確かさという名の偶像(14)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き第6章「法的取引から愛の結びつきへ」を取り上げます。

前回は「法律的契約contract」と「人格的契約covenant」の違いについて考察しました。ボイドによると、聖書における神と人間との関係は基本的に後者にもとづく関係です。この人格的契約関係を理解するために最も適切なアナロジーは、結婚のアナロジーであるとボイドは言います。今回はこのことについて見ていきましょう。

信仰の本質とは、私たちの天の花婿としてのキリストのうるわしい人格を信頼することであり、その尽きることのない愛によって内側から造りかえられることであり、その誠実な配偶者として、その愛と意思とが「天に行われるとおり、地にも行われ」るように、御霊の力によってますますそれらを反映して生きていくことがどのようにできるかを学ぶことである。(p. 120)

神と人との間に結ばれた最後の契約は、イエス・キリストを通して結ばれた「新しい契約」(ルカ22章20節、ヘブル9章15節)です。ボイドは、新約聖書がたびたびこの契約について結婚のアナロジーを用いて語っていることに注意を向けます。旧約聖書においても神はイスラエルの夫として描かれていましたが(エレミヤ31章32節、ホセア2章16節など)、新約聖書ではキリストが教会の花婿として描かれています(マタイ25章1-13節、ヨハネ3章29節など)。パウロは教会をキリストの婚約者として描いています(エペソ5章25-33節、2コリント11章2節ほか)。そして黙示録では、終末における神の民の救いの完成が「小羊の婚姻」として描かれています(19章7、9節、21章2、9節、22章17節)。キリストを通して結ばれた新しい契約の関係は、花婿であるキリストと、花嫁である神の民(教会)との間に結ばれる人格的契約covenant関係なのです。

wedding-322034_1920

しかし、ここで注意しなければならないのは、新約聖書によると、キリストと教会との結婚はまだ完結していないということです。古代ユダヤの結婚は二段階に分かれていました。男女の結婚が決まると、実際に一緒に住み始めるまでに一定の婚約期間を過ごしたのです。ユダヤの「婚約」は単なる約束ではなく、法的には二人は夫婦であり、この関係は死別か離婚によってのみ解消されるものでした。この婚約期間が終わると婚宴が行われ、二人は肉体的にも一つになり、共同生活を始めるようになります。

さて、キリストと教会との「結婚関係」を考える時、キリストの再臨までの期間はまさにこの「婚約期間」ということができます。例えばパウロはコリントのクリスチャンたちに対して次のように言っています。

わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。(2コリント11章2節)

ここには新約聖書の終末論に特徴的な「すでに」と「いまだ」の両側面が表れています。契約から言えばキリストと教会は「すでに」夫婦であるといえますが、両者の最終的な合一は「いまだ」実現していません。それは花婿であるキリストが花嫁である教会を迎えに天から来られる時に実現するのです(黙示録19章6-8節)。ですから、教会は「キリストの花嫁」であるとよく言われますが、より正確に言えば、教会は「キリストの許嫁」なのです。私たちは婚約者が結婚式を待ち焦がれるように、キリストと最終的に一つになる終末の時を待ち望みつつ、今を生きているのです。

さて、この結婚と婚約の概念は、新約聖書の教える「救い」を理解するためにたいへん重要です。ボイドは次のように言います:

キリストを信頼して人生を彼に捧げることを誓うとき、私たちはキリストが十字架の上で提供してくださった結婚の申し出に対して「誓います!」と言っているのである。私たちは、三位一体の神の愛を永遠に共有し、来るべき世で花婿キリストと共同統治するように定められた、彼の花嫁としての共同体の一員となるのだ。イエスが帰って来られて、地上に神の国を完全な形でうち立てられるまでは、私たちはこの結婚を完結させることはないが、私たちはその時が来るまでただことが起こるのを待っているわけではない。そうではなく、この婚約期間中に私たちは、イエスが贖いに来られる忠実で光り輝く花嫁にどのようになっていくのかを学ぶのである。(p. 125)

このように、クリスチャンがキリストの婚約者として忠実に生きるとは、将来の再臨に備えて生きることです。このような再臨に先立つ準備には、御霊の力によってキリストの似姿に変えられていくことや、からしだねのような神の国を地上で拡大していくために、神から与えられた権威を行使すること、愛の実践によって悪の力に打ち勝つこと、思考パターンや行動をキリストの愛なる支配に従わせていくことなどが含まれます。そしてボイドによると、これらすべては「救い」に含まれると言うのです。つまり、新約聖書が教える「救い」とは「無罪判決を受け、天国行きの切符を手にした」という過去のできごとだけに関わるものではありません。新約聖書は救いについてすべての時制で語っています:私たちはすでに救いを得ましたが(ローマ8章24節、エペソ2章5節など)、現在も救いを達成しつつあり(1コリント1章18節、2コリント2章15節)、将来救いが完成する(ローマ5章10節、1コリント3章15節)のです。

このような救いの概念は人格的契約covenantの枠組みの中ではじめて本当の意味で理解することができます。なぜなら、そこで重要なのは特定の信条、たとえば過去になされた救いのできごとについて確信を持つことよりも、キリストに対する人格的信頼関係に基づいて今を忠実に生きることだからです。ボイドはこのことを次のようにまとめています:

私たちの天の花婿は、十字架の上でいのちを捨てることによって、私たちに結婚の申込をしてくださった。私たちは彼に対して信仰を持つことによって、このプロポーズに対して「誓います」と言い、救いに入る。この信仰は、約二千年前に十字架にかかったお方が神の御子であるということを信じることが前提となってはいるが、この確信それ自体は信仰ではない。私たちは、彼を信頼し彼から信頼されるような花嫁として生きる人生に献身することによって、この確信に基づいて行動するとき、救いをもたらす信仰を働かせていることになる。そして私たちが最初にこの誓いを行った瞬間(私たちが救われたとき)はたしかにあったが、私たちがその誓いに基づいて忠実に現在を生きる(私たちは救われつつある)限りにおいてのみ、この過去の誓いは重要性を持つのである。したがって、重要な問題は「あなたはかつてキリストに人生を捧げたか?」ということではない。大切なのはむしろ、「あなたは現在において信頼できる配偶者として生きることによって、かつてキリストに捧げた誓いを尊んでいるか?」という問題なのである。(p. 127)

*     *     *

新約聖書における信仰(ギリシア語はピスティス)は単なる心理学的・知的理解(正しい教理を確信を持って信じる)ということだけでなく、神に信頼して生きる全人的態度を言います。ですからこの「ピスティス」は「誠実・忠実」と訳されることもあります。これは昔の侍が主君に対して持っていた「忠義」に近い概念とも言えます。あるいはボイドがここで論じている結婚のアナロジーで言うと、婚約者に対する誠実な態度に比べることができるものです。それは単なる知的理解を超えて、実際の行動やライフスタイルに現れてくるものでなければなりません。

神の知的認識という意味の信仰なら悪魔も持っています(ヤコブ2章19節)が、それが信仰者にいのちをもたらすわけではありません。福音派プロテスタント教会はしばしば「神(キリスト)との個人的な関係」を強調しますが、その実際の信仰理解がボイドが批判しているような心理学的・知的理解にとどまっていることが多いのは皮肉なことであり、残念なことと言わざるを得ません。キリストの花嫁(許嫁)としての信仰者(教会)の使命は、正しい教理を信じ(それは重要ですが)、疑いを排除してその確信をいかに保ち続けるかに腐心することよりむしろ、キリストとの人格的信頼関係の中で、時に疑いや葛藤を抱えながらも、その契約covenantにコミットしつづけ、キリストの婚約者にふさわしく語り・行動し、そのような存在に作りかえられていくことなのです。

(続く)