聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6)

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藤本満先生によるゲスト投稿、6回目は、私(山崎ランサム)とのインタビュー形式でお送りいたします。

聖書信仰

聖書信仰』(再刷おめでとうございます!)

このたび、寄稿の最後に山﨑ランサム和彦先生が質問され、小生が少し応答し、必要があれば、山﨑ランサム先生がさらに応答する、という形式を取っています。読者のみなさまも、先生の質問に対して、様々なお答えがありますでしょう。私の拙い返答にご辛抱ください。

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Q1.どのような神学も歴史の真空状態の中で生み出されてくるものではなく、神学者が生きている具体的な歴史的状況に 必然的に影響を受けるものだと思います。本書における先生の主張をよりよく理解するために、先生ご自身の神学的背景について、簡単に お教えください。

私はインマヌエルという群の中で、牧師の家庭に育ちました。きよめ派の教団で、1945年に群を創設された蔦田二雄先生は、戦後、長老派の常葉隆興先生らと、JPCの旗揚げに貢献された人物です。ですから、私の育った教団は、聖書信仰のど真ん中を歩んできました。しかし、私の周囲でウォーフィールドを読んでいる人・プリンストン神学の聖書観がどのようなものかを論じる人を見たこともありませんでした。しかし、とても伝道的で霊的に真実な群で、純粋に「聖書は神の言葉」であり、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力であると真実に信じてきました。つまり、聖書論の神学的な掘り下げには弱くても、聖書の救済論的な役割はしかと捉えていました。――そういう私に芽生えたのが、聖書信仰はウォーフィールド型だけではないのではないか?という疑問です。

また、あるとき、ふと気がつきました。それなりの理由はあるのでしょうが、日本福音同盟(福音派の集まり)に、本来その中心にいるべき、日本改革派教会が入っていません。また長老教会も、必ずしもその中に入っていません(語弊があったらお許しください)。以前中心におられた村瀬俊夫先生は1980年代の論争で離れていかれました(現在は、福音同盟の社会委員会の委員を務めておられます)。――ここから生まれたのは、日本の福音派を考慮した、聖書信仰の歴史的な変遷を解明してみたいという願いでした。どのようにしてこうなってしまったのだろう?

日本の福音派においては、聖書信仰は、型にはめられたようで、議論にもならないのが現状ではないかと思いました。それは、「信仰」であって「神学」ではないのだから、論じるべきことではない、かのように。一度、バケツをひっくり返してみよう、などと思ったのではありません。少し足跡を検証してみようと思ったまでです。

 

Q2.本書にも登場する神学者トーマス・オーデンは、「復古正統主義(Paleo-Orthodoxy)」を提唱し、 古代の教父や公会議に代表される「古典的キリスト教」の重要性を強調してきました。本書は福音主義の聖書信仰を宗教改革まで遡って描き出していますが、宗教改革以前の「聖書信仰」を今日の福音的キリスト者はどのように評価すべきとお考えでしょうか?

少し字数をいただいて、あらためて宗教改革の聖書主義(聖書信仰)を説明させてください。1517年の10月の終わり、ルターは贖宥状(免罪符)を売り歩いて、大金を稼いでいる教皇サイドに抗議文を出します(ヴィッテンベルクから印刷を通してあっという間に広がります)。教皇サイドとルターは、最終的に1521年のヴォルムスで開催された神聖ローマ帝国の会議にルターが呼び出され、撤回を求められ、それを拒否したことで、決裂します。

「皇帝閣下と諸侯殿が単純な答えを要求されるのですから、歯に衣着せずにお答えします。聖書の証言か明白な根拠をもって納得させられない限り、私は私が挙げた聖句に従います。私の良心は神の言葉にとらえられています。私は教皇も公会議も信用していません。なぜなら、それらがしばしば誤り、互いに矛盾していることは明白だからです。私は何一つ撤回できませんし、そのつもりもありません。良心に反したことをするのは、正しいことではなく、また危険なことだからです。神よ。私を助けたまえ。アーメン。」

ルターの答弁をもってプロテスタント教会が誕生しました。神の言葉、すなわち聖書の生きて働く神の声こそがルターをとらえました。さらに、これまでのカトリック教会は、人間の性質、救いの方法、キリスト者の歩み、等々についての聖書の教えを曖昧にし、時にそれを否定してきたというのが、彼の理解です。今こそ教会は聖書を通して神の真の声を聞かなければなりません。明らかに、プロテスタントの聖書主義の原則は、聖書を教会の上に置きました。

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ヴォルムス帝国議会におけるルター

さて、ヴォルムスの帝国会議は、ルターの答弁で終わったわけではありません。ルターの答弁に応答した審問官の言葉もまた、注目に値します。

「あなたは気が狂っている。どんな目的をもってして、これまで多くの世紀にわたって教会と公会議が討議してきた諸課題に新たに言いかがりをつけるのか。……だれでも公会議と教会の共通理解を聖句によってひっくり返えすような事態を認めたら、もはやキリスト教にはなんら確かな、決定的なことは残らないではないか。」

もし誰もが聖書を味方につけて自分の良心に従うだけでは、その道は、良心の数だけ存在することになります。帝国会議におけるこの言葉もまた、これから先、分裂を繰り返して、諸教派を生み出すプロテスタント教会の将来を予見していたことになります。

そのように考えると、山﨑ランサム先生が挙げてくださったトーマス・オーデンの狙い所が少し見えてきます。彼は、「復古的正統主義」、つまり古代信条を作り上げてきた時代の教会のあり方にならって、聖書主義によって様々に分裂し、多くの教派・神学を生み出してきたプロテスタントを超え、さらに教皇制度と伝統を軸にキリスト教を考える西方カトリック教会を超え、東方教会とも連携を取りながら、それらの分裂が未だなかった時代に目を向けようとしています。

そこでは、教理と霊性の垣根はありません。神学は神学だけをしているのではなく、牧会・伝道・帝国主義との戦い、あらゆることに関わっていました。そこでは聖書が先か教会が先か、というような鶏と卵の論争もありません。鶏も卵も一つのことでした。

オーデンは、そのような古代正統主義のルネサンスは不可能だろうとあきらめていました。ところが、拙著でも紹介しました、初代教父による聖書注解、『古代キリスト教聖書注解』(Ancient Christian Commentary on Scripture)の総編集の働きを進めるにつれ、以前とは異なった感触を得るようになります。この注解書は、初代教父による、存在するすべての聖書注解をデータベース化し、それをもとに聖書の各書各節が、どのように教父たちによって注解されてきたかを解説しています。2001年から刊行が始まり、全29巻が発行されました(InterVarsity)。またこの注解書は、世界で七か国語で同時刊行されてきました。

各巻の編集者は、プロテスタントやカトリックの聖書学者だけではありません。ユダヤ教の聖書学者、東方教会の聖書学者も含まれています。そして、各巻の編集者に共通して見られる、古代の正統主義への憧憬、そこに立ち返る姿勢をオーデンは見て取りました。拙著は「聖書のひとり歩き?」という章をもうけましたが、プロテスタントの流れの底流に、ともすると聖書とその解釈が、教会・伝統を離れて一人歩きする傾向があり、それを反省して、どのような動きがあるのかの一端を紹介しました。

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Q3.本書では欧米と日本の聖書信仰について主に書かれていますが、日本以外のアジア諸国、アフリカ、中南米の教会の中で、聖書信仰というテーマについて注目すべき動きをご存じでしたら、お教えください。

回答は持っていないのですが、この質問の重要性を強調させてください。1910年の統計では、プロテスタント教徒の58%が欧州、31%が米国、11%がその他の国でした。ところが、2010年の統計ですと、欧州はわずか12%、米国は15%、そしてアフリカ・南米・アジアに73%、となっています。さらに、73%のうち、かなりの割合が聖霊派・ペンテコステ派です。福音派の分布が、欧米以外に、しかもそのかなりの%が聖霊派である、というのが現実です。

山﨑ランサム先生が挙げてくださった地域で「聖書信仰」がどのように論じられているのか、私にはまったくわかりません。しかし、これは十分に考察に値するテーマです。これを神学的に論じる研究者がだれかというよりも、この課題がそれらの地域でどのように扱われているのか、論争はあったのか、米国的な理解がどのように浸透しているのかに、私も興味があります。山﨑ランサム先生は、動向をご存じでしょうか?

聖書信仰の実践・適用という見地からですと、拙著でも取り上げました、デヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』は、南アフリカのオランダ改革派です。彼のメッセージは、未だに植民地的社会構造に縛られている世界からの叫びでした。ローザンヌ会議に出席したペルーのサムエル・エスコバール(Samuel Escobar)は、福音派における解放の神学と社会構造の変革を訴えた人物でした。

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藤本先生、お忙しい中、私からのとらえどころのない質問に一つ一つ丁寧にお答え下さり、心から感謝いたします。Q3でご質問した、(日本以外の)アジア・中南米・アフリカ諸国における「聖書信仰」については、私も正直なところほとんど知らないのが現状ですが、ごく限られた範囲で知っていることをお分かちしたいと思います。

アジア神学協議会(Asia Theological Association: ATA)は福音主義に立つアジアの神学教育機関の集まりですが、そこが出版しているアジア聖書注解Asia Bible Commentary)というシリーズがあります。これはATAがジョン・ストットによって創始された Langham Partnershipとの提携のもとに刊行中のプロジェクトですが、その目的はアジアの聖書学者による、アジアの牧師や教会指導者、神学生等のための聖書注解を生み出すことにあります。

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アジア聖書注解シリーズ

アジア聖書注解シリーズのユニークな特徴は、「アジアに文脈化された聖書講解」という点にあります。その編集方針では、注解本文において釈義 exegesis と適用 application をはっきりと分離することはせず、聖書講解の中にアジアというコンテクストにおける適用と、アジアにおける聖書解釈の歴史を織り込んでいくことが明確にうたわれています。つまり、歴史的・文法的解釈のスタンダードな手法である、まずオリジナルの歴史的文脈において聖書が「意味したこと」を釈義し、しかるのちに現代の教会の置かれている文脈に適用する、という二段構えの構造を意図的にくずし(あるいはゆるめ)、現代のアジアにある教会に語りかける神のみことばとしての聖書のインパクトに重点を置いて聖書を読んでいこうという試みであると言えます。これは、藤本先生がおっしゃってこられた、「救済論的な聖書観」に基づくアプローチの一例といえるでしょう。

もちろん、注解書は実際に聖書を解き明かしてなんぼの世界ですので、実際に生み出されてくる注解の善し悪しは個別に判断されなければなりません。また、メインラインの聖書解釈では、アジア人の視点から聖書を解き明かそうという試みは、これまでにもありました。しかし、従来はそのようなアプローチに対しては、福音派からは「ポストモダン的な読み手応答批評」「主観的な読み込み eisegesis」として否定的にしか評価されてこなかった気がします。けれども、近年になってこのような聖書解釈の方法論がアジアの福音派の聖書注解の方針としてはっきりうち出されていること自体、注目すべき動きであると思います。

(続く)