要約すると

1962年のこと、カール・バルトはシカゴ大学のロックフェラー・チャペルで講演をしていました。講演後の質疑応答の時間に、一人の学生が、「先生のこれまでの神学的業績のすべてを一文に要約すると、どのようになりますか?」と訊ねました。

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カール・バルト

この質問に対して、この20世紀最大の神学者は、次の有名な子どもの讃美歌の一節をもって答えたと言われています。

Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so.
(私は知っている。イエス様に愛されていることを。なぜって、聖書にそう書いてあるから。)

簡潔にしてポイントをおさえた、実に素晴らしい要約だと思います。バルトが本当にそのようなことを言ったのかどうか、定かではありませんが、神学者ロジャー・オルソンによると、かなり信憑性は高いようです。彼のブログ(こちらこちら)によると、バルトは1962年のアメリカ講演旅行の中で複数回、このような発言をしたとされています。たとえこれが一種の都市伝説であり、バルト本人の言葉ではなかったとしても、たいへん含蓄のある、味わい深い内容であることに変わりはありません。

聖書が私たちに語りかけているメッセージの中心は、すべての人に注がれるイエス・キリストの愛である――これはバルト一人の神学のみならず、すべての正統的キリスト教神学のエッセンスを凝縮したものといえるでしょう。

この讃美歌の上に引用した一節が神学の要約なら、それに続く次の部分は、クリスチャンの信仰の歩みを要約していると言えるかもしれません。

Little ones to Him belong; they are weak but He is strong.
(小さき者らは主のもの。彼らは弱くても、主は強いお方。)

ここでいうlittle onesとは、単に子どもを指しているのではないと思います。私たちはいくつになっても神の前には小さき者であり、足りない者、弱い者です。けれどもそのような私たちが唯一誇ることができるのは、自分がイエス・キリストに属する存在だということです。このことを自分のアイデンティティとして持つことができるならば、恐れることがありません。なぜなら、たとえ私たちが弱くても(事実その通りですが)、私たちとともにおられる主は強いお方だからです。

聖書の中心はイエス・キリストであり、全聖書はキリストを通して表された神の愛を指し示し、それを証しするものです。その愛はすべての人にわけ隔てなく注がれています。私たちは恵みによって救われ、恵みによって日々導かれている存在です。どれほど神学の研鑽を積み、どれほど信仰の深みを体験したとしても、この中心点から目をそらすことのないように、心していきたいと思わされています。

Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me.
Yes, Jesus loves me. The Bible tells me so.

 

 

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

藤本満先生によるゲスト投稿、第3回をお届けします。

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聖書信仰』(キンドル版)

前置き(あらためて)

あの本を著して以来、私は「包括的福音主義」者と呼ばれているらしいのです。そのカテゴリーに入れていただけることに何ら不満はありません。私は神学が信仰信条という枠にはめられたものではなく、モザイク的でよいと主張しています。また、批評学やポスト近代による近代主義批判に耳を傾けようという姿勢を表明しています。ただ、私が提示したかった趣旨は、少し観点が違います。

私は、「聖書信仰」を神学的に論じる場合、改革派・長老派系の論ばかりに偏っていると感じてきました。もちろん、聖書信仰の巨人にプリンストン(当時は厳格な改革派神学)のウォーフィールドのような人物がいましたので、神学的にはそちらの論が中心に展開されて当然と言えば、当然だったのです。日本で聖書信仰を神学的に論じてきたのは、岡田稔、また戦後に訳されたパッカーと、いずれもウォーフィールドに傾倒していきました。

しかし、ここであらためて救済論的な視点で論じる聖書信仰の復権を、拙著は掲げました。その意図は、これまでの聖書信仰の中心をそのままにして枠の範囲を外へと広げるというよりは、何も中心点はそこ(ウォーフィールド型)だけではなかったのではないか、という主張です。そこで、聖書信仰に「第二の視点」の導入を試みました。

少し言い換えてみましょう。福音派は、「聖書は誤りなき神の言葉」という命題で括るのが一般的です。この命題はさらに二つのタイプに分かれます。第一のタイプは、17世紀のウェストミンスター信仰告白のように、「誤りなき」という範囲を救いと信仰生活の領域を想定します(無謬論)。もう一つのタイプは、19世紀後半のプリンストン神学や20世紀後半のシカゴ宣言のように、聖書に記されているすべての事柄に誤りがないとして、その範囲を科学や歴史にまで広げます(無誤論)。

「誤りなき」という定義づけで、どちらを選ぶか?と問われれば、私は前者を選びます。それは後者の方は、リベラリズムと同じ土俵でリベラリズムを批判することで、かえって聖書の本質を見失っていると思うからです(拙著17章B「聖書はモダンの客観性を超える」)。

しかし拙著は、上記二つの選択枝とは異なる次元での「聖書信仰」を提示しました。それが、敬虔主義や信仰復興運動に見られた、聖霊が御言葉を用いて神の力を働かせ、人の罪深さを確信させ、神の愛を心に注ぎ、神の平安を与える、聖書はいわば「実効力を持った救いの導管」です。言うなれば、伝道的・救済論的な聖書信仰です。

この次元での聖書信仰は、神学的考察を欠いた「一般の信仰者レベル」の聖書「感」とみなされてきました。しかし、決してそうではありません。「導管」(means, channel)という用語は、英国教会の中で脈々と息づいてきました。そして神の言葉・聖書は神の創造・贖い・新創造の導管であるという表現を、最近ではリチャード・ボウカムやトム・ライトが頻繁に用いています。

私は、この次元における聖書信仰を「あえて」ウォーフィールド型と区別して論じました。しかし、本当はそれを別物として区別する必要はないのでしょう。それを一つのことと論じれば(拙著18章A「神の口と神の手」)、それは聖書信仰の豊かさをさらに掘り下げることになるのではないかと思うからです。

私が山﨑ランサム先生のブログへ寄稿させていただきましたのは、もちろん、先生からのお招きがあったからです。加えて申し上げるなら、先生が拙著を読んでくださったときに、上述の意図を明確にくみ取ってくださったからです。

 

聖書信仰(3)言葉の限界・言葉の力

近代主義は、世界の客観性とそれを認識する理性、さらに理性の道具である言語、という大前提の上に成り立ってきました。世界には客観的秩序があり、個々人にはそれを把握する力、すなわち理性が備わっている。その理性の道具の筆頭が言語です。

客観的世界が正しく理解されれば、それは真理と呼ばれます。そうしてとらえられた真理は命題的に定義され、さらに種々の命題は論理的に組み合わされて一つの体系を構築するようになります。ですから、17世紀プロテスタント正統主義にあっても、プリンストン神学や、それ以降の米国福音派にあっても、聖書信仰が最終的に到達しようとする先は、しっかりとした組織神学でした。

このような近代主義に対する批判は、拙著でも取り上げましたが、山﨑ランサム先生のブログに掲載されている「確かさという名の偶像」の連載を読んでいただければ、よくわかります。

近代主義に染まった聖書信仰を、たとえば、福音派のバーナード・ラムは次のように批判します。「命題的啓示を強調する昨今の福音主義の強調が、実のところヘーゲルの純粋概念言語の一つの表れにすぎないとは驚くべきことである」(拙著9章B)。神が無限であるとしたら、有限である人間がその言語をもって無限なる神をとらえることはできない、と考えるのが普通ではないか、とラムは述べています。あるいは戦後日本の聖書信仰を率いてきた村瀬俊夫先生も、こう述べています。「十全に霊感された言語とは、どういう言語なのか。考えられるのは『絶対的な意味をもつ、不可謬である言語』という概念である。しかし、そんな概念の言語を歴史的次元における文化的現象の中に求めるのは、〔すべて歴史的なものは相対的であることを免れないのであるから〕不可能である」(拙著12章C)。

これらはいずれも近代主義に染まった逐語霊感説への批判です。言語はそこまで普遍的な役割をになうことができるのでしょうか? ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という表現を使って、それぞれの世界を体験する感じ方・とらえ方・表現法は、同じであるはずはなく、一つの世界の言語をもってして普遍性を主張することはできないことを主張しました。言語は社会性を帯びています。それはすなわち言葉の個別性であり限界性です。

スイスのソシュールは、人は言葉によって単に客観的な事実や実在世界を写し取って把握するだけでなく、言葉の世界を編むことによって社会や文化を創り上げると述べました。そして、人が現実を把握し、編み上げているのは、純粋理性を助ける普遍言語によってではなく、特定の時代・世界における、その時代・世界に固有な言語によります。ですから、この時代・世界に生きるとき、私たちの存在のあり方も出来事の経験の仕方も、またそれを解釈する方法も、決して普遍的なものではありません。

しかし、この言語の持つ制限に着目したからと言って、聖書のテキストに神秘性・聖性は失われたと結論する必要はありません。以下に3つの主張を挙げておきます。

①たとえば、福音派の言語霊感説とはおおよそ立場を異にするポール・リクール(フランスの哲学者、人生の後半でシカゴ大学神学部教授)でさえ、次のように述べます。リクールは、キリスト教は聖書が書かれたヘブル語、アラム語、ギリシャ語という言語に特権を与えることをせず、他の言語に自由に翻訳し、それがあらゆる文化言語で読まれることを期待してきたことに注目します。つまり、聖書の聖性がテキストそのものにあるのではないと考えるからこそ、翻訳が可能であり、そこには批評的精神も許されてきた。これが聖書とコーランの決定的な違いだと言います。(コーランはムハンマドがアッラーから受けた啓示を一言一句書き留めたものですから、翻訳は許されません。アラビア語こそが神聖な言語であり、そこに直接的な啓示があるからです。)

しかしリクールは、それでもユダヤ教もキリスト教も、聖書のテキストに独特な聖性を与えてきたことを信じます。聖書が神の言葉であるのは、聖書の「テキストの世界」がテキストの前方(テキストによって繰り広げられる世界)に「読者の世界」を引き込む神性な力を有しているからだとリクールは言います。読者がテキストを受け入れるとき、テキスト世界と読者の世界が交わり、読者を変容させる力が働くというのです。それは、寄稿2で取り上げた聖霊が御言葉を用いるからです。

②さらに、言語の歴史性・文化性という制約を大胆に乗り越えるバルトの発言も紹介してみます。教義学的方法ではなく、歴史的方法を自覚に取り入れてキリスト教を解釈しようとしたトレルチという人物がいます。彼は、全人類の唯一の中心点を、歴史のただ一点(キリストの出来事)に見ることは、「古代の、あるいは中世の、牧歌的な小規模で狭い世界像」に過ぎず、そこからキリスト教の絶対性はおおよそ証明できないと結論しました。

しかし、これに対してバルトは次のように応えます。キリスト教は、その絶対性を証明できなくても、その「真理性」を堅持することができ、そして真理性は絶対性を凌駕する、と。キリスト教の真理の物語は、著しい浸透性・拡散性をもっていて、たとえ真理がからし種のように小さく見えても、歴史の中で大きな枝をはることができるのである、と。私はなんとも胸のすく答えだと思います。つまり言語の普遍性を歴史的文脈による制限・制約にゆずったとしても、その真理性まで消し去る必要はないのです。

③あるいはマクグラスは次のように主張します。きわめて限定的な(狭い)、妥協のないキリスト論的スタンスこそが、福音主義の伝統である。かつてリベラリズムが普遍的理性・普遍的経験を支えにキリスト教信仰の真理性を説明しようとしたのとは違い、また聖書を普遍的土台としてキリスト教信仰の真理性を弁証しようとしたモダンな福音主義とも違い、聖書が証しするキリストと福音こそが、きわめて限定的であっても、それは普遍的インパクトをもっている。そのことを常に説いてきたのが福音主義ではないか、と(すべて拙著14章D)。私はこれもまた爽快な答えだと思います。確かに私たちは世界の片隅にあって、キリスト教言語がおおよそ通用しない日本で、聖書の語る真理性を堂々と主張してきました。聖霊は、このユダヤ的な概念さえも用いて、人の心を打つ、と信じてきました。

①~③のどの主張も、近代主義に基づいた理性の普遍性と言語の客観性に固執しなくても、そして言語学の一般的な理解を受け止めたとしても、それによって聖書信仰が崩れるわけではない、という主張を支えていると私は考えています。

日本に育ち、日本語しか話さない私であれば、日本語でしか物事を考えられないし、日本語にない概念については語ることができません。ですから、聖書信仰に立つ聖書学者は、様々なツールを駆使して古代の世界に入り込み、当時の状況の中で言葉を釈義し、現代の私たちにも理解できるような方法で聖書を翻訳し、その言葉の意味を教えてくれているのではないでしょうか。そして前回の寄稿で聖霊の働きに言及したように、聖霊は、過去の記者と現在の読者との橋を架け、聖書の言葉を現代の私たちに生き生きとした神の言葉として響かせるのではないでしょうか。

 

ポスト近代主義から学ぶことができるのは、言語の限界性だけではありません。その力強い可能性も教えてくれます。注目したいのは、「言語行為」(スピーチ・アクト)という考え方です。言葉を発するときに、発言者はその言葉の出来事の中に入るという「言語行為」の理論は、イギリスのJ・オースティンやアメリカのJ・サールによって明らかにされ、真理や歴史事実の記述言語としての聖書の考え方を大きく変えてきました。聖書の言葉を聖霊が用いて今日に力を及ぼすだけでなく、言葉そのものに現在的な発言者の力も含まれているという考え方です。「光あれ」「これはわたしのからだです」という言葉は、単なる記述言表ではなく、発言した者がそれを実現する力のある言葉である。

先のリクールが聖書観にこの考え方を導入しました。福音派のヴァンフーザーも特にこの考え方を取り入れて聖書信仰を論じていますので、それをここで紹介しておきます(詳しくは拙著18章)。

ヴァンフーザーは「聖書即啓示」、「聖書=神の命題」という考え方が、きわめて近代主義に染まった聖書観であると批判しつつも、啓示の「言葉」性にこだわります。神が絶対的な超越者であるとしても、その神が人格的存在であるとしたら、人に対して何かを行うだけでなく、人と出会い、人に語りかけ、人格と人格をめぐるコミュニケーションを取ろうとされることに何ら不思議はない、と。その主要な手段が言葉です。偶像が言葉を発することができないのであれば、真の神である第一の証しが、その言葉にあるといっても過言ではありません。

言葉のコミュニケーションを考えつつ、ヴァンフーザーは「言語行為論」に立って、コミュニケーションにおける言葉の「実効力」を論じます。人が人に対して言葉を発するとき、それは言葉だけのことではなく、言葉の意味するところが行動となる、いわゆる言葉の後を追いかけて行動が伴うというのです。ですから、人は言葉によって人と出会い、言葉のコミュニケーションによってつながれていきます。神が人と出会われるとき、神は人のために語られます。神が、何かを命じ、警告し、約束し、赦す言葉を発せられると、その言葉はむなしく神へと戻ることはありません。神は発せられた言葉に真実であり、スピーチとそれに基づくアクトを通して、人は神がいかなる方であるかを体験します。また神が語りかけるとき、それは過去や将来についての叙述に限りません。問いかけ、警告、約束、祈り、賛美、物語、手紙等、様々なジャンルを用いて、神は私たちに「実効力」の伴う言葉をもって語りかけるというのです。

ヴァンフーザーは、言語行為として神の言葉を考えるとき、もはや「聖書は神の言葉である」あるいは「聖書は神の言葉となる」という区別は意味をなさないと言います。そもそも言葉をコミュニケーションと考えるならば、聞き手の応答はコミュニケーション成立のために必須です。聖書それ自体が神の言葉であるとしても、聞き手がそれに応答しない限り、神の言葉としての有効性はありません。聖霊の働きによって、神の言葉が聞き手・読み手に受け止められてはじめて、コミュニケーションが成り立ち、神の言葉が成立していることになります。その両方を含めない限り、人格と人格が交わるコミュニケーションとしての言葉は成立していません。言葉の真髄は、真理の言表にあるのではなく、コミュニケーションの「力」にあります。

だからこそ、神の言葉は、その目的とするところを達成します。この目的とは、最終的に何でしょうか。ヴァンフーザーは、それが神の言葉の具現化(embodiment)であると考えます。神の言葉は、契約の民の生涯・言葉・行動において今日的意味をもって新たに繰り返し具現化されていきます。「神は、聖書の中の律法・知恵書・詩歌・黙示・預言・物語とあらゆるジャンルにある言葉によってキリスト者の存在を形づくっていく。つまり聖書は、キリストにあって神がなされたことの現実を神の民の生の中に具現化していくために『神が定められた手段』(ordained means)である」と。

私が冒頭に記した「前書き」の課題を、ヴァンフーザーは現代の言語論を取り入れた神学理解をもって見事に、繊細に論述しています。しかも彼が、ウォーフィールドの引用をもって、自身の主張を締めくくっているところに、さらに奥へと歩を進めることができる「聖書信仰のあり方」を示しているよう思います。

「聖書は……啓示の一記録たるにとどまらず、それ自身神の贖罪的啓示の一部である。すなわち、神が世を救いつつある贖罪的行為の記録としてだけではなく、それ自身これらの贖罪的行為の一つとして、神の国樹立・建設という大事業にそれ自らの果すべき役割を持つものとして、考えられている。」(『聖書の霊感と権威』、一六〇頁)

 

*次回は、物語論についてお話します。

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(2)

前回の記事では、U2のボノの発言にこと寄せて、「詩篇はブルースである」ということについて書きました。今回は同じテーマを、聖書学の観点からもう少し掘り下げてみたいと思います。

米国の旧約聖書学者ウォルター・ブルッゲマンはその著書Spirituality of the Psalms (『詩篇の霊性』)の中で、詩篇を三つの類型に分けています。第一は定位の詩篇psalms of orientation、第二は混迷の詩篇psalms of disorientation、第三は新しい定位の詩篇psalms of new orientationです。

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ウォルター・ブルッゲマン(Image via Flickr

定位の詩篇は神に対する揺るがぬ信頼に裏付けられた、幸福な状態を歌った詩篇です。信仰者は自らの生に満足しており、感謝と自信にあふれ、疑いや恐れはありません。世界は秩序だっており、神の善と信実を反映しています。たとえば詩篇8篇133篇などはこのカテゴリーに属します。

しかし、現実はいつもこのような定位の詩篇に歌われているようなものばかりではありません。むしろ、理想を裏切るような厳しい現実が人生や社会を支配していることが多いのです。ブルッゲマンは混迷を極める現実の中で、信仰をもって定位の歌をうたうことの意義を一定程度認めますが、しかしそのような行為は部分的にしか正当化されないと論じます。

すくなくとも明らかなのは、生の現実を前にして「ハッピーな歌」をうたい続ける教会は、聖書自体が行っていることとはとても違うことをしているということである。抗議の詩篇が宗教的な場で用いられることがほとんどなかったのは、否定的なことがらを認め、受け入れるのは信仰ではない、と私たちが信じてきたからだと思う。私たちは、否定的なことがらを認めるのは不信仰な行為だと考えた――まるでそのようなことを口にすること自体、神が「コントロールを失っている」ことを認めてしまうことであるかのように。(p. 26)

このような状況で歌われるのが、混迷の詩篇です。その典型的なものは詩篇88篇でしょう。ほとんどの嘆きの詩篇は最後には肯定的な調子で終わりますが、この詩篇では最後まで希望が見えないかのようです。これはまさに「古代イスラエルのブルース」と言ってもよいでしょう。

主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
(詩篇88篇14-18節)

ブルッゲマンは、このような詩篇を用いることができるためには、私たちの信仰がつくり変えられる必要があるといいます。つまり、私たちの神の概念が変えられる必要があるのです。私たちが信じるべき神は、人生の暗闇や弱さの中に臨在してくださり、注意を向けてくださり、関わってくださるような神、私たちの悲しみを知っておられる神なのです。

これらの詩篇で前提とされ、また呼びかけられている神は「悲しみの」神であり、「苦悩を知っておられる」神である。この神について語るには、不変性immutabilityよりは誠実さfidelityというカテゴリーがふさわしい。そして誠実さが不変性に取って代わる時、神の主権についての私たちの概念も深く変えられていく。このような混迷の詩篇は、変化を被ることのない神という概念とは根本的に矛盾するものである。(p. 27-28)

ブルッゲマンによると、混迷の詩篇によって私たちの神観だけでなく、人生観も変化していきます。今や人生は巡礼の旅として捉えられ、そのプロセスの中で私たちが通って行く暗闇は、人間であることの正常な一部であると考えられるようになります。なぜなら、そのような死ととなりあわせの場所においてこそ、新しいいのちが神から与えられるからです。

ブルッゲマンは、この種の詩篇は教会ではあまり人気がないことを承知しています。なぜなら、混迷の詩篇は人生の現実を私たちの目の前につきつけるものだからです。近代の宗教は、十分な力と知識があれば世界を管理・制御できるし、そのようにして恐れを飼い馴らし、暗闇を根絶できると考えてきました。しかし、私たちの偽らざる経験は、個人であれ社会であれ、暗闇は頑として消え去ろうとしないことを示しています。しかし、ブルッゲマンは詩篇に込められたイスラエルの驚くべき信仰に目を留めます。

イスラエルについて注目すべきは、その宗教活動から暗闇を排除したり、それを否定したりすることがなかったということである。それは暗闇を新しいいのちの本質的要素として受け入れた。実際のところ、新しいいのちが根付くのは、暗闇以外にはないということを、イスラエルは知っていたように思われる。(p. 29)

ブルッゲマンはここからさらに進んで、新しい定位の詩篇についても述べています。これは、上で述べたような暗闇を通り抜けた後、神の恵みと新しいいのちを経験した者たちが到達する、新しい信仰の境地について歌った詩篇です。しかし、私たちは詩篇の中でも最も顧みられることの少ない混迷の詩篇について、立ち止まって考える必要があるのではないかと思います。

ブルッゲマンは、このような定位→混迷→新しい定位という運動は、新約聖書、特にイエス・キリストのうちにも見ることができると言い、ピリピ2章5-11節を例に挙げています。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが(定位)、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり(混迷)、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ(新しい定位)すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

私たちの信仰と神学にとって、いわゆるキリストの謙卑が持っている重要性については論を待たないでしょう。キリストはローマ帝国支配下の貧しいユダヤ人としてこの世に生まれ、「悲しみの人で、病を知って」おられました(イザヤ53章3節参照)。そして最後には十字架につけられて悲惨な死を味わわれました。イエスはユダヤの民衆とともに嘆きの詩篇を幾度となく歌われたことと思います。それはまさに神が混迷のさ中にある私たちに寄り添ってくださったできごとでした。そして、そのような暗闇の中でこそ、私たちは神の恵みといのちを体験することができるのです。

ブルースを歌うことを許さない社会は心の貧しい社会と言えるでしょう。同様に、嘆きの詩篇、混迷の詩篇を読み、歌うことをしない教会も、聖書的な信仰について、この世界の現実について、そして神ご自身について、大切な部分を見落としているのではないでしょうか。

(続く)

 

 

平和の君(2)

その1

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

前回はエペソ書におけるパウロの議論から、王なるキリストが教会と世界に平和をもたらす方であることを見ました。

ところで、この箇所でパウロは、キリストはこの平和の福音を遠くの人(異邦人)にも、近くの人(ユダヤ人)にも宣べ伝えられた、と述べています(17節)。「平和を宣べ伝える」というと、現代の私たちは何かプラカードを掲げて行進する平和運動の活動家のような存在を想像するかもしれませんが、新約聖書が書かれたローマ時代には、平和をもたらし、平和を宣べ伝えるのは、世界の主である支配者のすることだったのです。

「ローマの平和」とキリストの平和

新約聖書が書かれた当時、ローマは地中海世界を支配し、それらの地域においては空前の平和と繁栄の時代が訪れていました。これを「ローマの平和 Pax Romana」といいます。ローマ帝国は、ローマの支配によって世界に平和が訪れた、と主張しました。特に初代皇帝のアウグストゥスは、ローマの内戦を終わらせて世界に平和をもたらした存在として称賛され、時には神として崇拝されました。「平和 Pax」はローマ帝国の重要な価値概念の一つでした。パクスはまた平和の女神でもあり、アウグストゥスが皇帝になる前に鋳造したコインにもパクスの姿が描かれています。アウグストゥスは前9年、ローマに平和の祭壇Ara Pacisを築きました。しかし、アウグストゥスはまた、「平和は勝利を通してもたらされる」とも言いました。ローマの平和と繁栄は強力な軍隊による広大な地域の征服を前提としていたのです。

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平和の女神Pax(右)をあしらったコイン
(Image by Classical Numismatic Group, Inc.  via Wikimedia Commons

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平和の祭壇
(Image by  Manfred Heyde via Wikimedia Commons

つまり、パウロがエペソ書を書いた当時のローマ市民は、「平和」と言えばローマの平和、ローマ皇帝が力によってもたらした平和、と考えていたのです。けれどもパウロは、真の平和は皇帝ではなくイエス・キリストによって与えられると言うのです。つまりパウロは、ローマ皇帝ではなくイエス・キリストこそが世界の主であると言っているのです。

ローマの平和と同じく、キリストによる平和もまた、戦いによって勝ち取られる平和です。しかし、その戦いの性格はローマ皇帝のものとは全く異なっています。キリストは天にあって神に敵対する霊的勢力に勝利されました(エペソ1章20-22節)。その勝利のモニュメントとして神が地上に建設しているのが、平和の祭壇ならぬ神の宮としての教会です(2章20-22節)。そして教会は地においてその戦いを継続する存在です(6章10-20節)。(エペソ書における霊的戦いについては過去記事「エペソ書とキリストの戦い」をご覧ください。)そして、キリストの勝利はローマ皇帝がしたような暴力的な軍事力とはまったく正反対の方法によって勝ち取られました。この「平和の君」はローマの支配下にあったユダヤの寒村に貧しい幼子として生まれ、まさにローマの暴力的支配の象徴である十字架につけられて殺されることになります。けれども神はこのキリストをよみがえらせ、すべての敵よりも高く挙げられました。

キリストの平和を宣べ伝える

さて、エペソ2章17節に戻りますと、キリストは遠くの者にも近くの者にも平和を宣べ伝えられた、とあります。しかし、「キリストが平和を宣べ伝えられた」とは何を意味しているのでしょうか?上にも述べたように、平和を宣べ伝えるというのは、世界の支配者のすることでした。しかし、ローマ皇帝自身が実際に帝国中をくまなく行きめぐって平和を宣べ伝えるわけではありません。実際に平和の知らせを宣べ伝えたのは、彼の臣下たちだったのです。パウロはこの節で「遠くにいたあなたがたに平和を宣べ」と書いていますが、本書の読者である小アジアの異邦人たちに実際に平和の福音を宣べ伝えたのは、パウロ自身でした(使徒18章19節、19章1節以下)。つまり、王であるキリストご自身は天の父なる神の右に着座しており、地上ではそのしもべである使徒たちが地上においてキリストの平和を宣べ伝えているのです。あるいは、キリストの霊である聖霊が使徒たちを満たしていたということから、キリストご自身が平和を宣べ伝えた、と理解することもできるでしょう。

いずれにしても、王なるキリストが実現した平和を宣べ伝えるのは、クリスチャンの務めであることは明らかです。新約聖書ではこのことをさまざまな箇所に見ることができます。すでに公生涯においてイエスは弟子たちを「平和をつくり出す人たち」と呼び(マタイ5章9節)、弟子たちは遣わされた先の家で「平和がこの家にあるように」と告げるように命じられました(ルカ10章5節。ここのギリシア語エイレーネーは多くの日本語訳聖書では「平安」と訳されていますが、個人的には「平和」と訳す方がよいと思います)。パウロが手紙の冒頭の挨拶として好んで用いた表現は、父なる神とイエス・キリストから「恵みと平和(平安)があるように」というものでした。さらに、パウロはエペソ6章の神の武具の箇所で、クリスチャンたちに「平和の福音の備え」を足にはきなさいと命じています(15節)。ちょうどローマ皇帝のもたらした平和を、ローマの役人や兵士たちがその領土の隅々にまで告げ知らせたように、キリストのしもべであり兵士でもあるクリスチャンは、キリストの平和を地の果てにまで宣べ伝える存在です。そしてそのことは、私たちがイエスの十字架に従って生きる時になされていくのだと思います。

クリスマスは、「平和の君」として来られたイエス・キリストの降誕をお祝いする時です。それは同時に、キリストの到来によってもたらされた平和を宣べ伝える教会の務めを改めて思い起こす時でもあると思います。

平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ ほめたたえよ
(讃美歌112番「もろびとこぞりて」)

平和の君(1)

ルカの福音書によると、イエスが誕生した夜、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、救い主の誕生を告げました。その時天の軍勢が現れてこう歌ったと記されています。

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章14節)

天使はそれに先だって、羊飼いたちにこう語っています。

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(11節)

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ダビデの町に救い主(キリスト=メシア)が生まれたというこのメッセージは、この時に誕生した幼子は王であるということを示しています。ルカが世界の王としてのイエスの誕生を、ローマ皇帝との対比の中で描いているということについては、過去記事「本当は政治的なクリスマス物語」で述べました。

さて、天使の合唱は、王なるキリストの誕生を「地に平和がもたらされる」という概念と結びつけて歌っています。王が支配するということは、地に平和をもたらすことにほかならないのです。このことは、次のイザヤ書の預言を思い起こさせます。

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもって
これを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
(イザヤ9章6-7節)

イエスはまさに、旧約聖書が約束していた「平和の君」としてお生まれになったのです。

 

旧約聖書における平和(シャローム)

「平和」という言葉はヘブル語では「シャローム」といいます。「平和」というと世の中に戦争や争いのない状態、という政治的・社会的な概念をまず思い浮かべるかもしれませんが、聖書的なシャロームはもっと広い概念であり、「完全性、健康、安全、繁栄、幸福、救い」といった様々な概念を含む言葉です。それは個人の状態を表すことも、人と人の関係、また人と神の関係を表すこともあります。要するに「シャローム」とは、人間や社会が理想的な幸福な状態にあることを描いていると言えます。イザヤ書ではバビロン捕囚からの解放という「良い知らせ(福音)」は、神が王となられたというできごとと、その結果もたらされる平和(シャローム)との関係で語られています。

よきおとずれを伝え平和を告げ
よきおとずれを伝え、救を告げ、
シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と
言う者の足は山の上にあって、
なんと麗しいことだろう。
(イザヤ52章7節)

旧約聖書では、終わりの日に訪れる神の最終的な救い、つまり神の国の訪れが「シャローム」という言葉で描かれています。そして、この最終的なシャロームをもたらすのがメシヤと呼ばれる存在でした。上で見たイザヤ書にあるように、この来るべきメシヤは「平和の君」と呼ばれます。またこの王は平和を告げ知らせる存在として描かれます。

シオンの娘よ、大いに喜べ、
エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る
彼は義なる者であって勝利を得、
柔和であって、ろばに乗る。
すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
わたしはエフライムから戦車を断ち、
エルサレムから軍馬を断つ。
また、いくさ弓も断たれる。
彼は国々の民に平和を告げ
その政治は海から海に及び、
大川から地の果にまで及ぶ。
(ゼカリヤ9章9-10節)

 

キリストによる平和

この約束を成就したのが、イエス・キリストです。パウロは「キリストはわたしたちの平和」であると述べています。

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

エペソ書の中心的主題は「教会」です。パウロは2章で、以前は敵対していたユダヤ人と異邦人がどのように十字架によって一つとされたか、ということについて語ります。キリストは二つのグループの間にあった隔ての壁を打ちこわし(14節)、敵意を廃棄されました(15節)。パウロはこの敵意とは律法であるといいます。律法は二重の敵意、二重の壁を生み出します。一方ではユダヤ人と異邦人を分断し(なぜなら律法はユダヤ人にしか与えられていないから)、他方では人類と神との間の断絶を作り出すのです(なぜなら、ユダヤ人も異邦人も、律法に適う生き方をすることができないから)。

けれどもキリストはユダヤ人と異邦人の間、また人類と神の間にある二重の壁を打ち壊されました。キリストにあって、ユダヤ人と異邦人は和解して一つの神の民となることができるのです。それをパウロは「ひとりの新しい人」(15節)と呼びます。それはただ単にユダヤ人と異邦人が仲良くするということではありません。またユダヤ人が異邦人のようになることでも、その逆でもありません。キリストにある者は、ユダヤ人も異邦人も超越した新しいアイデンティティを獲得するのです。それだけではありません。そのようにして一つとされた神の民は、今度は神ご自身と和解することができるのです(16節)。

このようなパウロにおける「平和」の概念は、キリストが死からよみがえって神の右に着座され、すべてにまさって高く挙げられたお方である(エペソ1章20-22節)、という彼の理解と切り離して考えることはできません。キリストが王として治められるところには、平和があるのです。

(続く)

 

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)

「詩篇はブルースである」

音楽を「キリスト教音楽」と「それ以外の音楽」に分けるのは好きではありません。しかし、あえて「世界でいちばん有名なクリスチャン・バンドは?」と聞かれたら、私なら「U2」と答えるでしょう。ここで「クリスチャン・バンド」とは、「キリスト教信仰に関わる主題や価値観に基づいた歌を歌うバンド」という、非常に広い意味で言っています。U2はいわゆるコンテンポラリー・クリスチャン音楽業界(CCM)の枠にははまらないバンドですし、すべての曲が信仰を題材にしているわけでもありませんが、彼らの歌には信仰に裏打ちされた歌詞を持つものも少なくありません。これらの歌は「クリスチャン・ミュージック」という気負いなしに、信仰者としての葛藤や疑いもストレートに表現しているがゆえに、職業的CCMにありがちな「嘘くささ」や「説教くささ」がなく、逆説的に非常に真実に心に響いてきます。

リードボーカルでバンドのフロントマンでもあるボノはクリスチャンで、その信仰をしばしば公にしていますが、彼は欽定訳聖書の詩篇のために序文を書いたことがあります。その中に「詩篇はブルースである」という言葉があって、深く頷いてしまいました:

12歳の時、僕はダビデのファンだった。彼は身近に感じられた・・・ちょうどポップ・スターが身近に感じられるように。詩篇の言葉は宗教的であると同時に詩的でもあり、彼はスターだった。とてもドラマティックな人物だ。なぜなら、ダビデは預言を成就してイスラエルの王となる前に、ひどい目にあわなければならなかったのだから。彼は亡命を強いられ、国境地帯の誰も知らないような町にある洞窟の中で、エゴが崩壊し、神から見捨てられるような危機に直面した。でもこのメロドラマの面白いところは、ダビデが最初の詩篇を作ったと言われているのはこの時だと言われているということだ。それはブルースだった。僕にはたくさんの詩篇がブルースに感じられる。つまり、人が神に叫んでいるということだ―「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。 遠く離れて私をお救いにならないのですか。 」(詩篇22篇)

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ボノ(Image by Phil Romans via Flickr)

嘆きの詩篇

旧約聖書に収められている150の詩篇には、さまざまな種類のものがあります。もちろん神への賛美や感謝なども含まれていますが、その中でもっとも多いのは、実は「嘆きの詩篇」と呼ばれるものです。詩篇の作者はしばしば敵にいのちを狙われ、自分の罪に打ちひしがれ、絶望の淵をさまよい、夜を徹して神に向かって泣き叫びます。時には敵に対する怒りや憎しみをむき出しにした呪いの表現さえ見られます。

わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
(詩篇6篇6-7節)

これはまさに、「古代イスラエルのブルース」と言ってよいでしょう。

興味深いのは、詩篇は古代イスラエルの公の礼拝によって歌い継がれてきた、いわば公式の賛美歌集のようなものだったということです。神の民の公の集まりで、嘆きの歌がしばしば歌われていたということはとても示唆に富んでいます。

嘆きの詩篇は、一見するとまったく「信仰的」「敬虔」には見えません。しかし、そこには信仰者にとって欠くことのできない、非常に大切な要素が見られます。それは真実を語ることです。

私たちの生きているこの地には、悪と苦しみが満ち溢れています。神を信じていても、その現実から逃れられるわけではありません。そのような現実に直面したとき、私たちは苦しみ、嘆き、うめき、泣き叫びます。人や時には神に対する激しい怒りにさいなまれることさえあります。聖書は、そのような私たちの内側に存在するネガティブな感情を否定しません。それどころか、そのような感情をありのままに神の前に注ぎだしていくことをすすめています。嘆きの詩篇はまさにそのような、信仰者の現実を直視した真実の歌ということができるでしょう。

過去記事にも書きましたが、神に対して、自分に対して正直であること、真実であることは、聖書的な信仰の重要な特質です。もちろん聖書は悲惨な現実を超えた救済の希望について語り、またそのような救いを待ち望みつつ、苦しみの中でも神に信頼し続けることの大切さを教えます。実際、嘆きの詩篇には最後には神への信頼と賛美で終わるものが少なくありません。しかし、詩篇の記者は賛美の前に嘆きの歌を歌う必要がどうしてもあったのです。聖書的な信仰とは、いまここに否定しがたく存在する苦しみから目を背けた現実逃避ではありません。

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振り返って、現代のキリスト教会はどうでしょうか?

詩篇に曲をつけて教会で歌われることは多いですが、嘆きの詩篇を歌っている教会はどのくらいあるでしょうか。より伝統的な教派では、詩篇全巻を特定の期間内に朗唱することがありますが、多くの福音主義プロテスタント教会ではそのような習慣は失われてしまっています。ましてや、信仰者の嘆きをテーマにしたオリジナル曲を歌う教会はほとんどないのではないかと思います。もしそうであるなら、教会は嘆きの言語を失ってしまったと言えるのではないでしょうか。

パウロは「泣く者と共に泣きなさい」と言いました(ローマ12章5節)。しかし多くの教会では、泣く者がいると、その人と共に悲しむというプロセスを経ないで、「泣いてはいけない。信仰を持ちなさい。疑ってはいけない。」と一足飛びにポジティブな結論に辿り着こうとすることが多いような気がします。たとえ善意から出ているものにせよ、そこにはともすれば皮相的な信仰に導き、安易な勝利主義を生み出していく危険性があると思います。クリスチャンの信仰にとって重要なのは、嘆きや悲しみをおおい隠し、敬虔そうな顔をして神を賛美することよりも、苦しみのただ中でも、嘆きが賛美へと変えられていく内面の変革を体験することなのではないでしょうか。そのためにはまず、自分の内面にある嘆きの歌を押し殺さないことが大切であると思います。

主よ、いつまでですか?

U2がライブの最後に歌う定番の曲に、「40」という歌があります。この曲はタイトルが示すように、詩篇40篇に基づいています。サビの”How long to sing this song?“(いつまでこの歌を歌わなければならないのですか)というフレーズは実際には詩篇40篇には出てきませんが、ボノはそれを詩篇6篇から取ったそうです。

「Yahweh」(これもいい曲です)と「40」

“How long?”という叫びは、1972年に北アイルランドで起こった「血の日曜日事件」を題材にした初期の代表曲「Sunday Bloody Sunday」でも聞かれます。この曲も「40」も1983年のアルバム「War」に収録されています。

How long
How long must we sing this song
How long, how long

いつまで
いつまで僕たちはこの歌を歌い続けなければならないのか
いったいいつまで?

そしてこの曲は次のように終わります:

The real battle just begun
To claim the victory Jesus won
On
Sunday Bloody Sunday

本当の戦いは始まったばかりだ
この血みどろの日曜日に
イエスが勝ち取った勝利を主張するために

いつまでですか?」という神への叫びには、目の前に厳然として存在する苦しみの現実と、そこから救い出してくださる神への信頼という、複眼的な信仰の視点が見られます。私たちはこの両者のバランスを大切にしなければならないと思います。

ボノは「いつまでこの(嘆きの)歌を歌わなければならないのですか?」と歌います。けれども現代の多くのキリスト教会では、そもそも嘆きの歌を歌いません。それどころか、教会では嘆きや葛藤の思いをそのまま口にすることは「不信仰」として忌避される場合さえあります。

どちらが真実な聖書的信仰を表していると言えるでしょうか?

主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。(詩篇13篇1節)

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2)

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回です。第1回目の投稿はこちらです。

聖書信仰

聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)

聖書信仰(2)
ギャップに架けられた橋2――聖霊

前回、聖書信仰が向き合うべき二つの命題(①聖書が永遠なる神の普遍的言葉である、②それが特定の古代の言語によって記され、歴史的文化的に規定されている)の緊張関係について記しました。二つの現実の緊張関係・ギャップに架ける一つの橋は批評学です。

そして、もう一つの橋があります。福音主義は本来こちらの橋を頻繁に用いてきました。しかし、この橋の使用にたけてはいるはずが、いわゆる聖書の「無誤性」を強く主張する保守的な福音主義においては、第二の橋は、かなり制限されてきました。その第二の架け橋とは、聖霊です。

17世紀のプロテスタント正統主義、それを引き継いだ米国のプリンストン神学(ホッジやウォーフィールド)、さらにそれを継承した米国の保守的な福音主義にあっては、聖霊の働きは聖書が記されるときに記者に働いた「霊感」に集中します。聖霊は記者に書くべき事項を示し、聖霊はそれらの事項を表現する言葉の選択を促し、それらの言葉を書き記させ、聖霊は本文と正典の保護保全に働いた、と。

聖霊の霊感は聖書が記された時点に限定され、後に、聖書を読むときに働く聖霊の力は、「照明」と呼ばれて区別されます。もちろん、「霊感」と「照明」の区別は妥当だと思います。しかし実際には、プリンストン神学が霊感されて神の息吹によって吹き出された聖書の完全性を確立すると、その完全な聖書を実証し、解釈するために登場したのは、聖霊の照明ではなく、理性でした(拙著5章「理性の時代の聖書信仰」)。

「霊感された聖書」は、古代の文化脈を超えた普遍的な真理そのものとなり、そのように信じる者は、現代のいっさいのことを客観的な真理の書物によって判断すべきだと考えます。そこで大切なのは、客観的な真理命題を体系づける神学、言葉を釈義する理性です。その意味で、保守的な福音派は、とても理性的・客観的です。

しかしそのとき、福音主義が最も大切にしてきた、神の言葉によっていまも新らたに生起する神の語りかけ、神と人との交わり(コミュニケーション)という側面は後退します。「霊感された書物」の客観性・普遍性・絶対性を確立すると同時に、聖書の完璧な無誤性に聖書信仰の核を据えているうちに、いつのまにか、「神は御言葉を通して私に語りかける、聖霊は御言葉を通して私を救い、変貌させる」という福音主義の体験的・救済論的真髄は、犠牲になったのではないでしょうか。いや「犠牲」とまでは言わなくても、神との交わりとしての聖書信仰は、たましいの救い、あるいはデボーションの世界のことに限定されてしまったように思います。つまり、昔も今も変わらずに人に語りかけ、人の生を変貌させていく聖霊の働きは、絶対的・客観的真理を確信する「聖書信仰」の陰に隠れてしまった時期があったように思います。

そもそも、聖書はそのような絶対的客観的真理という枠組みで記されていたのでしょうか。英国福音主義の聖書学の確立に尽力したF・F・ブルースは、聖書は単純に客観的に一方的に神の側から伝えられた御旨という啓示理解ではカバーしきれないと言います(拙著、201-203頁)。聖書の歴史的記述の中には民の反応(信仰か不信仰か、服従か不服従か)も記されています。人間側の応答の典型は詩篇です。聖書は必ずしも神が人に語りかけるのではなく、人が神に、あるいは人が人に語りかけている既述もあります。そして、それらがすべて後の読者にも意味があるように記されています。

 

さて、聖霊の働きを、記者の側から読者の側へ、記された過去から読まれる現代へと、圧倒的なシフトをはかったのがカール・バルトです。単純すぎる表現ですが、バルトは、人間的な要素をたくさん含んだ聖書の言葉は、読者が聖霊の感動を受ける今、「神の言葉になる」と説明しました。それは「今」働く聖霊の感動です。

この考え方に保守的な福音主義は反発します。なぜなら、聖霊の働きを「今」にシフトすることによって、過去において霊感された啓示としての言葉の完成度が低められると考えたからです。

しかし、聖霊の働きの「今」へのシフトは、最初に挙げた二つの命題をどちらか一方に解消せず、二者の緊張関係を保ったままで、二者のギャップを埋めるために、強調されるべき架け橋だったに違いありません。米国改革派の福音主義的神学者であるドナルド・ブローシュは、聖書の言葉が「今」聖霊によって用いられるというダイナミックな「言葉と霊」(Word and Spirit)の関係を次のように説明しています。聖書はそれ自体、その本質において啓示であると考えるべきではない。「なぜなら聖書の啓示的本質は、その文字列に内在しているのではなく、聖霊が啓示としての意味と力を言葉に満たすから」である。同様に、聖書の真理性は聖書言語の属性ではなく、それを通して語る聖霊の属性である。聖書の言葉を真理の言説に減じてはならず、御言葉は聖霊によって「生きていて」、御言葉を通して人は神と出会う。聖霊によって、聖書の言葉という器が用いられ、その中身であるキリストに仕えさせるのである(拙著、377-378頁)。

別にバルト神学を持ってこなくても、「聖霊(神)は聖書の言葉を用いて直接に語りかけ、働きかけてくる」とは、聖書信仰がしっかりと握ってきた考え方です。これこそが啓示の書である聖書の「神秘」であると、聖書信仰が考えてきました。たとえば、戦後、関西聖書神学校を設立し、きよめ派の指導者的存在の一人となった澤村五郎は、次のように述べています。御言葉を聞くとき、まず「聖霊の光によって心の真相を照らし出される」、「そうすれば心は全く砕かれて、信じやすい柔らかな心となるので、神のことばは、なるほどそうだと一つ一つ心の底から納得の行くように悟らせられる」。キリストの受肉、降誕、十字架の救い、復活、昇天、永遠の審判と永遠の栄光、これらすべて、「聖霊の啓示によらなければ、人の知恵や悟りでは絶対にわからないことである」。「真理のことばである聖書は、真理の霊である聖霊によってのみ、生ける神のことばとしてわれわれの心に働くのである。」(拙著、115-117頁)

澤村五郎は、バルト神学とは無関係です。しかし同時に、プリンストン神学とも関わりがありません。敬虔な福音主義の聖書信仰にあっては、このように「今」に働く聖霊の感動を抜きに、聖書の「神の言葉」性を語ることはありませんでした。かつて、霊感によって完成された啓示の書物であっても、その言葉を神の言葉として私たちに響かせるのは、同じ聖霊です。数千年も昔に、その時代の歴史的出来事・文化の中で聖書の記者を感動させた聖霊が、同じように今日の歴史的出来事・文化の中で神の声を聞こうとする私たちを感動させてくだる――これもまた、聖書信仰の主要な柱の一つだったのではないでしょうか。

先に触れた英国の聖書学者F・F・ブルースも、聖霊の働きを強調します。とても強い聖霊の今日的干渉がなければ、ユダヤ的背景にあった福音が、見事にその殻を破って異邦的土壌に根づくとはなかったであろう、と。二千年前と同様、福音が現代の世界中の異文化に根づくことを期待するなら、聖霊が全く異なる文化・時代に記された聖書の言葉を通して、今日のあらゆる境遇にある読者に神の声を響かせることを信じるべきだと言います。

聖霊こそが、①聖書の神の言葉としての永遠性・普遍性と、②その言葉が歴史性・文化性を帯びて記され、同じ限界を持つ私たちに今も語りかけることを保証してくれる、架け橋です。本論の最初に挙げた二つの命題の「ギャップ」を意識すればするほど、聖霊の働きの尊さがわかるように思います。

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その1)

先日の記事で藤本満先生の近著『聖書信仰』をご紹介させていただきましたが、このたびご本人にお願いして、数回にわたってゲスト投稿をいただけることになりました。お忙しい中、快く引き受けてくださった先生に心より感謝いたします。

藤本

このブログに寄稿する機会を与えてくださいました、山﨑ランサム和彦先生に心から感謝申し上げます。先生は拙著『聖書信仰――その歴史と可能性』を読んでくださいました。そして、拙著の学術的な色彩をもう少し平易に乗り越えるために、短い文章を書く機会をここで与えてくださいました。ところが、書いてみたのを自分で読んでみると、さらに難しくなったのかと、自分の表現力のなさに落胆します。読んでくださる方々に、神の助けがありますように。(藤本満)

聖書信仰(1)
ギャップに架けられた橋1――批評学

聖書信仰は、二つの対極的命題と向き合います。両者の緊張関係を解消せずに、どのように二つの間のギャップを埋めるか、という課題に必ず直面します。

A)聖書は神の言葉、神の啓示である。(神学・霊的現実)
B)聖書は人間の言語によって記されている。(歴史的現実)

神は時空を超えた世界で抽象的な命題の中にご自身を啓示されたのではなく、具体的な歴史・文化脈の中で、実在した人々と出来事を通して啓示されました。人類に対する神の啓示である以上、聖書は普遍的な真理であると私たちは信じます。ところが、その普遍的な真理が、2千年、3千年以上も前の、しかもおおよそ日本語世界に生きる私たちとはかけ離れた言語で記され、聖書の世界の生活感覚も世界観も、私たちのそれとはかけ離れています。

このギャップを見て見ぬふりをするような聖書信仰だとしたら、「信仰」と呼べるのかもしれませんが、聖書の本質・啓示の本質を無視することになります。旧約聖書は古代オリエントの言語によって記され、その文化や歴史的出来事と切り離すことはできません。新約聖書は、旧約聖書だけでなく古代ギリシャ・ローマの世界を背景にしています。

もし私たちが、「聖書は神の言葉である」という神の言葉の永遠性・普遍性を尊ぶあまりに、その歴史性・文化性を無視したとしたら、果たして神の言葉を真実に受け取っていることになるのでしょうか? 聖書六十六巻の各書にあろう歴史的成立過程を気にもとめず、著者が生きた時代背景や宗教的影響と独自性に目をつぶり、あたかもすべてが一気呵成に永遠なる神という一人の著者によって書き上げられたように主張したとしたら、それは敬虔な努力であっても、本来聖書がもっている緊張関係を解体してしまうことになるでしょう。

では、上述の二つの現実の間にあるギャップに目をつぶることなく、聖書を真実に理解しようとした人々は、どのような方法で二つの緊張関係・ギャップに橋をかけようとしたのでしょう?

●第一は、言うまでもなく批評学です。つまり聖書が記された歴史や背景、また言語や文書構造を学ぶ文献研究です。これは18世紀後半のドイツに始まりました。ところが残念なことに、当時の聖書学は歴史学や哲学に吸い込まれてしまいました。聖書は単純に古代オリエント・古代ギリシャ文書の一つとして研究されるようになります。聖書の持つ正典性・一貫性は解体され、古代の歴史文書と比較検証され、宗教学の貴重な一文献として、大学で研究されるようになります。聖書は教会の手から離れてしまいました。大学、あるいは大学の神学部での聖書学は、教会の神学を嫌い、信仰から切り離して聖書を研究する風潮が浸透していきました。

ようやく1970~80年代頃から、聖書の正典性を強調するアプローチが戻ってきます。ドイツの自由主義神学が、教会の信仰から独立して自立した研究を進めていたつもりが、いつの間にかヘーゲルに代表される当時のドイツの哲学に魂を奪われていたことなども明らかにさます。『聖書を取り戻す――教会における聖書の権威と解釈の危機』C・E・ブラーテン/R・W・ジェンソン編(芳賀力訳、教文館)などは、リベラル系聖書学がリベラル神学と決別して、聖書を、それが本来属している教会へと取り戻そうという、福音主義的な論考です。

かつて聖書信仰は、自由主義神学による聖書の取り扱い方から身を守るために、「批評学には手を染めない」という態度を採ってきました。しかし、近年、そのようなことはありません。批評学の成果を全面的に受け入れないにしても、その作業に一切手をつけず、どこまでも守りの姿勢を貫く、という福音主義の聖書学者は存在しないといっても過言ではないでしょう。

なぜでしょうか? それはまぎれもなく、聖書学者であるならば、いっそう鮮明に聖書が古代の言語によって、そして古代の歴史的出来事や文化の中で記されたことを意識しているからです。つまり、古代と現代とのギャップを意識せざるを得ないからです。聖書信仰に立つ私たちが、批評学の成果をどのように理解し、またどの程度用いるかは別として、英国福音主義が20世紀初頭から主張してきた「信仰的批評学」という考え方(拙著89-94、232-245頁)を聖書信仰の「内側」に取り入れなければならないでしょう。

確かさという名の偶像(25)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20 21 22 23 24

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は「結びのことば:信仰をどう生きるか」を取り上げます。

この最後の章でボイドは、彼自身が信仰と疑いをどのように生きているかについて語ります。たしかに、私たちは信仰の歩みの中で自分が信じていることがらについて深い確信を抱くようなときがあります。それについてボイドは言います。

私はそのような時を大切にはする。しかし、それらを追求することはしない。時として確信を持つことができるなら、それは賜物である。けれども心理的な操作によって確信を持とうと努めることは、決して適切なことでも健全なことでもないと思う。(p. 251)

それでは、確信ではなく疑いを抱いてしまうときにはどうすればよいのでしょうか?

疑いが長引くときには、私はただ一歩下がって、すでに何度も探求した、「なぜ私は自分が信じていることを信じているのか?」という問題をもう一度検討してみるだけである。疑いとは、乗り越えなければならない問題ではない。それはさらなる探求への招きなのである。それは信仰の敵ではなく、友なのだ。(p. 251)

ボイドは、イエスが神の究極の自己啓示であるということについて、それが真理であるかのように生きる人生にコミットするために必要なだけの確信さえあれば、疑いや確実性の感覚は、彼自身の信仰の歩みとはまったく無関係であると言います。このコミットメントによって、ボイドはイエス・キリストに対する信仰を持って毎日を情熱的に生きることができる一方で、信仰に対するさまざまな反論を探求し、それを自らの信仰の再検討のために役立てると同時に、同じような問題で葛藤している人々を助けることができるようになると言います。このような柔軟な信仰の姿勢は、疑いを恐れて極力それを排除しようとする信仰のモデルとは大きく異なっていることが分かります。

benefit-of-the-doubt

本書においてボイドが展開してきたような、確実性を追求せず、疑いを排除しない信仰のあり方は、今日大きな意義を持っていると思われます。「十字架につけられたイエス・キリスト」を信仰と神学の中心に据え、このキリストにおいてご自身を完全に啓示された愛なる神との人格的な契約関係から与えられるいのちをよりどころにして生きていくとき、たとい疑いや苦しみや知的チャレンジに直面しても、それらを信仰に対する脅威としてではなく、むしろ信仰を深め成長させる契機として受けとめることができるのだと思います。

ますます多様化し、情報化する現代社会において、キリスト教信仰は教会外からのさまざまなチャレンジ(たとえば宗教多元主義や科学と信仰の問題など)に直面しているだけでなく、教会内に存在する教理的・実践的多様性も無視できなくなってきています。福音派と呼ばれる保守的プロテスタント教会も例外でないことは、先日紹介した藤本満先生の『聖書信仰』を読めば明らかです。以前なら日曜日に所属教会で聴く礼拝説教が主な情報源であった信徒の人々も、今ではインターネットで簡単に様々な情報にアクセスすることができ、自分が育ってきた教会的伝統以外のあり方に触れることができるようになりました。私は個人的にはこれは健全で好ましいことだと思っていますが、同時にそれは自分の信仰のあり方をたえず吟味することを迫られる時代ということでもあります。絶対的な真理を確実性を持って信じることに信仰の本質を見いだすという、今日広く見られる確実性追求型信仰のモデルは、このようなチャレンジに対して硬直した融通のきかない対応しか見せることができず、一方では世に対して効果的な証しをすることができず、他方では知的に誠実であろうとする真摯な信仰者をつまずかせる危険性があると思います。

ボイドが本書で展開しているような確実性追求型信仰への批判は、モダニズム的な信仰のあり方に対するポストモダニズムの立場からの批判ということができます。確実性追求型の信仰は、客観的な真理が存在し、適切な方法(それは知的な神学的探求であるかもしれませんし、霊的な宗教体験かもしれません)を用いさえすれば、その真理を正確に把握することができると考える点で、モダニズムの考え方に基づいています。ポストモダニズムの立場では、そのような、絶対に確実な知識を持つことは不可能であると考えます。なぜなら、すべての知識は認識する主体が置かれている特定の文化的・歴史的なコンテクストによって影響を受けると考えるからです。

このことから、保守的なクリスチャンの中にはポストモダニズムを敵視する人々もいます。けれどもそれは一面的な見方です。ポストモダニズムも一様ではなく、いろいろな立場がありますが、大きくハードなポストモダニズムとソフトなポストモダニズムの二つに分けて考えることができます。ハードなポストモダニズムは客観的な真理の存在そのものを否定するラディカルな相対主義で、このような立場は当然神の存在を前提とするキリスト教信仰とは相容れません。しかし、ソフトなポストモダニズムでは客観的な真理の存在を否定するわけではありません。この立場がモダニズムと違うところは、客観的な真理は実在するが、それを絶対的な確実性を持って認識することはできないとするところです。

私はこのようなソフトなポストモダニズムの認識論はじつは非常に聖書的な立場ではないかと考えています。それはパウロの次の言葉に通じるものです。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13章12節)

ここでパウロが言うように、たしかに客観的な真理としての神は存在しますが、限界のある被造物である人間には神のすべてを絶対的な確実性を持って知ることは(すくなくとも今の世では)不可能です。それでは、神を知ろうとする試みには何の意味もないのでしょうか?そうではありません。確かに絶対確実な知識を持つことは不可能だとしても、たえず自己の認識を批判的に吟味していくことによって、ちょうど数学における漸近線のように、真理に到達することはできなくても、それに近づいていくことはできるのです。私たちはそのことを謙虚に認め、他者から学びつつ、成長していく必要があります(このことについては以前書いたこの記事をご覧ください)。

確実性追求型信仰の落とし穴は、このように真理に向かって成長していくプロセスを無視して一足飛びに真理を手にしようとするために、自分が現在手にしている知識の体系(それは往々にして、最初に信仰を持った教会で教えこまれた教理であることが多いのですが)を絶対視してしまい、それを死守することが信仰であると思ってしまうところにあります。ボイドの提唱する信仰モデルでは、信仰者はより柔軟で謙遜な歩みをすることが可能になります。そしてそのような信仰の歩みにあっては、疑いや迷い、考えを改めることは決して避けるべきことではなく、むしろ成長のために必要なものであることが分かります。

しかし、確実性追求型信仰の問題は、それがポストモダンの現代社会では「うまく機能しない」ということだけではありません。ボイドが指摘する最大の問題は、本シリーズのタイトルにもあるように、確実性追求型信仰では「確かさ」ということが偶像、すなわち信仰者にとってのいのちの源泉となってしまうということだと思います。十字架のイエス・キリストを通してご自身を啓示された愛なる神との人格的関係からではなく、自分の信条に対する心理的な確実性の感覚(それが知的な神学的体系によるものであれ、何らかの宗教的体験によるものであれ)からいのちを得ようとする試みは失敗に終わります。なぜなら、そのような信仰者にとっては、自分のアイデンティティや存在価値や安心感は、いかに確実な真理の体系を把握・所有しているかどうかにかかっているからです。したがって、自分の信じているシステムが何らかの知的議論や人生の体験によって脅かされるなら、たちまちそのようなアイデンティティや存在価値や安心感は失われてしまいます(だからこそ、そのようなタイプの信仰者は自分の持っている確実性の感覚が脅かされないようにあらゆる手を尽くします)。言い換えれば、確実性という偶像はいのちを与えることができないのです。

ブログではあまり紹介できませんでしたが、本書ではボイドの個人的な信仰の歩みについてもかなりの紙数が費やされています。彼の祈りの生活など、興味深い内容が多いですが、中には普通なら他人に明かしたくないような失敗や罪についても赤裸々に綴られています。それは本書の神学的な内容を身近なものにするだけでなく、彼が自分の信仰を生きている証しとして貴重なものであると思います。ボイドは自分の弱さをさらけ出し、信仰の歩みの紆余曲折について語り、もっとも驚くべきことには、自分が本書で主張していることがらですら、絶対的な確信があるわけではないことを認めるのです(そしてそれは、確かに本書の中心的主張と首尾一貫した態度です)。彼がそのようにできるのは、いのちの源を自らの「信仰の強固さ」や「神学の正しさ」にではなく、イエス・キリストにおいてご自身を啓示した神との人格的関係に置いているからこそと思えるのです。

*     *     *

長きにわたって連載してきたこのシリーズも、今回が最終回です。このシリーズを通して、これまで日本でほとんど知られていなかったボイド神学の一端を紹介することができたと思います。連載中から、何人もの方々からフィードバックをいただき、彼の神学に対する関心が広まりつつあることを実感しています。重要なことはボイド師の主張すべてを無批判に受け入れることではなく(それはまさに、彼が本書を通じて主張してきた信仰のあり方に反することです)、彼の問題意識を受けとめ、私たちの信仰や生活のあり方に関わってくる部分があれば、それを批判的かつ創造的に取り入れていくことだと思います。グレッグ・ボイドの神学については、今後も折に触れて紹介していきたいと思います。

(完)

確かさという名の偶像(24)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に続いて第12章「十字架の約束」を見ていきます。

私たちのアイデンティティ

ボイドによると、十字架において神が与えてくださる第二の約束は、私たちについてのことばです。これは前回紹介した、神ご自身についてのことばにすでに暗示されているものです。それは、私たちの存在そのものが、神によって愛されているということです。

ボイドによると、アダムとエバの堕落以来、人間は神と親密な関係をもって、そこからいのちを得ていくためには、あるがままの存在でいるだけでは不十分であり、何か特定の行為を行ったり、特定のものを獲得しなければならないと思い込むようになりました。私たちのアイデンティティ・価値・存在意義・安心は私たちが何を持っているか、何を達成できるか等々によって定義されるようになってしまったのです。ボイドの表現を借りれば、人間はhuman beingからhuman doingになってしまったのです。これは前回見た、誤った神観に基づいて起こる神からの疎外の主要な現れです。

ボイドは、十字架上のイエスの姿は神がどのようなお方であるかを示しているだけでなく、私たち自身がどのような存在であるかを表していると言います。なぜなら、贖われるものの価値は、そのために支払われる代価によって計られるからです。それでは、神が私たちをキリストの花嫁とするために支払ってくださった代価とは何でしょうか?キリストが十字架にかかられたとき、彼は私たちの罪そのものとなり(2コリント5章21節)、のろいとなってくださいました(ガラテヤ3章13節)。罪やのろいは聖なる神のご性質とまったく相反するものです。つまり、神は私たちへの無限の愛のゆえに、ご自分とは正反対の存在になることさえ辞さなかったのです。ボイドは、これは神が払うことのできる最高の犠牲であると言います。そしてそのことは、私たちが神の目から見て最高に価値のある存在であることを示しているのです。つまり、神はいま実際に私たちをこれ以上ないほどの偉大な愛を持って愛してくださっているということになります。私たちは今すでに、神の目にはこの上なく価値ある存在なのです。神からさらに愛されるために、何かをしたり何かを獲得したりする必要はまったくありません。

そして、この最高の愛は、三位一体の神が永遠に持っておられる愛と同じであるとボイドは言います。十字架で表現されているのは、私たちにそのような愛の交わりに加わるようにとの招きなのです(ヨハネ17章26節、エペソ1章4-6節、2ペテロ1章4節、1ヨハネ3章16節、4章8節参照)。

そして、このような揺るぐことのない完全な神の愛は、まったく無条件の愛であることをボイドは強調します。そしてこのことは、私たちのアイデンティティ形成にとって大変重要です。このような無条件の愛で愛されているということをアイデンティティの中核に持っている人は、人生の道中で何が起ころうとも、いのちにあふれた揺るがされない歩みをすることができるとボイドは言います。なぜならその人は、自分が何を持っているかいないか、あるいは何をするかしないかによって、自分に注がれている神の愛が減じることはけっしてないということを知っているからです。

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私たちの将来

十字架で与えられる三番目の約束は、私たちの将来に関することばです。これは第一(神についてのことば)と第二(私たちについてのことば)の約束の中に暗示されているものです。

ボイドによると、ここで決定的に重要なのは、十字架を復活と密接に結びついたものとしてとらえることです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあるのです。少し長いですが、彼自身のことばを引用します。

私たちが十字架を復活と切り離して考えるなら、十字架につけられたキリストは1世紀のローマ人によって苦しめられ処刑された何千人もの犯罪者の一人に過ぎないことになる。そして、もし復活を十字架と密接に結びついたものとして考えることをやめてしまうなら、それはいともたやすく勝利主義的な超自然的力の爆発となってしまう。それは敵を愛する自己犠牲的な十字架の性質を欠いているだけでなく、それを覆してしまうのである。

実際、西洋の神学の中には、十字架に至るイエスの生涯に反映されているような、へりくだった自己犠牲的なアプローチを神が取られたのは、人間の罪のあがないをするためにはイエスが十字架にかかる必要があったからだ、という思想の系譜がある。このまちがった考え方によると、ひとたびこのことがなしとげられるなら、神は再びその圧倒的な力を容赦なくふるってその意志を地上で達成し、悪に勝利することができる。これが復活の意味するところだ、というのである。このような考え方に基づいて、神学者たちはクリスチャンの支配者や兵士やその他の人々に、神はすべてのクリスチャンが敵を愛する非暴力的なイエスの模範と教えに従うことを意図してはおられない、と請け合うことができたのである。不幸なことに、クリスチャンがイエスの教えと模範を脇に置いて、異端者を拷問し、敵を虐殺し、国々を征服する必要を感じる時はいつも、この考え方はたいへん好都合であった。

誰も口に出して認めようとはしてこなかったものの、このようなものの見方が示唆していることは、イエスの謙遜なしもべとしての生き方や、敵を愛し祝福せよという教え、そして何よりもその自己犠牲的な死は、神の真のご性質をすのではなく、おおい隠すものだということなのである!もし私たちが正直に認めるなら、それが暗示しているのは、神がキリストにおいてへりくだった姿勢を取られたのは、ただそのようなふりをしていただけだと言うことになる。神の真のご性質は、彼が十字架につけられたキリストではなく宇宙の皇帝のように振る舞うとき、すなわちご自分の計画を完遂し、その目的を達成するために十字架を担うのではなく、その全能の力を働かせる時に表される、ということになってしまうのである。(p. 242-243)

しかし、このような考え方は、すでに見たような、神の究極の自己啓示は十字架につけられたイエス・キリストであるということと真っ向から矛盾します。そこでボイドは十字架と復活をひとつながりのできごとの両側面ととらえることを提案し、このひとまとまりのできごとを「十字架=復活のできごとcross-resurrection event」と呼びます。それは次のことを意味しています。

復活は神の子が罪と死と地獄の力に勝利したということだけでなく、御子が悪に打ち勝った方法が、神ご自身が悪に打ち勝つ方法でもあることを裏づける。したがってこのことは、謙遜なしもべとしてのイエスの生き方と、敵を愛し祝福せよというその教え、そして特に彼の自己犠牲的な死が、神の真のまた永遠のご性質をおおい隠すのではなく明らかにするということを裏づけるのである。(p.244)

このことはさらに、新約聖書ではイエスを信じてその復活のいのちに与った者たちも、イエスがなさったのと同じ方法で悪に応答するように命じられていることからも裏づけられます(ローマ12章17-21節など)。パウロはまたキリストとその福音のために苦しむ生き方を教えていますが(2コリント1章5節、4章10節、2テモテ1章8節など)、それはまさに復活の力によって生きる生き方にほかならないとボイドは論じます。

ただし、私たちがキリストとともに耐え忍ばなければならない「苦しみ」とは、愛する者を失ったり、不治の病にかかったりというような、この世における「通常の苦しみ」のことではないとボイドは言います。もちろんそのような種類の苦しみも神の御手に委ねて行く必要があり、神は私たちとともに働いて苦しみから善を生み出すことがおできになります。その意味でそういった種類の苦しみが私たちを成長させることも確かにあります。けれども、私たちがキリストの似姿に変えられていく過程でどうしても通らなければならない苦しみ、新約聖書が語っているような「キリストとともに苦しむ」種類の苦しみとは、キリスト者に特有の苦しみ、キリストに従うがゆえに起こってくる種類の苦しみだとボイドは言います。そこには日々古い自我を十字架につける苦しみから始まり、クリスチャンであるがゆえに周囲の人々から拒絶されたり疎外されたりする苦しみを含み、人によっては明確な迫害、拷問、死などに直面することもあります。これらはみな「キリストとともに受ける苦しみ」なのです。キリストの十字架と復活が私たちに約束しているのは、このようにキリストと苦しみをともにしていくなら、私たちは最終的には彼とともに勝利し、統べ治めるようになるということです。それと同時に、十字架と復活は、イエスのやり方で悪に立ち向かうことこそが最終的には勝利するということを示しているのです。

そして、十字架において与えられた将来の約束は、花婿であるキリストが必ず帰ってくるということも意味しています。その時私たちの婚約期間は終わり、私たちは花婿イエスと婚宴の宴に連なることができます(黙示録19章9節)。そして同様に、私たちは神が最後にはかならず私たち一人ひとりをキリストのご性質を反映する存在に作りかえてくださることを確信することができます。十字架において表された神の真実と愛に基づいて、私たちは神が必ずこのフィナーレまで導いてくださることを確信することができるとボイドは言います。その時、まことのいのちに対する私たちの飢え渇きは完全にいやされるのです。

(続く)