確かさという名の偶像(12)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、前回から第2部「真の信仰」に入りました。今回は第5章「空に向かって叫ぶ」を取り上げます。

前回見た第4章では、旧約聖書に見られるイスラエルの信仰は、神に対して正直に向き合い、時には神と格闘することも辞さない信仰であるということを見ました。それでは、新約聖書においてはどうでしょうか?ある人々は、「新約聖書では旧約聖書よりも完全な啓示が与えられているので、キリスト者にとっての信仰の概念は旧約時代の人々とは異なる」と考えるかもしれません。しかしボイドは、新約聖書においてはイエス・キリストという形で神が究極的な自己啓示を行われたので、確かに信仰の内容は旧約時代とは異なっているけれども、「信仰を持つとはどういう意味か」ということに関しては、旧約時代といささかも変わっていないと主張します。この章でボイドは新約聖書における信仰、それもイエス・キリストご自身の信仰について見ていきます。

「疑いを排除しない信仰」「神と格闘する信仰」・・・このような概念は、イエスその人にはまったく当てはまらないように思われるかもしれません。結局のところ、イエスこそ「 信仰の導き手であり、またその完成者」(ヘブル12章2節)であり、完全な信仰の模範を示してくださった方ではないのでしょうか?しかし、ボイドはそのような考え方は、信仰と疑いを相反するものととらえる「確実性追求型信仰」の発想から出たものであるといいます。もし疑いや葛藤を持つことが信仰を持つことと矛盾するのであるなら、イエスが父なる神と格闘されることがあるなら、それは彼の信仰が揺らいだことを意味し、罪ということさえできるかもしれません。それはイエスが罪のない生涯を送られたという、正統的キリスト教の立場ではありえないことです。しかし、前回見たような「イスラエル的信仰」が真正な聖書的信仰であるとすると、イエスがそのような形の信仰を示されたとしてもまったく不思議はないのです。ボイドは言います:

たしかに、イエスは私たちと同様、本物の誘惑を受けられたものの、罪と葛藤されたことはなかった(ヘブル4章15節)。しかしそれはイエスは決して葛藤されなかったということではない。なぜなら、すべての葛藤が罪深いというわけではないからだ。私たちの葛藤の多くは、ただ単に私たちが人間であることの結果に過ぎないのである。したがって、たとえば完全な人間としてイエスは、私たち他の人間と同じように「苦しみによって従順を学」ばれた(ヘブル5章8節)。それだけでなく、これから見るように、イエスは信仰に関することについてさえ葛藤された。それはまさに、私の意見では、イエスが持たれたような完全な信仰とは葛藤と無縁な信仰ではない、ということを示している。それはむしろ、すすんで率直に葛藤しようとする信仰なのである。(p. 93)

ボイドはこのようなイエスの格闘を伝えている箇所として、ゲツセマネの園とゴルゴタの丘におけるできごとを取り上げます。十字架を目前としたイエスはゲツセマネの園で父なる神に祈られました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26章39節)。ここでイエスは、十字架の苦しみ(それは単なる肉体的な苦痛だけでなく、人類の罪をその身に引き受け、父なる神から断絶されるという壮絶な霊的苦痛も意味しました)をもしできることなら避けたいという願いを父に申し上げたのです。

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ジュラ・ベンツール「オリーブ山上のキリスト」

しかし、十字架以外の道はありませんでした。イエスはその後に「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(同)と祈られ、父のみこころに従う道を選ばれました。しかし、その前にイエスが十字架を避ける道を求められたという事実は、イエスの従順は彼が信仰の葛藤を覚えられたことと矛盾するものではないことを示しています。ここからボイドは次のように述べます:

あなたの葛藤が疑いや混乱、神の御心を受け入れる困難さ、あるいは他のどのようなことがらについてのものであれ、あなたが葛藤しているということは信仰がないということを意味するわけではない。それどころか、あなたの信仰の強さは、あなたが正直に葛藤を受け入れようとする度合いに比例するのである。(p. 93)

そして、イエスの最もはげしい葛藤はゴルゴタの丘で起こりました。彼は十字架の上で 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ばれたのです。十字架の死は永遠の昔から定められていたにもかかわらず、ここでイエスは「なぜ?」と父に問いかけているのです。

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ルーベンス「十字架のキリスト」

 「確実性追求型」の信仰からすると、この決定的な瞬間にイエスは疑いを持ったので罪を犯したということになるか(それはイエスには罪がなかったという聖書の証言と矛盾します)、あるいはこのことばは彼の本心からの叫びではなかったということになり(この場合はイエスの苦しみや神からの断絶の純粋性が疑われます)、どちらにしても問題があります。けれども、聖書的な信仰が、神と格闘することを恐れない真正な信仰であるならば、イエスが十字架上で示された信仰は、まさに完璧な「イスラエル的信仰」であったということができるのです

*     *     *

この章ではボイド自身の人生における信仰の一大転機についても語られています。キリストに対する信仰を持ってまもなく、習慣的な罪からどうしても解放されることができず、絶望のどん底にまで追い詰められたボイドは、ある夜ついに感情を爆発させ、ありったけの怒りと悲しみ、絶望を神にぶつけます。原書に記述されたその時の叫びは、冒涜的とも言えるほど激しい内容ですが、少なくともそれは正直でリアルな心からの叫びでした。ボイドは、彼が神に対して正直になった時にはじめて、神は彼に対してリアルになってくださったと言います。その直後に開かれた聖書の箇所(ローマ8章1節「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」)を通して、彼の信仰は一変することになるのです。彼は言います:

真正さは聖書的な信仰の基礎である。なぜなら真の関係は、それに関わる当事者がリアルである度合いに応じてリアルになるからだ。そして私たちと神との関係がリアルなものとならないうちは、それは決して人を変革するものにはならない。それはただ宗教的な見せかけを生む、まがいものの関係にとどまるのである。私たちの内側にある醜さは、そのような関係によっては決してつくり変えられることはない。それはただ隠されるだけである。(p. 108)

真の聖書的信仰は、ありのままの自分を神の前に差し出す率直な信仰です。そして、新約聖書に描かれているイエス・キリストは、その信仰の完璧なモデルを提供しているのです。

(続く)