確かさという名の偶像(22)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第11章「神の約束につまずくとき」を取り上げます。

前章でボイドは信仰を行使するとはどういうことかについて述べました。この章ではボイドは信仰の中身について考察します。もし信仰が神に信頼することであるなら、私たちは何について神に信頼すべきなのでしょうか?もし、ボイドが言うように信仰が私たちと神との間の人格的契約関係であり、相互の信頼にもとづいているとするなら、神が私たちに対して信頼できるお方であるとは、何を意味しているのでしょうか?

多くのクリスチャンにとって、「神が信頼できるお方である」とは、彼らに神が「約束」してくださったできごとが成就することを意味しています。具体的な約束の内容は家族の守りであったり、病のいやしであったり、さまざまです。しかし、実際にはすべてのそのような「約束」が成就するわけではありません。ボイドは、幼い時に性的虐待を受けた経験を持つために、神を信頼することができなくなったという若いクリスチャン女性の例について語ります。クリスチャンたちの熱心な祈りにもかかわらず、病がいやされなかったり、家庭に悲劇が起こったりすることもあります。これは神が信頼できないお方であることを意味しているのでしょうか?

多くの教会では、ただ神に信頼して従えば神は彼らを守って祝福してくださるという「魔法の定式」を暗黙の了解としており、信仰者の人生に現実に起こってくるできごとがそれとは合致しないということを指摘するのはタブー視されることがあります。ボイドは、人生におけるさまざまな思い煩いを神に委ねることは重要であるといいます。けれども、それは私たちが願っている守りや祝福を保証するものではない、というのです。

そうあってほしくないという私たちの願いとはうらはらに、人間や天使が下したすべての決断がそれ以降に起こるできごとに影響を与えるような、計り知れないほど複雑な世界においては、ものごとがある仕方ではなく別の仕方で起こることを保証するような魔法の定式は存在しない、というのが本当のところである。(p. 224)

クリスチャンはしばしば「神の約束に信頼する」ことについて語ります。もちろん、それは大切なことですが、神の約束とは実際何であるのかについて考察することは最も重要であるとボイドはいいます。クリスチャンはしばしば、神が実際には約束しておられないものを「約束」と思い込んでいることがあるのです。ボイドは、それは一つには誤った聖書解釈によるものであると言います。

長年にわたる奉仕の中で、私は保守的なクリスチャンたちの中に見られるある傾向に気がついた。それは、聖書の中で約束のように見えるものは何でも、神が彼らに与えておられる約束だと思い込む傾向である。時としてクリスチャンたちは、恐ろしいものとなりうる世界の中で安心感を見出す必要に迫られ、それらの箇所の文脈やオリジナルの意味に注意を払うことをせずに、彼らが探し求めているものを約束しているように見える箇所には手当たり次第にしがみつく傾向があるのである。(p. 224)

しかし、ボイドによると、根本的な問題は信仰に対する誤った理解にあるといいます。つまり、それは信仰faithを信条beliefと同一視し、すべての神学的主題を法律的パラダイムでとらえ、人格的契約covenantと法律的契約contractを混同する傾向のことです。

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ボイドは本書において、聖書的信仰は法律的契約ではなく人格的契約に基づいた概念であることを主張してきました。法律的契約においては、当事者相互の信頼は法的拘束力を持つ文書にありますが、人格的契約においては当事者は相手の人格に信頼を置きます。聖書を探し回って神の「約束」を見つけ、そこに安心感を見出そうとする態度は法律的契約的な態度であるとボイドは言います。しかし、イエスが十字架にかかられたのは、私たちと人格的な契約を結ぼうとする行為でした。そして、このことは私たちが何について神を信頼すべきなのかを考える時に決定的に重要であるとボイドはいいます。

もし私たちが、異教徒が彼らの神々といつもしているように、法律的契約に基づいた取り決めを行うなら、ここで問題になっている「何か」は、私たちを益する具体的なものごとということになり、その場合は聖書をくまなく調べて私たちに益を与えるような隠された条項を探したとしてもおかしくはない。けれども、私たちが結ぶように招かれているのは法律的契約ではなく人格的契約であるので、ここで問題になっている「何か」とは、ただ神のご性質ということに尽きるのである。(p. 230)

したがって、私たちが信仰を持つ時に信頼すべきなのは、神が与えてくださるあれやこれやの具体的祝福ではなく、それを与えてくださる神ご自身のご性質であるということになります。では、私たちが実際に信頼すべきなのは、神のどのようなご性質なのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。

(続く)

 

 

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