先日の記事で藤本満先生の近著『聖書信仰』をご紹介させていただきましたが、このたびご本人にお願いして、数回にわたってゲスト投稿をいただけることになりました。お忙しい中、快く引き受けてくださった先生に心より感謝いたします。
このブログに寄稿する機会を与えてくださいました、山﨑ランサム和彦先生に心から感謝申し上げます。先生は拙著『聖書信仰――その歴史と可能性』を読んでくださいました。そして、拙著の学術的な色彩をもう少し平易に乗り越えるために、短い文章を書く機会をここで与えてくださいました。ところが、書いてみたのを自分で読んでみると、さらに難しくなったのかと、自分の表現力のなさに落胆します。読んでくださる方々に、神の助けがありますように。(藤本満)
聖書信仰(1)
ギャップに架けられた橋1――批評学
聖書信仰は、二つの対極的命題と向き合います。両者の緊張関係を解消せずに、どのように二つの間のギャップを埋めるか、という課題に必ず直面します。
A)聖書は神の言葉、神の啓示である。(神学・霊的現実)
B)聖書は人間の言語によって記されている。(歴史的現実)
神は時空を超えた世界で抽象的な命題の中にご自身を啓示されたのではなく、具体的な歴史・文化脈の中で、実在した人々と出来事を通して啓示されました。人類に対する神の啓示である以上、聖書は普遍的な真理であると私たちは信じます。ところが、その普遍的な真理が、2千年、3千年以上も前の、しかもおおよそ日本語世界に生きる私たちとはかけ離れた言語で記され、聖書の世界の生活感覚も世界観も、私たちのそれとはかけ離れています。
このギャップを見て見ぬふりをするような聖書信仰だとしたら、「信仰」と呼べるのかもしれませんが、聖書の本質・啓示の本質を無視することになります。旧約聖書は古代オリエントの言語によって記され、その文化や歴史的出来事と切り離すことはできません。新約聖書は、旧約聖書だけでなく古代ギリシャ・ローマの世界を背景にしています。
もし私たちが、「聖書は神の言葉である」という神の言葉の永遠性・普遍性を尊ぶあまりに、その歴史性・文化性を無視したとしたら、果たして神の言葉を真実に受け取っていることになるのでしょうか? 聖書六十六巻の各書にあろう歴史的成立過程を気にもとめず、著者が生きた時代背景や宗教的影響と独自性に目をつぶり、あたかもすべてが一気呵成に永遠なる神という一人の著者によって書き上げられたように主張したとしたら、それは敬虔な努力であっても、本来聖書がもっている緊張関係を解体してしまうことになるでしょう。
では、上述の二つの現実の間にあるギャップに目をつぶることなく、聖書を真実に理解しようとした人々は、どのような方法で二つの緊張関係・ギャップに橋をかけようとしたのでしょう?
●第一は、言うまでもなく批評学です。つまり聖書が記された歴史や背景、また言語や文書構造を学ぶ文献研究です。これは18世紀後半のドイツに始まりました。ところが残念なことに、当時の聖書学は歴史学や哲学に吸い込まれてしまいました。聖書は単純に古代オリエント・古代ギリシャ文書の一つとして研究されるようになります。聖書の持つ正典性・一貫性は解体され、古代の歴史文書と比較検証され、宗教学の貴重な一文献として、大学で研究されるようになります。聖書は教会の手から離れてしまいました。大学、あるいは大学の神学部での聖書学は、教会の神学を嫌い、信仰から切り離して聖書を研究する風潮が浸透していきました。
ようやく1970~80年代頃から、聖書の正典性を強調するアプローチが戻ってきます。ドイツの自由主義神学が、教会の信仰から独立して自立した研究を進めていたつもりが、いつの間にかヘーゲルに代表される当時のドイツの哲学に魂を奪われていたことなども明らかにさます。『聖書を取り戻す――教会における聖書の権威と解釈の危機』C・E・ブラーテン/R・W・ジェンソン編(芳賀力訳、教文館)などは、リベラル系聖書学がリベラル神学と決別して、聖書を、それが本来属している教会へと取り戻そうという、福音主義的な論考です。
かつて聖書信仰は、自由主義神学による聖書の取り扱い方から身を守るために、「批評学には手を染めない」という態度を採ってきました。しかし、近年、そのようなことはありません。批評学の成果を全面的に受け入れないにしても、その作業に一切手をつけず、どこまでも守りの姿勢を貫く、という福音主義の聖書学者は存在しないといっても過言ではないでしょう。
なぜでしょうか? それはまぎれもなく、聖書学者であるならば、いっそう鮮明に聖書が古代の言語によって、そして古代の歴史的出来事や文化の中で記されたことを意識しているからです。つまり、古代と現代とのギャップを意識せざるを得ないからです。聖書信仰に立つ私たちが、批評学の成果をどのように理解し、またどの程度用いるかは別として、英国福音主義が20世紀初頭から主張してきた「信仰的批評学」という考え方(拙著89-94、232-245頁)を聖書信仰の「内側」に取り入れなければならないでしょう。
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