確かさという名の偶像(25)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は「結びのことば:信仰をどう生きるか」を取り上げます。

この最後の章でボイドは、彼自身が信仰と疑いをどのように生きているかについて語ります。たしかに、私たちは信仰の歩みの中で自分が信じていることがらについて深い確信を抱くようなときがあります。それについてボイドは言います。

私はそのような時を大切にはする。しかし、それらを追求することはしない。時として確信を持つことができるなら、それは賜物である。けれども心理的な操作によって確信を持とうと努めることは、決して適切なことでも健全なことでもないと思う。(p. 251)

それでは、確信ではなく疑いを抱いてしまうときにはどうすればよいのでしょうか?

疑いが長引くときには、私はただ一歩下がって、すでに何度も探求した、「なぜ私は自分が信じていることを信じているのか?」という問題をもう一度検討してみるだけである。疑いとは、乗り越えなければならない問題ではない。それはさらなる探求への招きなのである。それは信仰の敵ではなく、友なのだ。(p. 251)

ボイドは、イエスが神の究極の自己啓示であるということについて、それが真理であるかのように生きる人生にコミットするために必要なだけの確信さえあれば、疑いや確実性の感覚は、彼自身の信仰の歩みとはまったく無関係であると言います。このコミットメントによって、ボイドはイエス・キリストに対する信仰を持って毎日を情熱的に生きることができる一方で、信仰に対するさまざまな反論を探求し、それを自らの信仰の再検討のために役立てると同時に、同じような問題で葛藤している人々を助けることができるようになると言います。このような柔軟な信仰の姿勢は、疑いを恐れて極力それを排除しようとする信仰のモデルとは大きく異なっていることが分かります。

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本書においてボイドが展開してきたような、確実性を追求せず、疑いを排除しない信仰のあり方は、今日大きな意義を持っていると思われます。「十字架につけられたイエス・キリスト」を信仰と神学の中心に据え、このキリストにおいてご自身を完全に啓示された愛なる神との人格的な契約関係から与えられるいのちをよりどころにして生きていくとき、たとい疑いや苦しみや知的チャレンジに直面しても、それらを信仰に対する脅威としてではなく、むしろ信仰を深め成長させる契機として受けとめることができるのだと思います。

ますます多様化し、情報化する現代社会において、キリスト教信仰は教会外からのさまざまなチャレンジ(たとえば宗教多元主義や科学と信仰の問題など)に直面しているだけでなく、教会内に存在する教理的・実践的多様性も無視できなくなってきています。福音派と呼ばれる保守的プロテスタント教会も例外でないことは、先日紹介した藤本満先生の『聖書信仰』を読めば明らかです。以前なら日曜日に所属教会で聴く礼拝説教が主な情報源であった信徒の人々も、今ではインターネットで簡単に様々な情報にアクセスすることができ、自分が育ってきた教会的伝統以外のあり方に触れることができるようになりました。私は個人的にはこれは健全で好ましいことだと思っていますが、同時にそれは自分の信仰のあり方をたえず吟味することを迫られる時代ということでもあります。絶対的な真理を確実性を持って信じることに信仰の本質を見いだすという、今日広く見られる確実性追求型信仰のモデルは、このようなチャレンジに対して硬直した融通のきかない対応しか見せることができず、一方では世に対して効果的な証しをすることができず、他方では知的に誠実であろうとする真摯な信仰者をつまずかせる危険性があると思います。

ボイドが本書で展開しているような確実性追求型信仰への批判は、モダニズム的な信仰のあり方に対するポストモダニズムの立場からの批判ということができます。確実性追求型の信仰は、客観的な真理が存在し、適切な方法(それは知的な神学的探求であるかもしれませんし、霊的な宗教体験かもしれません)を用いさえすれば、その真理を正確に把握することができると考える点で、モダニズムの考え方に基づいています。ポストモダニズムの立場では、そのような、絶対に確実な知識を持つことは不可能であると考えます。なぜなら、すべての知識は認識する主体が置かれている特定の文化的・歴史的なコンテクストによって影響を受けると考えるからです。

このことから、保守的なクリスチャンの中にはポストモダニズムを敵視する人々もいます。けれどもそれは一面的な見方です。ポストモダニズムも一様ではなく、いろいろな立場がありますが、大きくハードなポストモダニズムとソフトなポストモダニズムの二つに分けて考えることができます。ハードなポストモダニズムは客観的な真理の存在そのものを否定するラディカルな相対主義で、このような立場は当然神の存在を前提とするキリスト教信仰とは相容れません。しかし、ソフトなポストモダニズムでは客観的な真理の存在を否定するわけではありません。この立場がモダニズムと違うところは、客観的な真理は実在するが、それを絶対的な確実性を持って認識することはできないとするところです。

私はこのようなソフトなポストモダニズムの認識論はじつは非常に聖書的な立場ではないかと考えています。それはパウロの次の言葉に通じるものです。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13章12節)

ここでパウロが言うように、たしかに客観的な真理としての神は存在しますが、限界のある被造物である人間には神のすべてを絶対的な確実性を持って知ることは(すくなくとも今の世では)不可能です。それでは、神を知ろうとする試みには何の意味もないのでしょうか?そうではありません。確かに絶対確実な知識を持つことは不可能だとしても、たえず自己の認識を批判的に吟味していくことによって、ちょうど数学における漸近線のように、真理に到達することはできなくても、それに近づいていくことはできるのです。私たちはそのことを謙虚に認め、他者から学びつつ、成長していく必要があります(このことについては以前書いたこの記事をご覧ください)。

確実性追求型信仰の落とし穴は、このように真理に向かって成長していくプロセスを無視して一足飛びに真理を手にしようとするために、自分が現在手にしている知識の体系(それは往々にして、最初に信仰を持った教会で教えこまれた教理であることが多いのですが)を絶対視してしまい、それを死守することが信仰であると思ってしまうところにあります。ボイドの提唱する信仰モデルでは、信仰者はより柔軟で謙遜な歩みをすることが可能になります。そしてそのような信仰の歩みにあっては、疑いや迷い、考えを改めることは決して避けるべきことではなく、むしろ成長のために必要なものであることが分かります。

しかし、確実性追求型信仰の問題は、それがポストモダンの現代社会では「うまく機能しない」ということだけではありません。ボイドが指摘する最大の問題は、本シリーズのタイトルにもあるように、確実性追求型信仰では「確かさ」ということが偶像、すなわち信仰者にとってのいのちの源泉となってしまうということだと思います。十字架のイエス・キリストを通してご自身を啓示された愛なる神との人格的関係からではなく、自分の信条に対する心理的な確実性の感覚(それが知的な神学的体系によるものであれ、何らかの宗教的体験によるものであれ)からいのちを得ようとする試みは失敗に終わります。なぜなら、そのような信仰者にとっては、自分のアイデンティティや存在価値や安心感は、いかに確実な真理の体系を把握・所有しているかどうかにかかっているからです。したがって、自分の信じているシステムが何らかの知的議論や人生の体験によって脅かされるなら、たちまちそのようなアイデンティティや存在価値や安心感は失われてしまいます(だからこそ、そのようなタイプの信仰者は自分の持っている確実性の感覚が脅かされないようにあらゆる手を尽くします)。言い換えれば、確実性という偶像はいのちを与えることができないのです。

ブログではあまり紹介できませんでしたが、本書ではボイドの個人的な信仰の歩みについてもかなりの紙数が費やされています。彼の祈りの生活など、興味深い内容が多いですが、中には普通なら他人に明かしたくないような失敗や罪についても赤裸々に綴られています。それは本書の神学的な内容を身近なものにするだけでなく、彼が自分の信仰を生きている証しとして貴重なものであると思います。ボイドは自分の弱さをさらけ出し、信仰の歩みの紆余曲折について語り、もっとも驚くべきことには、自分が本書で主張していることがらですら、絶対的な確信があるわけではないことを認めるのです(そしてそれは、確かに本書の中心的主張と首尾一貫した態度です)。彼がそのようにできるのは、いのちの源を自らの「信仰の強固さ」や「神学の正しさ」にではなく、イエス・キリストにおいてご自身を啓示した神との人格的関係に置いているからこそと思えるのです。

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長きにわたって連載してきたこのシリーズも、今回が最終回です。このシリーズを通して、これまで日本でほとんど知られていなかったボイド神学の一端を紹介することができたと思います。連載中から、何人もの方々からフィードバックをいただき、彼の神学に対する関心が広まりつつあることを実感しています。重要なことはボイド師の主張すべてを無批判に受け入れることではなく(それはまさに、彼が本書を通じて主張してきた信仰のあり方に反することです)、彼の問題意識を受けとめ、私たちの信仰や生活のあり方に関わってくる部分があれば、それを批判的かつ創造的に取り入れていくことだと思います。グレッグ・ボイドの神学については、今後も折に触れて紹介していきたいと思います。

(完)