十字架形の神

所属教会で礼拝説教のご奉仕をさせていただきました。その原稿に多少手を入れたものをアップします。

「十字架形の神」 コリント人への手紙 第一 1章18節-25節

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 19  すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

私たちは普段言葉を使って生活しています。言葉は私たちがものを考えるだけでなく、自分の考えていることを他の人に伝える伝達の手段としても大切なものです。しかし、私たちは同じ言葉を使っていても、同じものを思い描いているとは限りません。人によって、あるいは文化によって言葉の持つイメージは異なっているのです。

たとえば、日本では「マンション」というと集合住宅の意味ですが、英語でmansionというと「大邸宅」という意味になります。アメリカ人が日本の「マンション」を見て大笑いしたという話も聞いたことがあります。英語の賛美歌で「Mansion Over the Hilltop」という曲がありますが、これは日本の「マンション」のイメージで歌うとおかしなことになってしまいます。

「来るべき神の国では、私はマンションに住む」と歌うプレスリー

イメージは私たちの信仰生活や聖書の読み方にも影響してきます。たとえば詩篇42篇1節を考えて見ましょう。

 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

これは賛美歌にもなっている有名な聖句ですが、ここにある「しかが谷川を慕いあえぐ」という表現について、しばらく思い巡らしてみてください。「谷川」と聞いて、みなさんはどういう情景をイメージされたでしょうか?ある方々は、日本に良くあるような、緑豊かな山間の渓谷にとうとうと流れる川の流れを想像されたかも知れません。けれども、詩篇の作者がこの句を書いたときにイメージしていたのはそういうものではなく、中東の砂漠地帯の乾ききった大地に溝が走っていて、その底にちょろちょろと水が流れているような川だったのかもしれません。このどちらの川をイメージするかによって、作者の心の飢え渇きというものはだいぶ違ってくると思います。

NachalParan1

イスラエルのワジ(涸れ川)

このように、信仰生活においてイメージというのはとても大切です。その中でもっとも大切なのは、言うまでもなく神様ご自身のイメージです。今日はこのことについてご一緒に考え、聖書から学んでいきたいと思います。

クリスチャンはみな神を信じている、あるいはイエス・キリストを信じていると言いますが、一口に「神」とか「イエス・キリスト」と言っても、人によっていろいろなイメージがあると思います。みなさんは神様についてどんなイメージを持っているでしょうか?

私たちが持っている神様のイメージのことを「神観」と呼びたいと思います。神観は「神学」とは異なります。神学というのは神様がどのようなお方であるかを理性的に考えるもので、たとえば「神は創造主である」「神は全能である」「神は永遠である」といった、神様についての抽象的な概念です。神観は私たちが心の中で神様をどのような人格を持ったお方としてとらえ、感じているかということです。たとえば「白いひげを生やした優しいおじいさんのような方」とか、「厳しい学校の先生のような方」といった具合です。

私は神学校で教えていますので、神学の大切さをもちろん否定するわけではありません。けれども、私たちの実際の信仰生活に大きな影響を与えているのは、実は神観の方なのです。私たちはクリスチャンとして、神様について、人間について、世界についていろいろなことを信じていると言います。また、自分でも本当にそのことを信じているかも知れません。けれども、そのように私たちが信じていると告白する内容と、私たちの実際の生き方には大きなギャップがあることがあります。なぜなのでしょうか?

すべての人は、自分が信じていると頭で思ったり告白していることがらに従って生きているのではなく、本当は心の奥底で、時には無意識に信じていることに従って生きています。たとえば、「神様は愛です」「神は良いお方です」ということを皆さんは信じておられると思います。それはもちろん、聖書が教える正しい神学です。正しい神学を持つことはもちろん大切なことですが、それが単なる頭の理解にとどまっているならば、皆さんの実際の生活は何も変わってこないと思います。

たとえ私たちが「神は愛です」という正しい神学を信じていたとしても、私たちの心の奥底にある実際の「神観」が「神様はいつも怒っている気むずかしい老人のような方で、私が失敗をするたびに雲の上から雷を落として私を罰しようと見張っている」というようなものだったらどうでしょうか?私たちは神様が愛であるということを頭の知識としては知っていたとしても、実際の私たちの人生は、怒りの神様に裁かれるのではないかとびくびくしながら生きる人生になってしまいます。つまり、私たちが頭で知っている神様の知識(神学)と、心で感じている神様のイメージ(神観)は必ずしも一致していないのです。

私たちが祝福された信仰生活を送っていくためには、正しい神学を学ぶだけでなく、聖書的な正しい神観を持っていく必要があります。ダビデも詩篇16篇8-9節で、次のように言っています。

8  わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、
わたしは動かされることはない。
9  このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。

ご存じのように、ダビデは多くの苦難に満ちた生涯を送った人物でした。人から命を狙われたり、祖国を追われたり、家庭の問題に悩んだり、自分の犯した罪に苦しんだこともあります。けれども、彼はそんな中でも神様に対する揺るぐことのない信仰を持ち続けただけでなく、その心には喜びがあったと言います。なぜでしょうか?その秘訣は、「わたしは常に主をわたしの前に置く。」という言葉にあります。ここはある英訳では「私はいつも主に目を注ぎ続ける(I keep my eyes always on the LORD)」となっています(NIV 2011)。ダビデは神様が良い方であり、愛なる方であり、ダビデを愛し、守り、祝福してくださる方であることを頭の神学として知っていただけでなく、そういう神様をいつもイメージして、心の中に思い描き、このお方を見つめていたのです。つまり、ダビデは正しい「神観」を持っていたと言えます。そこから、ダビデは単なる知的な神学は与えることのできないもの、すなわちゆるぐことの平安と喜びを得ることができたのです。

しかし、ここで問題があります。私たちの信じている神様は、純粋な霊であって、目で見ることのできないお方です。どうやったらこの神様をイメージすることができるのでしょうか?その答えは「イエス・キリスト」です。目に見えない神様が人間となってこの地上に来てくださった、それがイエス・キリストです。

キリスト教の神様はどのようなお方か、ということを考える時、私たちは哲学的な神のイメージ(永遠、全知全能、等)から出発して神様を考え、その神が人間になったのがイエス様だというふうに考えてしまうことがありますが、これは聖書的に言うと順序が違っているのです。

聖書が教えているのはその逆であって、人として二千年前にこの地上に来られたイエス・キリストを知ることによって、初めて目に見えない神様がどのようなお方であるのかが分かるというのです。ヨハネはその福音書で、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」と言っています(ヨハネ1章18節)。

だから、神様についてイメージするには、イエス・キリストについてイメージすれば充分なのです。イエス様ご自身、弟子たちに「わたしを見た者は、父を見たのである。」と言われました(ヨハネ14章9節)。そしてパウロも、「御子は、見えない神のかたちであ」ると書いています(コロサイ1章15節)。ここで「かたち」と訳されているギリシア語は「エイコーン」で、コンピューターのアイコンの語源になっている言葉ですが、英訳聖書ではimageと訳されています。イエス様はまさに「神のイメージ」そのものである、とパウロは言っているのです。目に見えない神様がはっきりと目に見えるかたちで現れてくださった方、それが御子キリストということなのです。

さらに、ヘブル人への手紙には、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ」ると書かれています(1章3節)。つまり、イエス・キリストのうちに表されていないような神様の本質はないのです。この、人となって来られたイエス・キリストのうちに、神様がどのようなお方であるかということが、あますところなく、すべて表されているということです。

そして、イエス・キリストの生涯のクライマックスは、十字架でした。このことは新約聖書自体が証ししています。四福音書すべては、イエス様の受難をクライマックスとした物語として書かれています。そして、パウロの宣べ伝えた福音のメッセージの中心にも、十字架につけられたイエス様の姿があったのです。

今日お読みしたコリント人への第一の手紙で、パウロは彼がコリントを初めて訪れた時、そこに住む人々にどのようにして福音を伝えたかを読者に思い起こさせています。1章23節で彼は「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」と語っています。「十字架につけられたキリスト」―これこそ、パウロの福音のメッセージの中心でした。使徒の働き18章を見ると、パウロのコリントでの伝道の様子が書かれていますが、そこでは彼が「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。」(5節)と書かれています。つまり、この十字架につけられたイエスという人物こそが、旧約聖書で預言されていた救い主メシアである、とパウロは語ったのです。

これは当時の人々には、ユダヤ人にも異邦人にもまったく理解不可能なメッセージでした。パウロは彼の語った十字架のメッセージは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」と言います(23節)。十字架はいまでこそおしゃれなアクセサリーなどにもなっていますが、当時はもっとも残酷な死刑の道具でした。十字架刑で処刑されるのは普通の犯罪人ではなく、国家に対する反逆罪などの特別に重い罪を犯した極悪人に限られていたのです。彼らは見せしめのために、恐ろしい苦しみを味わいながらじわじわと死んでいきました。そのような方法で死刑になった「犯罪者」が神であり救い主であるなどという教えは、当時のローマ市民の想像を超えていたと思います。

また、十字架はユダヤ人にとっては別の意味でもつまずきとなりました。旧約聖書には「木にかけられた者は神にのろわれた者」であると書かれていました(申命記21章23節)。十字架に磔になるということはある意味で木に架けられることですので、ユダヤ人は十字架刑で殺された者は神に呪われた存在だと考えていました。そのような存在が救い主メシアであるというのは、これまたあり得ないことだったのです。

パウロは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることは、ユダヤ人にも異邦人にも受け入れがたい方法であることを承知していました。けれどもパウロは「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」と断言します(1コリント1章18節)。世の中の人には愚かさの極みに見えるような、十字架につけられたイエス様の姿にこそ、救いを得させる神の力が表されているというのです。

この箇所でパウロは「神の知恵」と「この世の知恵」を対比して論じています。十字架に表された神の知恵は、この世の知恵の標準からすると愚かに見えるけれども、実はこちらの方が優れているというのです。

21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。(1コリント1章21-23a節)

ここで、パウロは世の中の人々も神を知ろうとしていることを認めています。世界には宗教があふれていることからも、それは分かります。しかし、世の人々は自分の知恵を用いて神様を知ろうとしているので、その試みはうまくいかないというのです。本当に神を知ろうと思ったら、神の知恵に従ってそのことをしなければなりません。神の知恵とは、十字架に架けられたキリストを通してのみ、本当の神様を知ることができるということです。実際、パウロは2章2節で「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と言っています。

なぜパウロは十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるのでしょうか?彼は人々がわざと信じられないような難しい話をして、救いのハードルを上げているのではありません。キリスト教は「分かる人だけ分かればよい」というエリート主義の宗教ではありません。むしろ逆であって、パウロは人々が求めていた神への道を、これ以上ないほどストレートに語っているのです。十字架につけられたイエス・キリストを知ることが、神様を知る一番の近道なのです。いいえ、本当の神様を知ろうと思ったら、それ以外の道はないのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」と言われました(ヨハネ14章6節)。

つまり、「十字架につけられたイエス・キリストを通して神様が分かる」というメッセージが分かりにくい、というのは、神様の側に問題があるのではなく、私たちの神観が罪によってあまりにも歪められてしまっているので、神様がご自分の本当の姿を啓示されたとき、それを認め、受け入れることができないということなのです。もちろん、神様は天地万物を造られ、支配しておられる偉大な王なる方です。けれども、この方はご自分の支配を力を持って行われるのではなく、謙って愛を持って仕えることを通して行われるのです。イエス様ご自身が、弟子たちにこう言われました。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 43  しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 44  あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 45  人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10章42-45節)

これが神様のやりかたであり、私たちの生き方でもあります。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様の姿に、神様の本質、つまりアガペーの愛が完全な形で表されているのです。宗教改革者のマルティン・ルターは「十字架の神学」ということを言いました。神様の本当の偉大さ、素晴らしさは、人間にとっていかにも素晴らしいと思えるような栄光に輝く姿を通して表されるのではなく(彼はそのような考えを「栄光の神学」と呼んで否定しました)、十字架につけられたキリストの弱さと躓きを通して表される、と言うのです。

そして、神様の恵みによって目が開かれた人は、この十字架につけられたイエス様に、神ご自身の姿を見ることができます。マルコの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と言うことばで始まります。しかし、福音書の物語を通して、イエス様が神の子であるということは、人間の登場人物は誰一人として悟りませんでした。しかし福音書の最後になって、イエス様が十字架の上で息を引き取られるのを見たローマの百人隊長が、 「まことに、この人は神の子であった」と言ったのです(15章39節) 。神の子としてのイエス様のアイデンティティは、イエス様がなされた奇跡でも、また復活でもなく、十字架上の死を通して明らかにされたのです。もちろん復活はとても大切ですし、復活がなければ十字架は完結しません。けれども、復活は十字架の逆転や否定ではなく、十字架を確証するものです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあり、復活は十字架で明らかにされたアガペーの愛が、たしかに神の本質であることを証しする、神の「しかり」なのです。

先に言いましたように、神様の本当の姿は人となったイエス・キリストに表れています。そして、イエス・キリストの本質は、十字架の上でいのちを捨てた愛のうちに表れています。だから、イエス様のイメージ、特に十字架に架けられた愛のイエス様のイメージから離れて父なる神様を想像することはできないのです。聖書の啓示する神様はいわば「十字架の形をしている(cruciform)」のです。聖書の中で神様について書かれているすべてのことは、この十字架のレンズを通して受け取っていかなければなりません。

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あなたが心の中で思い描いている神様はどのようなお方でしょうか?遠く離れた、地上の細々したできごとや、私たちの悩みや苦しみには無関心な神でしょうか?それとも私たちの罪や過ちのゆえにいつも不機嫌で、私たちを罰しようと待ち構えているような、恐ろしい神でしょうか?今日、もう一度十字架に架けられたイエス様を心に思い描きましょう。イエス様は私たちがまだ神を知らず反抗して生きていた時に、私たちを愛していのちを捨ててくださいました。今も弱く不完全な私たちを受け入れ、導いてくださいます。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがありません(ヘブル13章8節)。このイエス様は私たちと世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださいます(マタイ28章20節)。このイエス様の姿を、ダビデのようにいつも目の前に置いて歩んでいきましょう。