N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

その1

山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。

4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。

NTPG

『新約聖書と神の民』原書
The New Testament and the People of God

第二回

ユダヤ・キリスト教の創造主信仰

ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時的なものと見なすプラトン主義、この世界が劣った神によって創造されたという「グノーシス主義」、さらにはサタンによって創造されたという「カタリ派」などの一群の宗教的思想です。これらの宗教思想は現世を悪い世として悲観的に見て、この世の人生の喜びを否定し、極端な禁欲主義を推奨します。キリスト教においても「この世との分離」が強調される面がありますので、一見するとグノーシス的禁欲主義もキリスト教的だと理解される場合があります。しかし、その根底にある世界観は全く正反対であると言えます。キリスト教が掲げるビジョンとは、この世の消滅ではなく刷新だからです。しばしば第二ペテロの3章が地球の消滅を指す証拠聖句として理解されることがありますが、黙示文学の世界的権威であるリチャード・ボウカム教授はそのような釈義に反駁しています。

「このような聖書箇所では古い天地と新しい天地との劇的な非連続性が強調されているが、それにもかかわらず明確なのは、これらが描写しようとしているのは被造世界の廃棄ではなく、刷新であるということだ」(Jude, 2 Peter, p. 326)。

他にも地球消滅を指していると理解されてきた聖句がいくつかありますが、それについて一つ一つ解説するのは本エッセイの目的を超えてしまいます。しかし、聖書の文字通りの解釈は、必ずしも聖書の忠実な解釈とは同じではないということは強調すべきでしょう。黙示文学の文字通りの解釈と、黙示文学の特性に則った解釈の違いに関心がある方は、リチャード・ボウカム著『ヨハネ黙示録の神学』(新教出版)の111ページ以下をお読みになることをお奨めします。

 

被造世界における「悪」の問題とその解決

さて、話を戻しますと、ユダヤ教とキリスト教に共通する信仰の基盤とは、物質世界が唯一の神によって創造された「良い」世界だということです。しかし、ユダヤ・キリスト教の創造主への信仰は一つの難しい問題を内包しています。それは、この世界が「善」なる神によって創造されたのなら、どうしてそこに「悪」が存在するのか?という問題です。卑近な例で言えば「蛙の子は蛙」という諺がありますが、善なる神が創造した世界はその創造主の性質を反映して「善」であるべきではないのか、どうしてその世界にこれほど多くの「悪」が存在するのか?という根本的な問いです。それは人間の罪のせいだ、という答えがあり得るでしょうが、では創世記に登場する、人間を唆した「蛇」はいったいどうやって善なる世界に入って来たのか、また人間が神のイメージとして作られたのなら、どうして人の心に悪が生じたのか?等々の疑問が湧きてきます。つまり「悪」の起源を説明できないではないか、ということです。それに対するユダヤ教の答えについて、ライトは以下のように説明しています。

主流のユダヤ教の思想においては長いこと、悪の問題が神の創造や摂理とどのように折り合うのかという問いを、悪の起源の問題から考えようとはしなかった。[…]多くの場合に焦点は現在と未来に向けられた。この世界に悪が存在するなら、創造主はそれをどのように取り扱うのだろうか。創世記の編集者から後代のラビたちに至るまでの様々なユダヤ人たちによる、その問いへの答えは明確だった。[…]創造主はある人々を召し出し、彼らを通じて被造世界のただ中で決定的な行動に出られるだろう。被造世界から悪を取り除き、秩序と正義と平和を取り戻すために。この進行中の計画の中核にあるのが、イスラエルの召命である。創造主がご自身の世界を立て直し、癒す際に、神はこの民を通じてそれを遂行するだろう(NTPG, p.447-448)。

聖書が悪の起源についての詳しい情報を提供していない以上、それについての人間の思索は単なる憶測になってしまうという危険が常に伴います。むしろ、神がこの被造世界の悪をどのように取り扱われるのか、視点を過去よりも未来に向けようということです。そして「イスラエルの選び」を「被造世界における悪の除去」という視点から見つめると何が見えてくるでしょうか?それは、神がイスラエル民族をご自身の民として選ばれたのは、世界の中からイスラエル民族だけを救うためではなく、イスラエル民族を通じて世界の諸民族を救い、そしてついにはこの世の「悪」を取り除くためだという視座です。旧約聖書では、特にイザヤ書で強調されているイスラエルの召命理解です。

 

イスラエルの回復的終末思想

しかし問題は、その世界を回復させる器として選ばれたイスラエルそのものが罪を犯し、世界のために働くという使命を果たせなくなってしまったことでした。旧約聖書に記されている出エジプト以降のイスラエルの歴史は、その厳しい現実をありのままに記述しています。イスラエルの歴史の中でも第二神殿期と呼ばれる、バビロン捕囚以降のユダヤ人たちは、「イスラエルは未だに完全な罪の赦しを受けていない」と考えていたとライトは論じます。ダニエル書9章に典型的に表明されている神学的現状認識です。イスラエルは神の裁きの下にいて、世界の問題の解決の器というよりも、その問題の一部になってしまったということです。この困難な状況から、「終末思想」が生まれたのだ、とライトは主張します。

イスラエルは、世界の悪を打ち滅ぼすための創造主の器として召し出されたのだが、目下そのイスラエルが悪の虜になってしまい、その状態からの回復が必要になってしまった。創造と契約の神は、イスラエルを今に至るまで続く捕囚状態から贖うべく、行動を起こさればならない。しかし、それはどのように実現されるのだろう(NTPG, p.482-483)。

「終末待望」とは何らかの現状への不満から生まれます。人は現在の状況に満足していないからこそ未来に希望を託します。多くの1世紀のユダヤ人たちは偶像礼拝者である異国人に支配され続けてきた自らの歴史に不満を抱き、そこからの解放を熱望していました。むろん、1世紀のユダヤ教は多様であり、そこには様々な思想がありました。終末論も例外ではなく、ひたすら現状維持を願った祭司長以下のサドカイ派には「終末」待望、つまり現状の大いなる変革への期待自体がなかったと言えるでしょう。しかし、少なからぬユダヤ人にとっての「終末」とは、神がご自分の民であるイスラエルをその罪から贖いだし、大いなる祝福を与えて下さる時代が到来することでした。ただ、それはユダヤ民族だけに限定されるものではありません。このユダヤ民族の解放は、全被造世界の刷新、つまり「新しい天と地」の実現を伴う出来事となるはずでした。イザヤ書65章17節以下に示されているイスラエルの回復と、全被造世界の回復とが重なり合うビジョンです。ここではユダヤ人の贖いは、神がこの世の悪の問題に決定的な決着をつけるという希望と結びついているのです。大切なのは、「終末」とはこの物質世界の終焉の瞬間ではなく、この物質世界における悪が決定的に打倒される時だということです。このような「回復的終末論」においては、1世紀のユダヤ人にとっての「救い」とは、単に個人的な救いに留まらず、全被造世界を対象とする宇宙的なスケールでの「救い」だということになります。彼らにとっての聖書の「メタ・ストーリー」とは、特にイザヤ書において鮮やかに描かれる、全被造世界の「創造から新しい創造」へと至るストーリーでした。原始キリスト教は、このような終末的待望を背景として生まれたというのがN. T. ライトの提示する「キリスト教の起源」であると言えます。本書10章で、こうした「イスラエルの希望」が詳述されています。では、どのようにしてイエスがこのイスラエルの終末的希望を成就したのかについては、『新約聖書と神の民』の下巻及び、『キリスト教の起源と神の問題』の2巻以降で徹底的に論じられています。