確かさという名の偶像(20)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第10章「実体的な希望」を取り上げます。

本書でボイドは確実性を追求し、疑いを排除するような信仰のあり方を批判してきました。しかし、多くのクリスチャンは、このような「確実性追求型」信仰のモデルには強固な聖書的根拠があると考えています。本章でボイドは、代表的な聖書箇所を二つ取り上げ、はたしてこれらの箇所が「確実性追求型信仰」を支持しているのか、吟味します。

ヤコブ1章6-8節

6  ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 7  そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 8  そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

一見この箇所はこれ以上ないほどストレートに「確実性追求型」信仰を支持しているように見えます。しかし、この箇所は、他のすべての聖書箇所と同じように、前後の文脈の中で理解していかなければなりません。この箇所の直前の5節はこうなっています。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」つまり、この箇所は何でも自分の欲しいものを求めるということではなく、神から知恵を願い求める際に必要な態度を表していることがわかります。

次に、ここで「疑う」と訳されているギリシア語はdiakrinōですが、この言葉は「揺れる」とか「ためらう」とも訳せる言葉です。そしてボイドは、ここでヤコブが語っているのは、神が知恵を与えてくださるかどうかを疑う、ということではなく、神に信頼してこの方に知恵を求めていくか、それとも知恵をこの世に求めていくかという、二つの選択肢の間で揺れ動いている状態をさすのだと言います。つまり、ここでヤコブが問題にしているのは、信仰者が心のなかでどれだけ強い確信を持つことができるかという心理的な問題ではなく、神との関係においていかにこの方に忠実に生きていくかという関係性の問題なのです。つまり、ここでヤコブは、ボイドがこれまで主張してきた人格的契約covenantに基づく信仰について語っているのです。

マルコ11章24節ほか

もう一つの、この主題に関してよく引用される聖書箇所は、マルコ11章24節です。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

ボイドは、この箇所やこれに類する箇所(マタイ18章19節、21章21節、マルコ11章23節、ヨハネ14章13-14節、15章7節、16節、16章23節など)が文字通りに受け取られる時、それらは「偶像礼拝的で、不健康で、奇怪で、時として破滅的な結果をもたらしてきた」と言います(p. 200)。

ボイドはこれらの箇所を文字通りに取るべきではない理由をいくつか挙げますが、その中で興味深いのは、祈りの効果に関する議論です。なぜある祈りは応えられ、別の祈りは応えられないのでしょうか?クリスチャンなら誰でも抱いたことのあるこの疑問について、ボイドはそれに答えるには、いくつもの要因を考慮しなければならないと言います。祈りを受ける人の信仰、祈りの粘り強さや熱心さ、祈りを助けあるいは妨げる霊的勢力の存在、罪の存在・・・。ボイドは、なぜある祈りが応えられるか(あるいは応えられないのか)、さらに言えば、どんなできごとでも、なぜそれがある特定の仕方で起こるのかを知るためには、時のはじめにまで遡って、歴史の方向性に影響を与えたすべてのできごとについての網羅的な知識が必要になると言いますが、もちろんそのようなことは不可能です。それゆえボイドは、祈りがその願っている効果をあらわすかどうかを前もって確実に知ることは不可能であり、心理的な操作によってそうでないかのように振る舞うことは愚かである、と言います。

ボイドは、イエスはこれらの言葉を語られた時、当時のユダヤ人がしばしばしたように誇張表現を用いていたのだと言います。リチャード・ボウカムもイエスが婉曲表現をこのみ、「一見明快な言葉でさえ実は誇張や皮肉だということもある。」と述べています(『イエス入門』98頁)。イエスが誇張表現を好んで用いられたことは、たとえば信仰があれば山をも動かすことができるという教え(マタイ17章20節)や、1万タラント(当時としては天文学的金額)の借金をした人物が出てくるたとえ話(マタイ18章24節)などに見ることができます。したがって、これらの箇所を読むときには、それらが誇張であることを意識して読まなければなりません。

誇張表現は、ある真理の重要性を強調するために、実際にそれが現実世界で持っている細かいニュアンスや原則に対する例外などをそぎ落として、そのエッセンスだけを増幅して語ります。したがって、私たちがそのような聖書箇所を読む時には、そこで語られている原則の重要性を認識する必要がありますが、だからといってそこに書かれている表現のすべてを文字通りに受け取る必要はありません。ですから、たとえば上で引用したマルコ11章24節について、

この聖句では祈り求めるものは「なんでも」与えられると書いてあります。「なんでも」とは、文字通りすべてのことを意味しています。だから、信仰を持ってなんでも祈り求めるなら、それはかならず与えられます!

という人があったとすると、それはイエスが用いられた誇張表現の性質を無視した解釈と言うことができます。確かに私たちは神に信頼して何でも祈り求めていくことが大切ですし、実際神はそれに応えてくださることも多いでしょう。しかし同時にこれは、このように祈れば必ず定められた結果が得られるという「祈りのマニュアル」ではありません。信じて祈っても応えられないことがあるということは、多くの人の体験からも(たとえば、病のいやしのために真摯に祈ってもいやされない場合など)、また聖書的にも(たとえば2コリント12章8-9節のパウロの祈りなど)裏付けられるからです。自動販売機に硬貨を投入してボタンを押せば、必ず飲み物が出てくるようなものではないのです。

ボイドはクリスチャンが聖書の誇張表現を文字通りに受け取ってしまうために起こってくる問題を指摘します:

人々が誇張表現を文字通りに解釈する時、彼らはいつも世界の巨大な複雑さを無視し、誇張的言語において表現されている諸原則を魔法の定式に変えてしまう。彼らはもしあれやこれやのことを行いさえすれば、その魔法の定式が約束していると彼らが信じるものは何でも、それこそ魔法のように入手できることが保証されていると考えることに安心感を覚えるのだ。しかし、ヨブの友人たちがそうであったように、彼らはその魔法の安心感を手に入れる代償として、これらの「約束」が果たされなかったすべての人を犠牲にする。そして同時に、もし彼ら自身あるいは彼らの愛する者がこれらの「果たされなかった」約束の犠牲者になるようなことが起こると、この偽りの安心感によってひどいしっぺ返しを食うことになるのである。(p. 204)

クリスチャンが聖書の誇張表現を文字通り受け取って、それを真摯に追求した結果、それらの箇所にある「約束」と相反する現実に直面した時、彼らの信仰は重大な危機に陥ります。ある人は神に裏切られたと思い、ある人は聖書の真実性を疑い、ある人は信仰がなかったからだと自分を責めます。けれどもそれらは、聖書が最初から意図しているわけではない「約束」にしがみつく見当違いな態度から来ていることが多いのだと思います。

聖書を神のことばとして真剣にとらえ、それを正しく解釈するということは、テキストにある表現を何もかも額面通りに受け取るということとは違います。比喩は比喩として、誇張は誇張として、著者(話者)の意図した読み方で読むことが大切です。実際多くのクリスチャンはこのような読み方を日常的に行っています。たとえば、ダビデが「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」(詩篇6篇6節)と書いているのを読んで、彼が文字通り涙で自分のベッドを漂わせたと考える人はいないでしょう。

しかし、今回見たような信仰に関する箇所は、その文字通りの解釈がさまざまな問題を含んでいるにもかかわらず、なぜか誇張表現であることが忘れられてしまうことが多いようです。このことは、確実性追求型の信仰理解(信仰の強さは心理的確信の強さに比例するという考え)がいかに根強いものであるかを表しています。同時に、ここにはボイドが批判してきた法律的契約contract概念にもとづく信仰理解も見られます。多くの人は、祈りを神との人格的関係にもとづいてとらえるのではなく、法律的取引(「私が神と交わした契約書によると、このように確信を持って祈るなら、神は必ずそれに応えなければならないはずだ」)としてとらえているのではないでしょうか。

つまり、マルコ11章24節のような箇所は、自分の祈りが応えられるという心理的確信を持ちさえすれば、かならずそのとおりになると言っているのではありません。では、この箇所が意味しているのは何なのでしょうか?次回は、聖書的に信仰を行使するとはどういうことなのか、ボイドの見解を紹介していきます。

(続く)