいます!」と答える人はほとんどいないと思います。

この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう。この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がアメリカの神学校で学んでいたとき、旧約聖書を教えてくださった教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも説教ができる」と語っておられたのを覚えています。私たちは聖書を通読していても、この詩篇のような箇所は、あまり深く思い巡らすことをしないで、さっと読み飛ばしてしまうことが多いのではないかと思います。

けれども、そのように暗く悲しみに満ちた詩篇88篇ですが、これも聖書の一部であることを、私たちは覚える必要があります。この詩篇が聖書の中に収められているということは、実はとても深い意味があると思いますので、今日はここから学んでいきたいと思います。 続きを読む

Context Is King

聖書解釈における大原則の一つに、「文脈(コンテクスト)に即した解釈をする」というものがあります。英語では“Context is King” (文脈は王)などと言われます。聖書テキストの意味は、その前後の文脈の中ではじめて正確に捉えることができる、というもので、神学校で学ぶと、このような聖書の読み方を徹底的にたたき込まれます。

前後の文脈に即して聖書を解釈することが身についてくると、こんどは文脈を無視した解釈に生理的な違和感を覚えるようになってきます。牧師の説教やキリスト教関係の書籍、メディア、クリスチャンの友人との会話などで前後の文脈を無視した聖書の解釈や引用が行われると、条件反射的に頭の中に黄色信号や赤信号が点灯し、「この箇所はそんな意味じゃないよ」と頭の中でつぶやいてしまいます(口に出して言うことは滅多にありませんが)。

文脈を無視した解釈の代表的なものは「アレゴリー的解釈」です。「アレゴリー」は寓喩とも言われますが、ある言葉によって、その語が通常指示する事物とは別の事物を意味する表現技法です。これは著者が意図して行うこともありますが、「アレゴリー的解釈」とは普通は読者がテキストにある言葉の背後に、著者が意図したものとは異なる意味を読み取ろうとする解釈法を指します。 続きを読む