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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第3部「信仰の行使」に入ります。今回は第8章「強固な中心」です。第1部でボイドは「確実性追求型信仰」の問題点を指摘し、第2部では聖書的な信仰のあり方について論じました。第3部では、どのようにその信仰を実践していけばよいのか、具体的な提案がなされます。
この章でボイドは信仰を知的に基礎づけつつ、しかも柔軟に神学を構築していく方法について議論します。
本シリーズの第2回で、「トランプの家」的な信仰のモデルについて述べました。それは、信仰を構成する多くの要素が危ういバランスを保ちながら組み合わされた体系になっており、そのどれか一つでも真理性が疑問にさらされると、全体が崩壊してしまうような不安定な信仰のあり方です。ここでボイドは、その時にも軽く触れた聖書の理解について詳しく論じていきます。
多くの福音派の教会は聖書の「無誤性inerrancy」を標榜しています。これは聖書は誤りなき神のことばであって、信仰の規範としてだけではなく、科学や歴史の分野においても一切の誤りを含まないという立場です。聖書の無誤性がキリスト教信仰の不可欠な基盤であるという立場からすると、もし聖書に一箇所でも明白な誤りが見つかったとすると(それが科学や歴史に関するものであっても)、キリスト教信仰全体が重大な危機にさらされることになります。これはまさに「トランプの家」的な聖書観にほかなりません。
したがって、この立場の人々は、全精力を傾けて、聖書のすべての記述があらゆる点から見て真理であることを証明しようと努めます。しかし、これはたいへんな難事業であることが分かります。聖書には互いに矛盾しているように見える記述(たとえば福音書間の相違など)や、現代の歴史学や自然科学の成果と矛盾するように見えるような記述(創造記事の文字通りの解釈など)などが数多くあります。それらの中には、比較的容易に説明できるものもありますが、非常に難しいものもあります。英語圏では、そのような「難解な」聖書箇所を説明する専門の参考図書などもあったりします(たとえばこれ)。
聖書の真理を生涯をかけて護ろうとするこれらの人々の動機は高邁なものであり、彼らの真剣な信仰は尊敬に値します。しかし、ボイドは彼のそのような聖書観はどこか根本的にずれているところがあるのではないかと考えました。彼が自分の神学を深めていくにつれて、彼はこの「トランプの家」が何度も崩壊する経験をしました。そのたびに彼は大変な努力を払ってその家を建てなおすのですが、さらに学びを続けていくと再びその家は崩れ去ってしまう・・・。こんな経験を何度も繰り返すうちに、彼はそもそもこのような「トランプの家」的な聖書理解自体が間違っているのではないかと考えるようになったと言います。
ボイドがたどり着いた結論は、クリスチャン信仰の最重要な中心は、私たちが信じる「何か」(つまり聖書のような「もの」)ではなく、イエス・キリストという人格である、ということでした。私たちにとって最も大切なことは、このお方といのちを与える人格的関係を持っていくことです。このことはボイドにとって、大きな発想の転換をもたらしました。
そしてボイドは、キリストとの人格的関係をもつためには、聖書が霊感された神のことばであることに頼る必要はないことに気づいたと言います:
福音派の人々が典型的にするように、聖書が霊感された神の言葉であると信じるからイエスを信じる、というのではなく、私はまずイエスを信じるので、聖書が霊感された神のことばであると信じるようになった。(p. 159)
ボイドのアプローチはこうです。彼はまずイエスを歴史上の人物として研究し、なぜこの人物の死と「復活」が、キリスト教という歴史的ムーブメントを生み出したのかを考えます。彼はそこから、新約聖書のイエスに関する主張が基本的に信頼できること、イエスが確かによみがえった神の子であり、神の決定的な自己啓示であることを確信するに至ります。もちろん、その過程で彼は福音書や書簡を資料として用いるわけですが、この段階では彼はそれらを「霊感された誤りのない書物」としてではなく、一般の歴史資料と同列に扱います。つまり、彼は純粋に歴史的なアプローチによって、イエスがキリストであることを受け入れるようになりました。ボイドはこの結果について100パーセントの確信を持っているわけではありませんが(歴史学という学問においてそれは不可能です)、イエス・キリストとの人格的関係にコミットして生きるに十分なだけの確信は得ることができたのです。
そしてボイドは様々な理由によって、聖書が霊感された神のことばであると信じていますが、それはイエスがキリストであるという信仰から導き出されてくるのであって、その逆ではないと言います。分かりやすく図示すると、福音派に典型的な信仰モデルでは、まず「霊感された誤りなき神のことば」という土台があって、その上に「イエスは神の決定的自己啓示である」という教理が乗っています。このことは、多くの組織神学の教科書がまず聖書論から始まることからも裏付けられます。
ところが、ボイドの提唱する信仰モデルでは、まず「イエスは神の決定的自己啓示である」という土台があり、その上に「聖書は霊感された神のことばである」という教理が乗っているのです。
この二つのモデルは一見同じようなものに見えますが、実は大きな違いがあります。上のモデルでは、「霊感された誤りなき聖書」という「もの」が信仰の土台・中心になっているのに対して、下のモデルでは、イエス・キリストという「人格」が信仰の土台・中心になっています。さらに、上のモデルでは、聖書の無誤性という前提が何らかの形で脅かされてしまうと(たとえば特定の箇所の科学的・歴史的真実性が疑われるなど)、その上に乗っているキリストへの信仰までが揺るがされることになります。つまり、このモデルは「トランプの家」的な構造を持っているのです。これに対して、ボイドのモデルでは、イエス・キリストが神の決定的自己啓示であるという土台を支えるに十分なだけの史的信頼性が聖書によって保証されればそれで十分であって、たとえいくつかの箇所の史実性や科学的妥当性が疑われたとしても、それによってキリストへの信仰が揺らぐ心配はありません。つまり、ボイドが提唱する信仰モデルの方が、より柔軟で安定した構造を持っていると言えるのではないかと思います。
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ボイドが提唱する聖書と信仰のモデルは、特に現代社会で生きるクリスチャンにとって大きな意義を持っていると思われます。価値観の多元化と情報化が進んだポストモダンの社会において、キリスト教信仰はかつてない挑戦を受けています。そのような中で、「トランプの家」的な信仰モデルは柔軟性に欠け、クリスチャンが自己の信仰を知的に吟味し、世界観を拡張し、成長していくニーズに対応する力が弱いと思われます。しかし、ボイドのモデルでは、イエス・キリストとの人格的関係に土台を置いていくために、様々な知的挑戦によって多少の疑いや不確実性が生じたとしても、このお方との関係にコミットし続けることは十分に可能となります。
それだけでなく、このような信仰モデルは聖書的なものであると思われます。イエスの弟子たちは、旧約聖書を権威ある神のことばと信じていましたが、旧約聖書の綿密な釈義によってイエスがキリストであるという確信に至ったわけではありません。その逆に、イエスとの生きた出会い(特に復活のできごと)を通してイエスがキリストであると確信するようになったからこそ、彼らは旧約聖書がイエスを指し示しているということが分かるようになったのです。つまり、使徒たちの聖書解釈はイエスとの人格的関係という土台の上に乗っていたのであって、その逆ではありません。(これについては、以前「使徒たちは聖書をどう読んだか」というシリーズで取り上げましたので、そちらをご覧ください)。
最後に、このモデルでは、聖書の無誤性を擁護することが至上命令ではなくなりますので、聖書記述のあらゆる細部の真実性を水も漏らさぬように弁証するために全精力を費やす必要から解放されます(この「戦い」は困難であるだけでなく、学問の進歩に伴い常に新しい挑戦が生じてくるので、終わることがありません)。信仰者がその分のエネルギーと情熱を、キリストとの生きた人格的関係を育むために注いでいくことができるとしたら、そちらのほうがはるかに好ましいのではないかと、個人的には考えています。
(続く)