確かさという名の偶像(15)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第7章「具体化した信仰」を取り上げます。

ボイドは人が何かを「信じる」とはどういうことかについて論じます。何かを信じるという行為は、私たちの具体的な人生と遊離したものではありません。プラグマティズムの哲学者チャールズ・パースの理論を援用して、ボイドは次のように言います。

何かを信じるとは、人がある特定の状況が起こったとき、特定の方法で応答するということである。したがって、人がその信念を反映する方法で行動しようとしないならば、その人はたとえそのことを信じていると主張していたとしても、それを本当には信じていないのである。(p. 129)

これは信仰の問題とどう関わってくるのでしょうか?もしクリスチャンがあることがらを信じていると主張したとしても、その信仰の通りに行動していないなら、その人は本当の意味では信じていない、ということになります。ですから、ヤコブの有名な言葉「行いのない信仰も死んだものなのである。」(ヤコブ2章26節)は、信仰だけでは不十分で善行もしなければならない、という意味ではなく、真の信仰はそこから導かれる選択や行動と切り離すことができない、ということなのです。

このような信仰理解は、前回まで見てきたような人格的契約covenant概念と密接な関係があります。そして、ボイドはそのような信仰理解は、今日アメリカで(そしておそらくは日本でも)広く見られる信仰理解とは大きく異るものであると言います。多くのクリスチャンは、彼らの信仰にとって最も大切なのは、過去のある時点でキリストを受け入れる信仰告白をしたことにより、「イエスと法律的契約関係に入った」ことであると考えています。そのようなクリスチャンにとって、救いの確信の根拠となるのは、過去にそのような契約を交わしたという事実であり、現在において、キリストに人生を捧げて生きることによって、その誓いにふさわしく生きることではないのです。

その結果、人生を変革するはずの人格的契約関係は、安っぽい取引の幻影、ヤコブの言う「死んだ信仰」に置き換えられてしまいます。ある調査によると、キリストを信じると告白するアメリカ人は、非キリスト教徒のアメリカ人とまったく同じように時間とお金を使っており、ほとんどが同じように物質主義的で個人主義的な価値観を持っていることが明らかになったそうです(日本での統計は分かりませんが、それほど大きな違いはないかもしれません)。つまり、このような信仰理解は世の文化を変革するどころか、それに迎合・同化されていってしまいます。彼らは「イエスは主である」と信じていると公言しながら、主であるイエスに仕えるようには生きていないのです。

これに対して、ボイドが提唱する人格的契約関係に基づく信仰理解においては、私たちはキリストを救い主として信じて生涯を捧げる誓いをする時に、彼と婚約関係に入ることになります。この時私たちは「イエスが主である」という命題を100パーセント確信している必要はないとボイドは言います。たとえ多少の疑いがあったとしても、イエスを主と仰ぐ人間にふさわしく行動し、誠実に生きていくために必要なだけの確信さえあれば十分なのです。

このような信仰人生は、これまでのシリーズで見てきたような、「確実性追求型」信仰の持つ様々な問題点を回避することができます。そのような信仰を持つ人は、疑いを恐れる必要がありません。そして、自分が間違っているかもしれないという可能性を受け入れることができ、したがって常に他者から学ぼうとする姿勢があります。

他者との関係だけではありません。神との関係においても、このような信仰の姿勢を持つ人は常に成長していくことができます。その反対に、もし私たちがすでに「完成した神学」(もしそんなものがあるとすればの話ですが)に私たちの心の拠り所を求めていくなら、どのような神学にも収まりきらない神ご自身とのダイナミックな愛の関係というアドベンチャーに乗り出していく機会をみすみす失ってしまうことになるでしょう。

そして、ボイドは本書のタイトルでもある、「疑いの益」について語ります。

真の生きた信仰は決して目的地ではない。それは旅である。そしてこの旅に出かけていくためには、私たちは疑いを活用していく必要がある。ある種の疑いは、私たちがキリストとの人格的契約関係の構築をめざしていく際に適している。なぜなら、私たちは自分の信仰を何にそして誰に土台していくかを理性的に決断していかなければならないからである(第8章参照)。さもないと、私たちの信仰のコミットメントはただ偶然に基づいたものになってしまう。けれども、今私が語っているような種類の疑いは、私たちのキリストとの人格的契約関係の内側における葛藤に関するものなのである。(p. 151)

したがって、私たちは疑いを持ったからといって、キリストとの人格的契約関係が揺るがされることはありません。その逆に、ある種の疑いは私たちとキリストとの関係を深め、強めるために役立つのです。ボイドは言います。「疑いは人格的契約による信仰の敵ではない。それはどうしても必要な同伴者なのである。」(p. 154)。

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(続く)