確かさという名の偶像(18)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第9章「聖書の中心」を取り上げます。

前の章でボイドは、キリスト教信仰の中心はイエス・キリストであることを論じました。しかし彼は、十字架上のイエス・キリストに表されているような自己犠牲的な愛の神と、聖書の他の部分に描かれている暴力的な神のイメージとの間に否定しがたい緊張関係があることを意識するようになりました。たとえば、旧約聖書にはイスラエルが入っていこうとする地に住むカナン人たちを滅ぼしつくすようにと神が命じておられる箇所もあります。申命記7章2節では「彼らに何のあわれみをも示してはならない」とさえ書かれています。このような箇所をどう考えたら良いのでしょうか?

同時にボイドは、自分が持っていた神のイメージは部分的にしかキリストに似ていないことに気づきました。その理由は、彼は聖書に描かれているさまざまな神のイメージがすべて同程度に権威あるものだと考えていたところにありました。その結果、彼の持つ神観は、多くのしばしば互いに矛盾するように見える神のイメージの混合体になっていったのです。それによって、彼はこの「神」から豊かないのちをいただいていくことに困難を覚えるようになっていったのです。

このような葛藤を経てボイドがたどり着いた結論は次のようなものでした:

聖書が完全に「神の息が吹き込まれた」ものであると告白することは、聖書に含まれるすべての内容が同程度に権威があるということでも、すべての神の描写が同じ重みを持っているということでもない。実際、後で示すように、聖書自身がこのような考えを否定している。私は聖書には中心があると理解するようになったが、その中心とは、私が神学において見いだした中心と同じであり、私の信仰の知的土台を構成する中心と同じであり、私のいのちの源である中心と同じものだったのだ。一言で言えば、すべてはイエス・キリスト、そしてイエス・キリストのみを中心にして回っているということを見いだしたのである。(p. 251)

聖書の記述のすべてが同程度の権威を持っているわけではないというボイドの主張は、聖書がそもそもどのような種類の本であるか、という理解に基づいています。ボイドは聖書は料理本のように、すべての要素が同じような重要性を持っている本ではなく、小説のようなストーリーである、と言います。しかも、それは驚くような筋の展開を持っているストーリーなのです。

時々、小説や映画で、最後に驚くようなどんでん返しが起こり、その結末部分がそれまでの話のすべてをまったく新しい光の下で照らし出してみせるようなものがあります。ボイドは聖書とはまさにそのような本であると言います。聖書においては、そのどんでん返しはイエス・キリストにおいて起こったのです。ボイドは言います:

全旧約聖書はメシアであるイエスに導き、彼において成就される。しかし、イエスがそれを成就する独特なやりかたは、すべてを新しい枠組みの中でとらえ直すのである。ほとんど誰もそのようなことが起こるとは予測していなかった。実際、イスラエルを取り扱う神の物語を完成するイエスのやりかたはあまりにも意外なものだったので、メシアを探し求めていた人々のほとんどは、彼がいざ到来すると彼を受け入れることができなかったのである。(p. 251)

たとえば、紀元1世紀のユダヤ人の多くが待ち望んでいたメシアは、ローマ人のような異邦人の支配を打ち破って、地上的な王国を樹立する軍事的指導者であると考えていました。これはたとえばヨシュアやダビデといった旧約聖書の指導者のイメージからすれば、決して理解できないことではありません。けれどもイエスは、そのような「旧約的期待」を裏切るかのように敵を愛することを教え、自らそれを実践して十字架にかかられました。

ボイドによると、このような「どんでん返し」が意味しているのは、私たちはイエスにおいて啓示された神の姿を、旧約聖書において描写されている神の描写と同列においてはならないということです。イエスにおける神の自己啓示は、それに先立つすべての啓示に優先するものであり、それを通して先行するすべての啓示を解釈すべきレンズなのです。

そしてボイドは特に、イエスの存在のすべてが集約された十字架というレンズを通して旧約聖書を読むべきことを主張します。イエスご自身、旧約聖書のすべてはご自分について書かれていると教えておられます(ルカ24章25-27節、ヨハネ5章39-47節)。

このような旧約聖書の解釈法は、現代の福音派の標準的聖書解釈法である歴史的・文法的アプローチからすると問題を含んでいます。なぜならこの解釈法では、正しい釈義とは「聖書記者が意図したオリジナルの意味」を抽出することにあるからです。しかし、ボイドは、新約聖書記者たちの関心事は、旧約記者の意図した意味よりもむしろ、それらのテキストがどのようにキリストを指し示すかにあったと言います。

それでは、「聖書が霊感された神のことばである」とはどういう意味なのでしょうか?ボイドは、聖書が「神の霊感を受けて書かれた」(2テモテ3章16節)目的はキリストを指し示すことにあるのであり、この目的を達成することに関して聖書はあやまることがない(無謬infallible)と主張します。つまりボイドによると、聖書は神が意図されたその目的に関して霊感を受けた完全な書物なのです。聖書がこの目的を達成している限り、個別のテキストにいかなる人間的な限界や不完全さや誤りが含まれていたとしても、それは聖書の霊感された神のことばとしての地位を揺るがすものではない、とボイドは考えています。聖書霊感に関するボイドの確信はイエスが神の御子であるという確信に根ざしており、後者は(第16回で見たように)聖書の無誤性にではなく史的イエスについての彼の確信に基いています。このような聖書理解に立つクリスチャンは、聖書に関するさまざまな「難問」によってキリストに対する信仰が揺るがされることはなくなるとボイドは言います。

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ここに紹介したボイドの聖書理解は現代の保守的プロテスタント教会で広く受け入れられている聖書観に対して、非常に重要な問題提起をしています。歴史的・文法的聖書解釈法の限界については、このブログでも「使徒たちは聖書をどう読んだか」のシリーズで論じましたが、旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読むという解釈法は、新約聖書の記者たちも行っている聖書的なアプローチです。

聖書の全体を一つの大きなストーリー(ナラティヴ)として読むアプローチは、近年日本の福音派の教会にも浸透してきていますが、その本当に意味するところはあまり理解されていないように思います。聖書をナラティヴとして読むということは、プロットが時間軸にそって進行していくにつれ、新たな発見や思わぬ展開が待ち受けていることを意味しています。そして、ナラティヴ全体の「意味」は、最終章にたどり着いて全体を振り返った時に初めて本当の意味で理解できるのです。なぜなら、各部分の意味はナラティヴ全体の文脈の中ではじめて正確に読み取ることができるからです。聖書の各部分がすべて同じ比重で重要性を持っているという、平板で機械的な霊感理解は、聖書を組織神学の素材として百科事典のように読むアプローチには有効ですが、このようなナラティヴとしての聖書理解にはなじまないと思います。つまり、私たちの聖書理解(霊感理解)は、私たちの聖書解釈のアプローチと切り離すことができないのです。

(続く)