Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(4)

その1 その2 その3

これまでの投稿の中で、詩篇88篇を「聖書の中のブルース」として何度か引用してきました。今回はこの詩篇を正面から取り上げようと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。
2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。

3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって
わたしを苦しめられました。

8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。

11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

この詩篇は一般にあまりなじみがない詩篇だと思います。「好きな聖書箇所は?」あるいは「好きな詩篇は?」と訊かれて「詩篇88篇です」と答える人はほとんど皆無でしょう。この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう、この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がベテル神学校で学んでいたとき、旧約学のクラスで、デイヴィッド・ハワード教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも語ることができる」と語っておられたのを今でも覚えています。けれども、この詩篇が聖書の中に収められているということはとても深い意味があると思います。

この詩篇は「嘆きの詩篇」と呼ばれるジャンルで、聖書の詩篇の中にはこの種の嘆きを歌った詩が多くあります。88篇では、詩人が具体的にどのような苦難の中にあるのかは述べられていません。それだけに、この詩篇はさまざまな苦しみの中にあるすべての人に訴えかけてくる普遍性のあるメッセージをもっています。

詩人の苦しみは3節に要約されています。

わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

陰府(シェオール)」は死者の住む地下世界のことです。いのちが陰府に近づいているというのは、詩人が死と隣り合わせの状況にあり、絶望している様子を表しています。彼は生者と死者の世界の境に立たされている人間なのです。

この詩では語り手は人からも神からも見捨てられ(少なくともそのように感じ)、その絶望感は最後まで変わることがありません。最初に書いたように、詩篇には「嘆きの詩篇」と呼ばれる種類のものが多いです。けれども、そのほとんどすべては、最後には神様への信頼を歌い、主を賛美して終わっています。そうでなくて、最後まで絶望的な調子で終わるのはこの88篇だけです。18節で詩人はふたたび自分の孤独な状況を歌います。愛する者や友人も彼から去って行ってしまいました。最後の行は口語訳では「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」と訳されていますが、ここは新共同訳聖書のように「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」とも訳せます。ヘブル語原文の最後の単語は「暗闇」です。前述のハワード教授はこの最後の一語は詩人の絶望的な叫びであると考え、次のように訳しました。

You have removed far away from me the one who loves me and the one who is my friend, namely, those who know me!――Oh, Darkness!

あなたは私の愛する人や友、すなわち私を知る人々を私から遠ざけてしまいました!――ああ、真っ暗闇だ!

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さて、このように徹底して暗く絶望的な詩篇は、私たちに何を語りかけているのでしょうか?

まず第一に知らなければならないのは、これほどの絶望を歌っていても、それでもこれは「祈り」だということです(2、13節)。つまり、詩人は神を信じることをやめてしまったわけではありません。彼は今でも神がおられることを信じていますし、この方を「私の救いの神」(1節、新改訳)と呼んでいます。彼はこの暗闇から神が救い出してくださることを信じて、助けを叫び求めているのです。

しかし同時に、この詩篇ではそのような希望はすぐには実現しそうにありません。ここには苦しみに満ちた現実をしっかりと見つめる聖書のリアリズムがあります。神を信じれば自動的にバラ色の人生が送れるようになるわけではなく、信仰者も日常的にさまざまな苦しみに直面します。そんな時、私たちはともすれば、目の前にある困難な現実から目をそらして、安易に彼岸的な信仰の世界に逃げ込んでしまいたいという誘惑に駆られることがあります。けれども、信仰者の人生はきれいごとでは済まされないことがあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)という聖句を頭では知っていても、いつでもそうできるとは限りません。感謝できないとき、賛美できないとき、祈れないときもあります。また時には神に対して怒りをぶつけたり抗議したくなることすらあります。

聖書の、特に詩篇の素晴らしいところは、そのような信仰者のなまの感情、神との格闘がそのまま書き記されていることです。詩篇をじっくりと読んでいくと、そこに記された言葉の率直さにしばしば驚かされます。私たちはいつも公の集まりで他人の前で祈るような、良く整えられた敬虔な祈りだけができるわけではありません。時には神様に向かって子どものように泣き叫んだり、あるいは声にもならないうめきしか出てこない時もあります。そして、敬虔な信仰者のように「いろいろ辛いけれど、それでも感謝します、賛美します。ハレルヤ!」と語ることもできない時さえあります。

詩篇88篇が聖書の中に収められているということは、祈りの中では神にどんなことでも申し上げていい、ということを意味しているように思います。いいえ、神は心のこもらないうわべだけ綺麗な祈りよりも、私たちの心の底からほとばしるような真実の叫び声をこそ、聞きたいと願っておられるのでしょう。私たちは絶望の中にある時はその絶望感を、苦しみの中にある時はその痛みを、率直に神の御前に注ぎ出すべきです。そのような祈りを通してこそ、安易な気休めではない、深く静かな希望を神様の中に見いだせるのだと思います。

最後に、詩篇88篇は、私たちの目をキリストの十字架に向かわせます。この詩篇にあるような絶望の叫びを、神はただ他人事のように聞いておられるのではありません。神ご自身がその苦しみのただ中に降りてきてくださって、私たちと一緒にその苦しみを味わってくださいます。そのクライマックスがイエスの十字架でした。イエスは十字架につけられたときに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46、マルコ15:34)。これは詩篇22篇1節の引用ですが、それだけでなく、88篇の叫び、いや、この世で苦しみの中にあるすべての人間の叫びを集約したものであると言えます。イエスは十字架の上で、人からも神からも捨てられ、この世のすべての罪と悪をその身に引き受けてくださいました。主が亡くなられたとき、全地を暗闇がおおったと書かれています(マタイ27:45)。詩篇の記者が語っているのと同様の暗闇をイエスは体験してくださいました。そして、詩篇88篇の作者は、陰府(シェオール)の一歩手前で留まりましたが、イエスは実際にいのちを捨てて陰府に下って行かれました。(使徒信条などに書かれているキリストの陰府降下のできごとは新約聖書に詳しく記述されているわけではありませんが、マタイ12章40節や使徒2章31節など幾つかの箇所で暗示されています)。

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もちろん、私たちはそれがすべての結末でないことを知っています。三日目にイエスは死者の中からよみがえられました。十字架の後には復活があり、暗い夜の後には朝が来ます。けれども、詩篇88篇はここでとても大切なことを語ってくれていると思います。たしかに、今の絶望的な状況はやがて変えられるという希望を持つことは大切です。しかし同時に忘れてはならないのは、まだ解決が訪れていない、夜が明けていない真っ暗闇の状況の中でも、神は私たちを見捨ててはおられないと言うことです。詩篇139篇にはこうあります:

7  わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。
8  わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、
あなたはそこにおられます。
9  わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
10  あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
11  「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
12  あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。
(詩篇139篇7-12節)

神はどんな暗闇の中でも、絶望的な苦しみの中でも、私たちとともにいてくださいます。神が祈りを聞いておられないように思える時も、御顔を隠しておられるように感じられる時も、主は不思議な方法で私たちのすぐ側におられ、私たちと苦しみをともにしてくださっているのです。私たちが直面している問題に、すぐに解決は与えられないかも知れません。なぜすぐに祈りが応えられないのかも、分からないかもしれません。けれども、私たちはそれでもこの神を信じて祈り続ける必要があります。

88篇の1節(ヘブル語原文では2節)で詩人は「私の救いの神」である「主(YHWH)」に呼びかけていますが、「イエス」と言う名前はヘブル語でまさに「主は救い」という意味を持っています。イエスが2千年前に人となって来てくださったできごとは、イスラエルの神である主が確かに救いをなされる方であることを証ししているのです。

詩篇の記者は18節の「暗闇」という言葉を最後に、口をつぐみます。後に残されたのはただ沈黙、そして暗闇です。その後、詩人の叫びに「救いの神」は応えてくださったのでしょうか。詩篇のテキストは何も語っていません。しかし、私たちがクリスチャンとして(つまりキリストというレンズを通して)この詩篇を読む時に、救いの神であるイエスが、このどん底の暗闇の中にもいてくださることを信じることができるのです。

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この投稿は、David M. Howard Jr., “Experiencing God in the Hardest of Times: Psalm 88,” Bethel Magazine (Fall 2015): 12-15にヒントを得、その考察に著者なりの論点を加えたものです。元記事(英語)はこちらで読むことができます。